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ヒシン




「待(ま)て、ミツ!」



 ヒシンは、追(お)いついた瞬間(しゅんかん)に息(いき)を切(き)らしていた。


 一歩(いっぽ)で踏(ふ)み込(こ)み、その腕(うで)を掴(つか)む。



「っ……!」



 引(ひ)き寄(よ)せられる形(かたち)で、ミツの身体(からだ)が止(と)まる。



「やだ! 離(はな)して!」



 途端(とたん)、ミツは激(はげ)しく身(み)を捩(よじ)った。


 細(ほそ)い身体(からだ)なのに、驚(おどろ)くほどの力(ちから)だった。


 振(ふ)り返(かえ)った顔(かお)は、涙(なみだ)と鼻水(はなみず)でぐしゃぐしゃになり、目(め)だけが必死(ひっし)にヒシンを睨(にら)みつけていた。



「ひどいよ……!」



 声(こえ)が裏返(うらがえ)る。



「私(わたし)の気持(きも)ち……ぜんぶ知(し)ってるくせに! ずっと、わかってたくせに!」



 ヒシンはその言葉(ことば)に、一瞬(いっしゅん)だけ息(いき)を詰(つ)まらせた。


 掴(つか)んだ腕(うで)が熱(あつ)い。


 ここまで追(お)い詰(つ)めていたのか、と遅(おく)れて理解(りかい)が来(く)る。



「私(わたし)のことなんて、どうでもいいなら――いっそ突(つ)き放(はな)してよ!」



 叫(さけ)びながら、ミツはなおも暴(あば)れる。


 だが、その動(うご)きはどこか弱々(よわよわ)しく、泣(な)き崩(くず)れる直前(ちょくぜん)の揺(ゆ)れに似(に)ていた。



 ヒシンの喉(のど)が鳴(な)る。



「――どうでもいいわけ、あるかよ!」



 思(おも)わず出(で)た声(こえ)は、鋭(するど)く、切(き)り裂(さ)くようだった。



 その瞬間(しゅんかん)、ミツの動(うご)きが止(と)まる。


 泣(な)き顔(がお)のまま、ぽかんとする。


 風(かぜ)が通(とお)り抜(ぬ)ける音(おと)だけが残(のこ)った。



 ヒシンは、乱(みだ)れた呼吸(こきゅう)のまま視線(しせん)を落(お)とす。



「……あー……くそ」



 低(ひく)く吐(は)き捨(す)てるような声(こえ)。

 


「まだ、こんなところで言(い)うつもりじゃなかったのによ……」



 ミツの肩(かた)を掴(つか)んだまま、ゆっくりと引(ひ)き寄(よ)せる。


 抵抗(ていこう)は、もうない。


 ただ、どう受(う)け止(と)めていいのか分(わ)からないまま、身体(からだ)が固(かた)まっている。



「ミツ」



 名(な)を呼(よ)ぶや否(いな)や、ヒシンは彼女(かのじょ)の身体(からだ)を強(つよ)く抱(だ)き寄(よ)せた。


 強(つよ)くもなく、弱(よわ)くもなく。


 崩(くず)れそうなものを支(ささ)えるような抱擁(ほうよう)だった。



「――お前(まえ)が好(す)きだ」



 空気(くうき)が止(と)まる。


 周囲(しゅうい)の音(おと)が一瞬(いっしゅん)、遠(とお)のいたように感(かん)じられるほどの静寂(せいじゃく)。



 ミツは、理解(りかい)が追(お)いつかない顔(かお)のまま、ヒシンの胸元(むなもと)を見(み)つめていた。


 そして、遅(おく)れて感情(かんじょう)が決壊(けっかい)する。



「……っ、う……」



 声(こえ)にならない息(いき)が漏(も)れた。


 次(つぎ)の瞬間(しゅんかん)、堰(せき)を切(き)ったように涙(なみだ)が溢(あふ)れる。


 つい先(さき)ほどまで渦巻(うずま)いていた怒(いか)りも、不安(ふあん)も、いつの間(ま)にか消(き)えていた。


 ただ、涙(なみだ)だけが止(と)まらなかった。



 ヒシンは抱(だ)く腕(うで)の力(ちから)を少(すこ)しだけ強(つよ)めた。



「……俺(おれ)はさ」



 低(ひく)い声(こえ)が、ミツの頭上(ずじょう)に落(お)ちる。



「まだ半人前(はんにんまえ)だし、富(とみ)も地位(ちい)も、学(がく)も……何(なに)にも持(も)ってねぇし……」



 言葉(ことば)は途切(とぎ)れがちで、それでも続(つづ)く。



「お互(たが)い……今(いま)まで苦労(くろう)して生(い)きてきた分(ぶん)……今後(こんご)も、お前(まえ)には苦労(くろう)させたくないって思(おも)っててさ」



