妖花の恋
夜が深まるにつれ、室内の闇もまた色濃くなる。
灯火の芯がパチリと小さく爆ぜるたび、黄金色の光が揺らめき、二人の影を幾重にも引き延ばしては歪ませた。
宇良の耳に届くのは、低く、淡々とした声だけだった。
感情の起伏を徹底的に削ぎ落とした、その平坦な響き。
まるで、今この空間に存在しているのは生身の男ではなく、命令を遂行するだけの、ただの「蜘蛛」でしかないのだと言わんばかりに。
「……以上が、阿久良様よりのお言葉です」
最後まで聞き終えても、宇良はすぐには言葉を返さなかった。
返すことができなかった。
胸の奥が、先ほどからずっと、どうしようもなく騒がしい。
(――また、会えた)
その事実だけが、頭の中を何度も駆け巡っている。
あの夜から半年近く。
彼は、ぱたりと姿を見せなかった。
何度も冷たい夜を迎え。
何度も手ずから灯火を吹き消し。
もう二度と見えることはないのかもしれないと。
微かな絶望を噛み締めた。
けれど。
今、こうして目の前にいる。
漆黒の衣に身を包み、不気味な渦の木面で素顔を隠し、何事もなかったかのように、いつもの「クモ」としてそこに立っている。
宇良は、そんな彼を見つめた。
仮面の奥にある顔は見えない。
けれど。
分かる。
ほんの僅かな呼吸の乱れも。
立ち去ろうとして、それでも動かないことも。
自分の存在を意識していることも。
――全部。
胸が疼いた。
嬉しくて。
愛おしくて。
どうしようもなかった。
なのに――
「……そう」
零れ落ちたのは、それだけの言葉だった。
平静な、いつもの余裕を纏った声。
自分でも可笑しくなる。
もっと他に言うことがあるでしょう、と心の中で自嘲する。
久しぶりね。
会いたかったわ。
ずっと待っていたのよ。
どうして、今まで来なかったの。
そんな言葉が、喉の奥までせり上がってきていた。
口を開けば、熱を帯びた感情がそのままこぼれ落ちてしまいそうになる。
だが、どれひとつとして口に出すことはできない。
いつも余裕のある女。
何を考えているのか分からない女。
男たちを翻弄し、相手の心を弄ぶことさえ楽しんでいるような女。
それが、宇良だった。
そういう女でいなければならなかった。
けれど。
彼が背を向け立ち去ろうとした瞬間。
宇良は、気づけば寝台から立ち上がっていた。
衣擦れの音。
一歩。
また一歩。
気づけば、彼のすぐ後ろまで来ていた。
近い。
黒衣越しにも、彼の体温が分かるような気がする。
指先を伸ばす。
触れてしまう。
ほんの僅かに。
背中へ。
「……っ」
その瞬間、男の屈強な身体がぴくりと硬直した。
宇良の胸が切なく、きゅっと締めつけられる。
(――やっぱり、覚えていてくれた)
あの夜の熱を。
あの夜の触れ合いを。
彼はまだ心と身体のどこかに留めている。
そう確信した途端、あふれんばかりの歓喜が喉元まで突き上げてきた。
「ふふ……」
思わず、笑ってしまう。
だが、その笑い声は、いつもの冷ややかなものとは似ても似つかなかった。
隠しきれない喜びと甘さが、どうしても滲んでしまう。
「あの夜も思っていたけれど……」
気持ちを隠すために、わざと軽い声を作る。
「あなたって、意外に体温が高いわよね」
からかうつもりだった。
いつものように。
けれど。
自分で言った言葉に、自分のほうが胸を高鳴らせてしまった。
あの夜の記憶が蘇る。
彼の腕。
彼の熱。
そして。
仮面の下に隠されていた、誰にも見せない顔。
「……何が、お望みですか」
低い声が落ちてきた。
その声を聞いただけで、胸が痛いほど嬉しくなる。
なのに。
宇良は答えられなかった。
言えるはずがない。
――あなたに会いたかった。
――もう一度、触れてほしかった。
――ずっと、あなたの影を追いかけて、
この部屋で待ち続けていた。
そんな剥き出しの女の情念など。
この私が。
この宇良が。
口に出せるはずもない。
だからこそ、精一杯の強がりで唇を尖らせた。
「……私に言わせる気?」
こんな掠れた、甘い声を出すつもりではなかった。
もっと冷たく。
もっと妖しく。
彼を煙に巻くように妖艶に微笑むはずだった。
なのに。
彼が、こちらを振り返る。
その瞬間、宇良は逃げたくなった。
見ないで。
きっと今の私は、酷く情けない顔をしている。
けれど。
驚愕にわずかに見開かれたクモの目が。
潤んだ瞳を。
紅潮した頬を。
そして、細かく震える唇を正確に捉えていた。
(――最悪だわ)
気恥ずかしさに耐えかねて、宇良は思わずほんの少し視線を伏せた。
次の瞬間。
彼の手が、自分の顔を覆っていた木面へ伸びた。
外される。
床へ落ちる。
その仮面の下から現れた、生々しい傷痕。
彼が誰にも見せたくなかった、忌むべきその素顔。
それでも。
宇良には、その顔が何より愛おしかった。
ずっと見たかった。
もう一度、その隠された素顔に触れたかった。
そう願った、まさにその時。
身体が引き寄せられた。
強い腕。
けれど、どこか壊れ物を扱うような抱き方だった。
宇良は抵抗しなかった。
むしろ。
その胸へ、そっと身を預ける。
「貴女は……」
耳元で、掠れた声がする。
「……俺をどうしたいんだ」
そんなこと。
決まっている。
けれど、口には出せない。
だから宇良は、彼の衣を指先でそっと掴んだ。
そして。
ほんの少しだけ、彼へ身体を寄せた。
それが、今の自分にできる精一杯の答えだった。
もう、妖艶な女の仮面を被ることなどできなかった。
ただ。
もう一度会えた。
その喜びだけが。
どうしようもないほど、胸の奥から溢れていた。




