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抗えぬ呪縛




 夜《よる》の帳《とばり》が、投馬国《とうまこく》の宮《みや》を静《しず》かに覆《おお》う。



 宮《みや》の警備《けいび》は、以前《いぜん》より目《め》に見《み》えて厳《きび》しくなっていた。


 見張《みは》りの数《かず》は増《ふ》え、夜番《よばん》の兵《へい》は以前《いぜん》よりも頻繁《ひんぱん》に交代《こうたい》するようになった。



 それでも――



 闇《やみ》に紛《まぎ》れ、気配《けはい》を殺《ころ》して生《い》きることを生業《なりわい》としてきた男《おとこ》にとって、それは決《けっ》して越《こ》えられない壁《かべ》ではない。



 月明《つきあ》かりの届《とど》かぬ漆黒《しっこく》の屋根《やね》の影《かげ》。


 わずかに人《ひと》の気《け》が途切《とぎ》れるほんの一瞬《いっしゅん》の隙《すき》。


 クモは、まるで夜蜘蛛《よるぐも》が這《は》うように、無数《むすう》の警備《けいび》の目《め》を完璧《かんぺき》にすり抜《ぬ》けていった。




 ◇




 灯火《ともしび》がひとつ。


 その炎《ほのお》が、薄暗《うすぐら》い室内《しつない》を淡《あわ》く照《て》らしている。


 そして、どこからともなく漂《ただよ》う、甘《あま》い香《かお》り。


 人心《じんしん》を惑《まど》わせる、妖花《ようか》の如《ごと》き香《かお》りだった。


 クモはその匂《にお》いを意識《いしき》から追《お》い払《はら》うように、わずかに息《いき》を止《と》めた。



 ここへ来《く》るのは任務《にんむ》のためだ。


 それ以外《いがい》に意味《いみ》はない。



 あの夜《よる》のことなど、考《かんが》える必要《ひつよう》はない。



 考《かんが》えてはいけない。



 木面《もくめん》の奥《おく》で、そう何度《なんど》も自分《じぶん》に言《い》い聞《き》かせる。



 伝《つた》えるべき内容《ないよう》だけを、淀《よど》みなく、淡々(たんたん)と告《つ》げていく。



「……以上《いじょう》が、阿久良様《あくらさま》よりのお言葉《ことば》です」



 最後《さいご》の一言《ひとこと》まで、完璧《かんぺき》だった。



 声《こえ》の震《ふる》えもない。


 視線《しせん》の揺《ゆ》らぎもない。


 いつもの「クモ」だった。



 人《ひと》の感情《かんじょう》など必要《ひつよう》としない、奴国王《なこくおう》・阿久良《あくら》の影《かげ》。



 あれほどの熱《ねつ》に包《つつ》まれた夜《よる》も。


 自分《じぶん》の醜《みにく》い素顔《すがお》を晒《さら》したことも。


 傷痕《きずあと》を指先《ゆびさき》でなぞられたことも。


 そして、理性《りせい》を失《うしな》うほど彼女《かのじょ》を求《もと》めたことも。


 すべて、切《き》り捨《す》ててしまったかのようだった。




「……そう」



 宇良《うら》が答《こた》えた。


 ただ、それだけ。


 それ以上《いじょう》は何《なに》も言《い》わない。



 クモも黙《だま》っている。


 部屋《へや》に沈黙《ちんもく》が落《お》ちた。



 灯火《ともしび》が、かすかに揺《ゆ》れる。


 小《ちい》さな炎《ほのお》が伸《の》び、また縮《ちぢ》む。


 そのたびに壁《かべ》へ映《うつ》る二人《ふたり》の影《かげ》が、微《かす》かに形《かたち》を変《か》えていった。




 本来《ほんらい》ならば、すぐに立《た》ち去《さ》るべきだった。


 任務《にんむ》は滞《とどこお》りなく終《お》わった。


 ならば、来《き》た時《とき》と同《おな》じように、音《おと》もなく闇《やみ》へ戻《もど》ればいい。



 ――なのに。

 


 足《あし》が動《うご》かなかった。


 背中《せなか》に、視線《しせん》を感《かん》じる。



 じっと。


 何《なに》かを言《い》いたげな宇良《うら》の視線《しせん》。


 それを感《かん》じ取《と》るだけで、呼吸《こきゅう》が僅《わず》かに乱《みだ》れた。



 動《うご》いてはならない。


 ここで動《うご》けば、この硬《かた》く張《は》り詰《つ》めた冷徹《れいてつ》な均衡《きんこう》が、音《おと》を立《た》てて崩《くず》れ去《さ》ってしまう。


 そんな破滅的《はめつてき》な予感《よかん》を、クモの野性的《やせいてき》と言《い》っていい本能《ほんのう》が痛《いた》いほどに察知《さっち》していた。



 だから動《うご》かない。


 ただ、耐《た》える。

 