 ミツの肩(かた)が小(ちい)さく揺(ゆ)れる。



「だから……ちゃんとしてから、一人前(いちにんまえ)になってから言(い)うつもりだったんだよ」



 その最後(さいご)の言葉(ことば)は、少(すこ)しだけ苦笑(くしょう)混(ま)じりだった。


 言(い)い終(お)えたあとも、ヒシンはすぐには離(はな)さない。


 ただ、泣(な)き続(つづ)けるミツの熱(ねつ)を、確(たし)かめるように受(う)け止(と)めていた。 



「でも……」



 喉(のど)の奥(おく)で、もう一度(いちど)詰(つ)まる。



「お前(まえ)が、あんな顔(かお)して離(はな)れていくの見(み)たら……全部(ぜんぶ)、吹(ふ)っ飛(と)んじまった」



 ミツの指(ゆび)から、わずかに力(ちから)が抜(ぬ)ける。



「ちゃんとしてから、とか……そんなの待(ま)ってたら、お前(まえ)、いなくなる気(き)がして――」



 声(こえ)が少(すこ)しだけ掠(かす)れる。



「それだけは嫌(いや)だった」



 沈黙(ちんもく)が落(お)ちる。


 さっきまでの騒(さわ)ぎとは違(ちが)う、静(しず)かで重(おも)い沈黙(ちんもく)。


 けれど今度(こんど)は空白(くうはく)ではない。


 中身(なかみ)がある沈黙(ちんもく)だった。



 ミツは顔(かお)を上(あ)げられないまま、小(ちい)さく息(いき)を吸(す)う。



「……そんなの、どうでもいいのに……」



 かすれた声(こえ)。



「何(なに)も持(も)ってないとか……ちゃんと、とか……」



 ヒシンは一瞬(いっしゅん)だけ目(め)を閉(と)じる。



「だよな」



 即答(そくとう)だった。



「……待(ま)たせて、ごめんな」



 ミツの肩(かた)がまた揺(ゆ)れる。


 次(つぎ)の瞬間(しゅんかん)、彼女(かのじょ)はヒシンの胸(むね)に額(ひたい)を押(お)しつけるようにして、声(こえ)を漏(も)らした。



「……ばか」 

 


 その声(こえ)は怒(おこ)っているというより、力(ちから)が抜(ぬ)けた声(こえ)だった。


 ヒシンは少(すこ)しだけ腕(うで)の力(ちから)を強(つよ)める。



「ほんとに、ばかだよな」



 小(ちい)さく自嘲(じちょう)して、しかし離(はな)さない。



「……私(わたし)も」



 ミツが小(ちい)さく呟(つぶや)いた。


 泣(な)き声(ごえ)の合間(あいま)に、かすれるような声(こえ)だった。



「私(わたし)も好(す)きだよ、ヒシン――」



 その言葉(ことば)が落(お)ちた瞬間(しゅんかん)、空気(くうき)が静(しず)かになった。


 風(かぜ)の音(おと)だけが、やけに近(ちか)く感(かん)じられる。



 ヒシンは一瞬(いっしゅん)、動(うご)けなかった。


 抱(だ)きしめたままの腕(うで)が、少(すこ)しだけ固(かた)まる。



「……そうか」



 ようやく出(で)た声(こえ)は、それだけだった。



 飾(かざ)る言葉(ことば)も、粋(いき)な返(かえ)しも見(み)つからない。


 けれどその短(みじか)い返答(へんとう)の中(なか)には、胸(むね)を突(つ)くほどの安堵(あんど)と、途方(とほう)もない気恥(きは)ずかしさが混(ま)ざっていた。



