芽吹く
翌朝の井戸端には、昨日の張り詰めた空気など嘘のように、やわらかな陽光と澄んだ水音が満ちていた。
「というわけで――!」
ミツはこれ見よがしに大きく咳払いをすると、両手を腰に当てて胸を張った。
「ヒシンと晴れて、恋仲になりました!」
跳ねるような宣言が井戸の丸石に反響し、ほんの一瞬、静寂が落ちる。
そして。
「よかったです――!」
サクが勢いそのままに、泣きながらミツへ飛びついた。
「わ、私、本当に心配で……! もう、ずっと、ずっと……!」
「ちょ、重い重い!」
じたばたともがきながらも、ミツはサクの大柄な背中を受け止め、ぽんぽんとあやすように叩いた。
「ごめんごめん、心配かけたね。もう大丈夫だからさ」
そう言ってからからと笑うミツの目元には、昨日腫らすほど流した涙の痕跡など微塵も残っていなかった。
朝露を弾く野花のようにみずみずしく、晴れやかな光を宿している。
そのやり取りを少し離れたところで見ていたチガヤが、小さく息を吐く。
「……まあ、良かったんじゃない」
口調こそいつも通りの無愛想な響きを保っていたが、その底にはトゲのない、確かな安堵が滲んでいる。
「無駄に拗らせたまま後味悪く終わられるのが、一番面倒だし」
「言い方!」
ミツがすかさず頬を膨らませる。
だが、文句を言う声とは裏腹に、目元には笑みが浮かんでいた。
その時だった。
向こうの木陰で、やけに賑やかな気配がした。
「……あれ」
サクが気づく。
視線の先――
水汲みの桶を抱えた若い娘たちが三、四人、鈴なりになって一人の男を取り囲んでいる。
言わずもがな、ヒシンだった。
(……ま、まずい)
サクは恐る恐る、ミツの方を見る。
ミツの目も、じっとその光景を見つめていた。
笑っている。
口元には、確かに笑みが浮かんでいる。
しかし――
場の空気が、じわじわと重さを増していくような気がした。
「……いいわけ? あれ」
チガヤが面白がるでもなく、ただ淡々と事実を拾うように問いかける。
サクは息を呑んで首をすくめた。
ミツは、にこやかな笑みを崩さぬまま、さらりと返した。
「いいの」
迷いのない即答だった。
「モテる男を射止めたんだからさ、こっちとしては鼻高々ってもんよ」
その堂々たる啖呵に、チガヤは意外そうに眉をわずかに上げ、感心したように息を吐いた。
「へえ、余裕じゃん」
「でしょ?」
ミツは得意げに胸を張る。
ただし。
その目線は、遠くで娘たちに愛想笑いを浮かべるヒシンの顔に、寸分の狂いもなく突き刺さったままだった。
サクがおずおずと、消え入りそうな声で尋ねる。
「……本当にいいんですか……?」
「いいの」
ミツは再び即答した。
そして、そのあと。
ぼそっと付け足す。
「あとで締めるから」
その瞬間。
からりと乾いた風が吹き抜け、三人を取り巻く沈黙を奇妙な緊張感で満たした。
遠くでは、何も知らぬヒシンが娘たちの黄色い声にたじたじとなり、どうしたものかと頭を掻いている。
ミツは細めた目でその間抜けな姿をじっと見つめ、やがて、ふうと小さな息をこぼす。
「……ま、今は許してやるけどね」
呟かれた声音は、先ほどまでの刺々しさを綺麗に溶かし、ただ愛おしさだけを含んだやわらかな響きを帯びていた。
サクは、井戸の縁に手をついて遠くを見つめるミツの横顔を、まじまじと見つめた。
(……ミツさん、すごく綺麗になった)
恋をすると人は変わる、などと誰かが言っていた陳腐な言葉が、今なら痛いほど理解できた。
ただ顔立ちが整っているとか、可愛いとか。
そういうものじゃない。
誰かに真っ直ぐ愛され、誰かを心から信じている者だけが放つ、胸の底から湧き上がるような――
そんな穏やかな光が、自然と滲み出ているようだった。
( 恋、かぁ……)
満たされたミツの横顔に当てられ、ぽうっとした心地のまま、サクは何気なく視線を横へと滑らせた。
――チガヤへと。
その瞬間。
チガヤの瞳と、真正面からぶつかった。
空気が止まる。
風の音が、やけに遠く感じられた。
チガヤは、いつもの気だるげで冷めた顔をしている――はずだった。
なのに。
サクと視線が交わった刹那、その薄い唇の端が、ほんのわずかに、微かに持ち上がったのだ。
笑った、と呼ぶにはあまりに淡く、誰にも気づかれないような小さな綻び。
(……っ!?)
ドクン、と心臓が跳ね上がった。
肋骨の内側を激しく叩かれたような衝撃に、肺の中の空気が一気に抜け落ちていく。
瞳が金縛りに遭ったように動かない。
逸らしてしまえば、今目にした奇跡のような一瞬が、最初から自分の見間違いだったことになってしまいそうで――
気づけば、視界のすべてがチガヤで埋め尽くされていた。
(あ……)
からからに乾いた喉の奥で、小さな吐息が詰まった。
否定しようのない輪郭が、胸の真ん中にくっきりと浮き彫りになっていく。
胸の奥をぎゅっと掴まれて。
甘くて。
くすぐったくて。
息が苦しくなるような、落ち着かない熱――
サクの胸の奥深くに眠っていた小さな種が、音を立てて柔らかな芽を吹き始めていた。