 だが――



 背後《はいご》で、衣擦《きぬず》れの音《おと》がした。



 クモの意識《いしき》が、一瞬《いっしゅん》で研《と》ぎ澄《す》まされる。


 宇良《うら》が寝台《しんだい》から立《た》ち上《あ》がったのだ。



 絹《きぬ》の衣《ころも》が、かすかに擦《こす》れる。



 一歩《いっぽ》。


 また一歩《いっぽ》。



 静《しず》かな足音《あしおと》が近《ちか》づいてくる。



 クモは振《ふ》り返《かえ》らない。


 振《ふ》り返《かえ》ってはいけない。


 そう思《おも》う。



 それなのに。


 全身《ぜんしん》の感覚《かんかく》だけは、背後《はいご》から迫《せま》る彼女《かのじょ》の気配《けはい》を鮮明《せんめい》に捉《とら》えていた。



 やがて。


 宇良《うら》が、すぐ後《うし》ろで足《あし》を止《と》める。


 甘《あま》く、妖《あや》しい香《かお》りが近《ちか》づいた。



 そして――


 細《ほそ》く柔《やわ》らかな指先《ゆびさき》が、黒衣《こくい》越《ご》しにクモの背《せ》へ触《ふ》れた。



「……っ」



 ほんの僅《わず》かな接触《せっしょく》。


 それだけだった。


 だが、幾度《いくど》となく死線《しせん》を潜《くぐ》り抜《ぬ》けてきた男《おとこ》の身体《からだ》が、まるで不意《ふい》に刃《やいば》を突《つ》きつけられたかのように強張《こわば》った。 



