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逃げ道のない




 完全《かんぜん》に矛先《ほこさき》を向《む》けられたヒシンは、一瞬《いっしゅん》、呼吸《こきゅう》の仕方《しかた》を忘《わす》れたように固《かた》まった。


 喉《のど》が小《ちい》さく上下《じょうげ》する。


 けれど、声《こえ》が出《で》ない。


 顔色《かおいろ》も、見《み》る間《ま》に悪《わる》くなっていく。


 さっきまで騒《さわ》ぎに巻《ま》き込《こ》まれていただけのはずが、気《き》づけば当事者《とうじしゃ》の真《ま》ん中《なか》に立《た》たされていた。



 ミツの問《と》いに、逃《に》げ道《みち》はない。


 脅《おど》しているわけでも、責《せ》めているわけでもない。


 ただ、知《し》りたいことを真《ま》っ直《す》ぐに向《む》けているだけだった。



「……俺《おれ》は」



 ようやく出《で》た声《こえ》は、驚《おどろ》くほど掠《かす》れていた。


 ヒシンはそこで言葉《ことば》を止《と》める。


 視線《しせん》がわずかに揺《ゆ》れた。



 その様子《ようす》を、少《すこ》し離《はな》れた場所《ばしょ》からチガヤは静《しず》かに見《み》ていた。



(まあ……今《いま》まで曖昧《あいまい》にしてきた分《ぶん》が、一気《いっき》に返《かえ》ってきたってところか)



 誰《だれ》に対《たい》しても、決定的《けっていてき》な言葉《ことば》だけは避《さ》けてきた。


 はっきり線《せん》を引《ひ》かないまま、ここまで来《き》てしまった。


 その結果《けっか》が、今《いま》だ。 


 もう、逃《に》げられる場所《ばしょ》は残《のこ》っていない。



(ここで言葉《ことば》を間違《まちが》えたら、全部《ぜんぶ》終《お》わるぞ――ヒシン)



 チガヤは静《しず》かに目《め》を細《ほそ》めた。



 一方《いっぽう》のヒシンは、知《し》らないうちに拳《こぶし》を握《にぎ》っていた。



「……関係《かんけい》ないって、そんなつもりじゃ――」



 言《い》いかけて、また止《と》まる。


 空気《くうき》がさらに重《おも》くなる。


 ミツは動《うご》かない。


 ただ、待《ま》っていた。


 追《お》い詰《つ》めることもなく。


 助《たす》け舟《ぶね》を出《だ》すこともなく。


 答《こた》えが返《かえ》ってくるのを、当《あ》たり前《まえ》のように待《ま》っている。



 ハヅキも、さすがにさっきの勢《いきお》いは消《き》えていた。


 口《くち》を挟《はさ》むこともできず、視線《しせん》だけが落《お》ち着《つ》きなく彷徨《さまよ》っている。



 ヒシンは一度《いちど》、目《め》を閉《と》じた。


 そして、小《ちい》さく息《いき》を吐《は》く。



「……俺《おれ》とミツは」



 そこまで言《い》って、また止《と》まる。


 続《つづ》きの言葉《ことば》は、まるで喉《のど》の奥《おく》で引《ひ》っかかってしまったように出《で》てこなかった。



 沈黙《ちんもく》が落《お》ちる。


 重《おも》いというより、何《なに》もない空白《くうはく》のような沈黙《ちんもく》だった。


 その空白《くうはく》に耐《た》えられなくなったのは、ミツのほうだった。 



「……もういい」



 小《ちい》さく。


 けれど、はっきりとした声《こえ》。



 次《つぎ》の瞬間《しゅんかん》、ミツは踵《きびす》を返《かえ》した。

 


「ミツ――!」



 ヒシンが反射的《はんしゃてき》に手《て》を伸《の》ばす。


 だが、それより早《はや》く、ミツは駆《か》け出《だ》していた。


 揺《ゆ》れる背中《せなか》が、一瞬《いっしゅん》だけ見《み》える。


 それだけで十分《じゅうぶん》だった。



 泣《な》いている。



 そう分《わ》かるには。



「……ッ、待《ま》て!」

 


 ヒシンも遅《おく》れて追《お》いかけていく。



 あとに残《のこ》ったのは、張《は》りつめた空気《くうき》だけだった。


 そして、誰《だれ》もいなくなったように感《かん》じるほどの静《しず》けさ。


 風《かぜ》が木々(きぎ)を揺《ゆ》らす音《おと》だけが、妙《みょう》にはっきり耳《みみ》に届《とど》く。



 サクは、その場《ば》に立《た》ち尽《つ》くしていた。



「……ッ!」



 喉《のど》の奥《おく》に何《なに》かが詰《つ》まったようで、うまく息《いき》ができない。


 声《こえ》にならない声《こえ》だけが、小《ちい》さく漏《も》れる。


 顔《かお》は青《あお》ざめていた。


 目《め》だけが忙《せわ》しなく動《うご》き、さっき起《お》きた出来事《できごと》を追《お》いかけようとする。 


 けれど、どこから整理《せいり》すればいいのか分《わ》からない。


 頭《あたま》の中《なか》だけが空回《からまわ》りしていた。 

 


(……まあ、こうなるか)



 チガヤは小《ちい》さく息《いき》を吐《は》く。


 気《け》だるそうに立《た》ち上《あ》がり、乱《みだ》れた衣《ころも》を軽《かる》く整《ととの》えた。


 相変《あいか》わらず表情《ひょうじょう》は薄《うす》い。


 だが、無関心《むかんしん》というわけでもない。


 間《あいだ》に入《はい》る余地《よち》はない。 


 下手《へた》に動《うご》けば、かえってこじれる。


 だから踏《ふ》み込《こ》まない。


 踏《ふ》み込《こ》めない。


 それでも――あの二人《ふたり》なら、きっとどうにかする。


 良《よ》くも悪《わる》くも。



「……そろそろ、仕事《しごと》に戻《もど》るか」 



 淡々(たんたん)と呟《つぶや》く。


 まるで何事《なにごと》もなかったような声《こえ》だった。



「こ、この状態《じょうたい》で!?」

 


 サクは思《おも》わず叫《さけ》んでいた。



「チ、チガヤくんは冷静《れいせい》すぎます……!」



 チガヤは顔《かお》を上《あ》げ、二人《ふたり》が去《さ》っていった方角《ほうがく》を一度《いちど》だけ見《み》る。



「今《いま》は俺《おれ》らじゃどうにもできないでしょ」 



 その言葉《ことば》は正《ただ》しかった。


 だからこそ、余計《よけい》につらい。


 気持《きも》ちだけが先走《さきばし》り、足《あし》が落《お》ち着《つ》かない。 



「心配《しんぱい》するのは分《わ》かるけど――」



 そんなサクを見《み》て、チガヤは軽《かる》く息《いき》を吐《は》いた。



「二人《ふたり》の問題《もんだい》は、二人《ふたり》にしか解決《かいけつ》できない」



 その一言《ひとこと》で、空気《くうき》が少《すこ》しだけ変《か》わる。


 突《つ》き放《はな》しているようでいて、ただ事実《じじつ》を置《お》いていくような言《い》い方《かた》だった。 


 サクは唇《くちびる》を噛《か》む。


 何《なに》ひとつ言葉《ことば》にできない。


 ただ。


 二人《ふたり》が駆《か》け去《さ》っていった先《さき》を、呆然《ぼうぜん》と見《み》つめ続《つづ》けることしかできなかった。




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