 ヒシンは少(すこ)しだけ腕(うで)の力(ちから)を緩(ゆる)める。


 風(かぜ)が一度(いちど)、低(ひく)く木々(きぎ)を揺(ゆ)らす。


 その音(おと)が過(す)ぎたあと、ヒシンは小(ちい)さく息(いき)を吐(は)いた。



「……ミツ」



 呼(よ)びかける声(こえ)は、さっきよりずっと静(しず)かだった。


 ミツが顔(かお)を上(あ)げる。


 まだ涙(なみだ)の跡(あと)は残(のこ)っている。


 目(め)が合(あ)う。


 その距離(きょり)は、息(いき)が触(ふ)れそうなくらい近(ちか)い。


 どちらも、次(つぎ)に何(なに)を言(い)うか分(わ)かっていない顔(かお)だった。


 ただ、離(はな)れる理由(りゆう)も、もうなかった。


 ヒシンの手(て)が、ゆっくりとミツの頬(ほお)に触(ふ)れる。


 乱(みだ)れた髪(かみ)を軽(かる)く払(はら)うみたいな、慎重(しんちょう)な動(うご)き。



 ミツは逃(に)げない。


 むしろ、少(すこ)しだけ目(め)を閉(と)じた。


 その仕草(しぐさ)で、答(こた)えはもう十分(じゅうぶん)だった。



 ヒシンはほんのわずかに身(み)をかがめる。


 呼吸(こきゅう)が重(かさ)なる。


 次(つぎ)の瞬間(しゅんかん)、触(ふ)れるだけの、短(みじか)い口(くち)づけだった。


 確(たし)かめるように、そっと。


 時間(じかん)が止(と)まったような一瞬(いっしゅん)のあと、すぐに離(はな)れる。



 ミツの目(め)が、ゆっくり開(ひら)く。


 驚(おどろ)きと、まだ消(き)えない照(て)れが混(ま)ざった顔(かお)だった。


 ヒシンは視線(しせん)を逸(そ)らす。



「……悪(わる)い」



 小(ちい)さく言(い)って、耳(みみ)のあたりが少(すこ)し赤(あか)い。


 ミツはしばらく固(かた)まっていたが、やがて、ふっと力(ちから)が抜(ぬ)けたように笑(わら)った。



「謝(あやま)らないでよ」



 その声(こえ)は、もう泣(な)いていなかった。


 ヒシンは短(みじか)く息(いき)を吐(は)く。



「……だな」 



 そう言(い)って、今度(こんど)はちゃんとミツの手(て)を握(にぎ)る。


 離(はな)さないように。


 今度(こんど)は、最初(さいしょ)からそう決(き)めているみたいに。


 指(ゆび)と指(ゆび)が重(かさ)なる。


 さっきまで震(ふる)えていたミツの手(て)は、まだ少(すこ)し冷(つめ)たかった。


 けれど、その手(て)はもう逃(に)げようとはしなかった。


 むしろ、確(たし)かめるように、そっとヒシンの手(て)を握(にぎ)り返(かえ)す。


 その小(ちい)さな力(ちから)に、ヒシンは思(おも)わず目(め)を細(ほそ)めた。



「……泣(な)きすぎ」



 照(て)れ隠(かく)しのように、ぶっきらぼうな声(こえ)で言(い)う。


 ミツは鼻(はな)をすりながら、じろりと睨(にら)んだ。



「誰(だれ)のせいだと思(おも)ってるの」



「俺(おれ)」



 即答(そくとう)だった。


 ミツは一瞬(いっしゅん)きょとんとして、それからとうとう吹(ふ)き出(だ)した。


 涙(なみだ)の跡(あと)を残(のこ)したまま笑(わら)う顔(かお)は、さっきまでの泣(な)き顔(がお)が嘘(うそ)のようだった。


 その笑顔(えがお)を見(み)て、ヒシンもようやく肩(かた)の力(ちから)を抜(ぬ)く。



「……その顔(かお)だよ」



「え?」



「俺(おれ)が、ずっと好(す)きな顔(かお)」



 ミツの目(め)が丸(まる)くなる。


 そして次(つぎ)の瞬間(しゅんかん)、みるみるうちに顔(かお)が赤(あか)くなった。



「なっ……!」



「おい、そんな真(ま)っ赤(か)になるなよ」



 ヒシンはたまらず片手(かたて)で頭(あたま)を乱暴(らんぼう)に掻(か)いた。



「言(い)ってるこっちまで恥(は)ずかしくなるだろ」



「言(い)ったのヒシンじゃん!」



「そうだけどよ……」



 木漏(こも)れ日(び)の揺(ゆ)れる森(もり)のなかに、柔(やわ)らかな笑(わら)い声(ごえ)が溶(と)けていく。


 さっきまで二人(ふたり)を縛(しば)りつけていた冷(つめ)たい息苦(いきぐる)しさは、通(とお)り抜(ぬ)ける風(かぜ)の彼方(かなた)へと、跡形(あとかた)もなく消(き)え去(さ)っていた。




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