 肩《かた》が、ごく僅《わず》かに揺《ゆ》れる。


 心臓《しんぞう》が、耳《みみ》の奥《おく》で大《おお》きく鳴《な》った。


 戦場《せんじょう》で敵《てき》に囲《かこ》まれたときでさえ、これほど自分《じぶん》の身体《からだ》を意《い》のままにできなくなることはなかった。



 宇良《うら》は、それを感《かん》じ取《と》ったのだろう。



「ふふ……」



 小《ちい》さな笑《わら》い声《ごえ》が零《こぼ》れる。



 からかうようでいて。


 どこか、嬉《うれ》しそうでもあった。



 指先《ゆびさき》が、黒衣《こくい》の上《うえ》をほんの少《すこ》しだけ滑《すべ》る。



「あの夜《よる》も思《おも》っていたけれど……」



 耳元《みみもと》に近《ちか》づいた声《こえ》が、静《しず》かに響《ひび》いた。



「あなたって、意外《いがい》に体温《たいおん》が高《たか》いわよね」



 クモの喉《のど》が、小《ちい》さく動《うご》いた。


 何《なん》でもない言葉《ことば》のはずだった。


 けれど、今《いま》の彼《かれ》には、それがあまりにも鮮烈《せんれつ》だった。



 あの夜《よる》の記憶《きおく》を、まざまざと呼《よ》び起《お》こしてしまう。



 触《ふ》れられた場所《ばしょ》から、熱《ねつ》が全身《ぜんしん》へ広《ひろ》がっていく。


 木面《もくめん》の下《した》に、冷《つめ》たい汗《あせ》が滲《にじ》んだ。



 ――離《はな》れなければ。



 頭《あたま》の中《なか》では、そう命《めい》じている。



 ここにいるべきではない。


 彼女《かのじょ》に近《ちか》づいてはならない。


 阿久良《あくら》への忠誠《ちゅうせい》を裏切《うらぎ》ってはならない。



 何《なに》より。


 自分《じぶん》自身《じしん》が、またあの夜《よる》へ引《ひ》き戻《もど》されてしまう。



 なのに。


 身体《からだ》は動《うご》かなかった。



 宇良《うら》が、さらに僅《わず》かに身体《からだ》を寄《よ》せる。


 その気配《けはい》に、クモの指《ゆび》が無意識《むいしき》に強《つよ》く握《にぎ》り込《こ》まれた。



「……何《なに》が、お望《のぞ》みですか」



 ようやく絞《しぼ》り出《だ》した声《こえ》は、低《ひく》く掠《かす》れていた。




 宇良《うら》は答《こた》えない。


 クモは、ゆっくりと首《くび》を巡《めぐ》らせた。



 見《み》てはいけない。


 そう思《おも》いながら。


 それでも、彼女《かのじょ》の顔《かお》を見《み》てしまった。



 そして――


 僅《わず》かに目《め》を見開《みひら》いた。



 そこにあったのは、いつもの宇良《うら》の――


 人《ひと》を試《ため》すような。


 何《なに》もかも見透《みす》かしているような、余裕《よゆう》に満《み》ちた笑《え》み――


 ではなかった。



 宇良《うら》の瞳《ひとみ》は、ほんの少《すこ》し潤《うる》んでいた。


 頬《ほお》には淡《あわ》い赤《あか》みが差《さ》している。


 そして唇《くちびる》は、何《なに》かを言《い》いかけたまま、僅《わず》かに震《ふる》えていた。


 

 それは、すべてを操《あやつ》る妖艶《ようえん》な女《おんな》の顔《かお》などではなかった。


 

 強《つよ》がってみせ。


 挑発的《ちょうはつてき》な振《ふ》る舞《ま》いで武装《ぶそう》して。


 それでも本当《ほんとう》は――拒絶《きょぜつ》されることを心《こころ》の底《そこ》から恐《おそ》れているような。


 そんな、あまりにも脆《もろ》く、儚《はかな》い、少女《しょうじょ》のような表情《ひょうじょう》だった。




 クモは、完全《かんぜん》に言葉《ことば》を失《うしな》った。

 


 宇良《うら》はそんなクモの顔《かお》を見上《みあ》げ、ほんの少《すこ》しだけ唇《くちびる》を尖《とが》らせた。



「……私《わたし》に言《い》わせる気《き》?」



 その声音《こわね》には、いつもの余裕《よゆう》がなかった。


 ほんの少《すこ》しの、拗《す》ねた響《ひび》き。


 そして、隠《かく》しきれない寂《さび》しさ。


 


(――ずるい、人《ひと》だ)



 頭《あたま》の中《なか》で、冷徹《れいてつ》であるべき暗殺者《あんさつしゃ》の声《こえ》が砕《くだ》け散《ち》る。



 クモは、もう迷《まよ》わなかった。


 片手《かたて》で自分《じぶん》の顔《かお》を覆《おお》っていた木《き》の渦面《うずめん》を力任《ちからまか》せに剥《は》ぎ取《と》り、床《ゆか》へと放《ほう》り捨《す》てる。


 月明《つきあ》かりの届《とど》く室内《しつない》に、その醜《みにく》く焼《や》け爛《ただ》れた、隠《かく》すべき男《おとこ》の素顔《すがお》が露《あら》わになった。



 恐《おそ》れも。


 隠《かく》すべき恥《はじ》も。


 もうどうでもよかった。



 クモは一歩《いっぽ》踏《ふ》み込《こ》み、まるで壊《こわ》れやすいものを扱《あつか》うように。


 しかし飢《う》えた獣《けもの》のように、強《つよ》く、宇良《うら》の身体《からだ》を引《ひ》き寄《よ》せた。


 その腕《うで》の中《なか》にすっぽりと収《おさ》まった彼女《かのじょ》を、逃《に》がさないように、包《つつ》み込《こ》むように抱《だ》きしめる。



「貴女《あなた》は……」



 かすかに掠《かす》れた声《こえ》が、宇良《うら》の耳元《みみもと》で零《こぼ》れ落《お》ちた。


 それは自分《じぶん》自身《じしん》への呪詛《じゅそ》であり、抗《あらが》えない運命《うんめい》への降伏《こうふく》の証《あかし》だった。



「……俺《おれ》をどうしたいんだ」



 問《と》いかけながらも、クモの顔《かお》はすでに彼女《かのじょ》の細《ほそ》い首筋《くびすじ》へと深《ふか》く埋《う》められていた。



 返事《へんじ》など、初《はじ》めから待《ま》っていなかった。


 いや。


 彼女《かのじょ》の唇《くちびる》が何《なに》かを紡《つむ》ぎ出《だ》すよりも早《はや》く、クモは自分《じぶん》の唇《くちびる》を熱《あつ》く重《かさ》ねていた。



 甘《あま》い妖花《ようか》の香《かお》りと、肌《はだ》の温《ぬく》もり。


 鮮烈《せんれつ》に蘇《よみがえ》る、あの夜《よる》の記憶《きおく》が――


 二人《ふたり》の間《あいだ》にわずかに残《のこ》されていた理性《りせい》の残滓《ざんし》を、何《なに》もかも容赦《ようしゃ》なく焼《や》き尽《つ》くしていった。





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