遠い大陸の凍てつく寒村――
そこで「李斉」として生を受けた彼は、物心つかぬ幼い頃に人買いに捕らえられ、大陸の喧騒から引き剥がされるようにして、この「倭国」へと流れ着いた。
彼に待ち受けていたのは、「生口」という名の過酷な現実だった。
それは人間の尊厳を持たぬ、言葉を話す家畜に等しい扱いだった。
主人は酒に溺れ、日常的に暴力の牙を剥く男だった。
ある晩、妻に逃げられた男は狂ったように暴れ回り、その矛先を何の罪もない少年時代の彼へと向けた。
赤々と燃えたぎる炉の炭火。
男が容赦なく押し付けたそれは、少年の顔の半分を焼き潰した。
脳髄を貫くような狂気の激痛にもがき苦しむ彼を、男は嘲笑い、嬲り続けた。
奇跡的に夜の闇に乗じて逃げ出したものの、異国の地で、焼け爛れ、見る影もなく変形した醜い顔を隠す術はなかった。
人々は彼を恐れ、石を投げた。
彼は泥水をすすりながら地べたを這いずり回るようにして日々の飢えを凌いだ。
飢えと絶望が日常だったその底泥の中で、さまよう彼を拾い上げたのが、当時の「渦蜘蛛」の頭領だった。
失うものなど、はじめから何ひとつなかった。
生き延びるため、彼はその肉体と魂を闇に売り渡した。
死に物狂いで技を磨き上げ、やがて頭角を現した彼は、渦蜘蛛の中でも並ぶ者のいない最高峰へと昇り詰めていた。
――奴国王・阿久良。
その絶対的な権力と野望の下で、彼は数々の汚れ仕事を完遂してきた。
そして、阿久良の妹――宇良。
当初、彼にとって彼女は、王宮の高みから見下ろすだけの「美しい女」という以上の意味を持たなかった。
だが。
阿久良の手駒として。
政治の道具として。
操り人形のように生きる彼女の姿を見るたび、その背後に映る自分の過去が重なった。
自由を剥奪され、誰かの意のままに生きる他ない境遇。
言葉には出さないが、彼は彼女に対して微かな親しみを抱いていた。
冷え切った暗殺者の胸の内に、かろうじて残る、人間としての痛切な感傷だった。
◇
時は流れ、投馬国の王子・隼比古に政略として嫁いだ宇良は、宮の中枢で間者のような振る舞いを続けていた。
その秘密裏の拠点へと、夜の闇に紛れて度々訪れるのが彼の任務だった。
ある夜――灯火の揺らめく部屋で、宇良の気まぐれか、あるいは試すような命令が下った。
「なら、そのクモのお顔――見せてちょうだいよ」
拒絶すべきだった。
だが、彼は言われるがままに、渦蜘蛛の木面をゆっくりと外した。
そこに現れたのは、長らく誰にも見せたことのない、醜く焼けただれた素顔だった。
これまでの人生、その顔に向けられたのは恐怖の叫びか、あるいは蔑みの視線だけだった。
しかし、宇良の瞳は、じっとその歪んだ皮膚を見据えた。
そして――彼女は迷いなく、まるで宝物に触れるかのように愛おしげにその傷痕をなぞった。
――その瞬間、彼の中で何かが音を立てて崩れ去った。
経験したことのない衝撃が、全身の神経と脳髄を焼き尽くすように駆け巡る。
これまで一度も芽生えたことのない、名状しがたき感情のうねりが、胸の底から爆発した。
宇良の放つ妖艶な色気に呑み込まれるような、抗いようのない純粋な情欲。
もともと心にかけていた彼女への、仄かな庇護欲。
そして、自分の醜さを。
その泥のような過去の傷を。
すべて受け入れてくれたかのような錯覚から生まれる、幼子のような甘えたい欲求。
それらが複雑に、かつ強烈に混ざり合い、激しい濁流となって彼の理性を跡形もなく焼き尽くした。
抗う間もなく、二人は深く重なり合い、決して引き返せない一線を越えてしまった。
夜が白々と明け、冷たい現実が部屋の空気を支配したとき、彼の胸を襲ったのは形容しがたい激しい後悔だった。
(俺は……いったい何をしている)
主である阿久良に対する背信。
そして、冷徹な「影」の立場を踏みにじった己の愚かさ。
何より、二度と戻れない禁断の蜜の味を知ってしまったという事実が、鉄の枷のように彼の心を締め付けた。
(二度と、彼女に近づいてはならない)
だが。
どれほど心で戒めようとも、ひとたび彼女と顔を合わせてしまえば、正気ではいられなかった。
◇
「あぁっ……!」
宇良の喉の奥から絞り出されたような甘い悲鳴が、ひっそりと冷えた室内の空気を震わせた。
幾度も重ねられたはずの熱の奔流は、いまだ衰えることを知らず、むしろ夜の深まりとともに狂おしさを増していた。
部屋を満たす妖花の甘い香りは、二人の体温で熱を帯び、濃密に空間を支配している。
熱い衝撃が走るたび、宇良の白い指先が彼の筋肉の張った背中に深く食い込み、無数の古い傷痕を辿るように爪を立てた。
その痛みが、かえって彼の獣のような執着を煽り立てる。
荒い息を吐きながら、彼は宇良の微かに震える唇にそっと指を這わせた。
熱に濡れたその頬を撫で、狂おしいほど愛おしいものを見る目で彼女を見据える。
「……サイ、と」
不意に、微かに掠れた男の声が紡がれる。
「……え?」
――サイ。
「……それが、俺の……本当の名だ」
それは冷徹な「影」として。
あるいはただの道具として生きるために、遠い大陸の凍てつく寒村に捨て去ったはずの名だった。
「……サイと、貴女に……呼んでほしい」
それは誰に強いられた服従でもなければ、任務のための偽りでもない。
自ら進んで差し出す、魂の完全な降伏だった。
奴国王・阿久良の呪縛も。
渦蜘蛛の頭領に売り渡した肉体も。
この瞬間にはもう、どうでもよかった。
宇良のその細い腕の中で壊され、そして再構築されていく己のすべてを、その名とともに彼女に委ねるための、痛切な告白。
宇良の唇が、ゆっくりと歪んだ。
どこか狂おしく。
恐ろしいほどに深く。
甘い毒を孕んだ圧倒的な微笑みが、その美しい顔に咲き誇る。
「……サイ」
宇良がその名を一音ずつ、舌先で確かめるように、愛おしむように刻み込んだ。
次の瞬間――
サイの腰がぐっと深く沈み込み、宇良の秘められた奥を容赦なく押し広げる。
宇良の口から、甘く切ない悲鳴が上がり、白い背中が弓なりに激しく反り上がる。
彼は宇良の華奢な背中に両手を回し、逃がさぬように激しく抱き締めながら、さらに深く、容赦なくその熱を突き立てていく。
重ね合わせた唇から漏れ出るのは、もはや言葉にならない甘い喘ぎと、部屋の静寂を切り裂く密やかな水音。
冷え切った夜の宮の奥底。
誰も踏み込んではならない禁忌の闇の中で――
傷だらけの男と、その傷を愛でる女の影は、ゆらめく火の光の中で完全に溶け合い、決して解けぬ呪縛を互いの肉体に深く、深く刻み込んでいくのだった。