↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
37/37

泥濘の底に咲く




 遠《とお》い大陸《たいりく》の凍《い》てつく寒村《かんそん》――


 そこで「李斉《りさい》」として生《せい》を受《う》けた彼《かれ》は、物心《ものごころ》つかぬ幼《おさな》い頃《ころ》に人買《ひとか》いに捕《と》らえられ、大陸《たいりく》の喧騒《けんそう》から引《ひ》き剥《は》がされるようにして、この「倭国《わこく》」へと流《なが》れ着《つ》いた。



 彼《かれ》に待《ま》ち受《う》けていたのは、「生口《いけこ》」という名《な》の過酷《かこく》な現実《げんじつ》だった。


 それは人間《にんげん》の尊厳《そんげん》を持《も》たぬ、言葉《ことば》を話《はな》す家畜《かちく》に等《ひと》しい扱《あつか》いだった。



 主人《しゅじん》は酒《さけ》に溺《おぼ》れ、日常的《にちじょうてき》に暴力《ぼうりょく》の牙《きば》を剥《む》く男《おとこ》だった。



 ある晩《ばん》、妻《つま》に逃《に》げられた男《おとこ》は狂《くる》ったように暴《あば》れ回《まわ》り、その矛先《ほこさき》を何《なん》の罪《つみ》もない少年《しょうねん》時代《じだい》の彼《かれ》へと向《む》けた。



 赤々(あかあか)と燃《も》えたぎる炉《ろ》の炭火《すみび》。


 男《おとこ》が容赦《ようしゃ》なく押《お》し付《つ》けたそれは、少年《しょうねん》の顔《かお》の半分《はんぶん》を焼《や》き潰《つぶ》した。


 脳髄《のうずい》を貫《つらぬ》くような狂気《きょうき》の激痛《げきつう》にもがき苦《くる》しむ彼《かれ》を、男《おとこ》は嘲笑《あざわら》い、嬲《なぶ》り続《つづ》けた。



 奇跡的《きせきてき》に夜《よる》の闇《やみ》に乗《じょう》じて逃《に》げ出《だ》したものの、異国《いこく》の地《ち》で、焼《や》け爛《ただ》れ、見《み》る影《かげ》もなく変形《へんけい》した醜《みにく》い顔《かお》を隠《かく》す術《すべ》はなかった。



 人々(ひとびと)は彼《かれ》を恐《おそ》れ、石《いし》を投《な》げた。


 彼《かれ》は泥水《どろみず》をすすりながら地《じ》べたを這《は》いずり回《まわ》るようにして日々(ひび)の飢《う》えを凌《しの》いだ。


 飢《う》えと絶望《ぜつぼう》が日常《にちじょう》だったその底泥《ていでい》の中《なか》で、さまよう彼《かれ》を拾《ひろ》い上《あ》げたのが、当時《とうじ》の「渦蜘蛛《うずぐも》」の頭領《とうりょう》だった。



 失《うしな》うものなど、はじめから何《なに》ひとつなかった。


 生《い》き延《の》びるため、彼《かれ》はその肉体《にくたい》と魂《たましい》を闇《やみ》に売《う》り渡《わた》した。



 死《し》に物狂《ものぐる》いで技《わざ》を磨《みが》き上《あ》げ、やがて頭角《とうかく》を現《あらわ》した彼《かれ》は、渦蜘蛛《うずぐも》の中《なか》でも並《なら》ぶ者《もの》のいない最高峰《さいこうほう》へと昇《のぼ》り詰《つ》めていた。




 ――奴国王《なこくおう》・阿久良《あくら》。



 その絶対的《ぜったいてき》な権力《けんりょく》と野望《やぼう》の下《もと》で、彼《かれ》は数々(かずかず)の汚《よご》れ仕事《しごと》を完遂《かんすい》してきた。



 そして、阿久良《あくら》の妹《いもうと》――宇良《うら》。


 当初《とうしょ》、彼《かれ》にとって彼女《かのじょ》は、王宮《おうきゅう》の高《たか》みから見下《みお》ろすだけの「美《うつく》しい女《おんな》」という以上《いじょう》の意味《いみ》を持《も》たなかった。



 だが。


 阿久良《あくら》の手駒《てごま》として。


 政治《せいじ》の道具《どうぐ》として。


 操《あやつ》り人形《にんぎょう》のように生《い》きる彼女《かのじょ》の姿《すがた》を見《み》るたび、その背後《はいご》に映《うつ》る自分《じぶん》の過去《かこ》が重《かさ》なった。



 自由《じゆう》を剥奪《はくだつ》され、誰《だれ》かの意《い》のままに生《い》きる他《ほか》ない境遇《きょうぐう》。


 言葉《ことば》には出《だ》さないが、彼《かれ》は彼女《かのじょ》に対《たい》して微《かす》かな親《した》しみを抱《いだ》いていた。


 冷《ひ》え切《き》った暗殺者《あんさつしゃ》の胸《むね》の内《うち》に、かろうじて残《のこ》る、人間《にんげん》としての痛切《つうせつ》な感傷《かんしょう》だった。




 ◇




 時《とき》は流《なが》れ、投馬国《とうまこく》の王子《おうじ》・隼比古《はやひこ》に政略《せいりゃく》として嫁《とつ》いだ宇良《うら》は、宮《みや》の中枢《ちゅうすう》で間者《かんじゃ》のような振《ふ》る舞《ま》いを続《つづ》けていた。


 その秘密裏《ひみつり》の拠点《きょてん》へと、夜《よる》の闇《やみ》に紛《まぎ》れて度々(たびたび)訪《おとず》れるのが彼《かれ》の任務《にんむ》だった。




 ある夜《よる》――灯火《ともしび》の揺《ゆ》らめく部屋《へや》で、宇良《うら》の気《き》まぐれか、あるいは試《ため》すような命令《めいれい》が下《くだ》った。



「なら、そのクモのお顔《かお》――見《み》せてちょうだいよ」



 拒絶《きょぜつ》すべきだった。


 だが、彼《かれ》は言《い》われるがままに、渦蜘蛛《うずぐも》の木面《もくめん》をゆっくりと外《はず》した。


 そこに現《あらわ》れたのは、長《なが》らく誰《だれ》にも見《み》せたことのない、醜《みにく》く焼《や》けただれた素顔《すがお》だった。



 これまでの人生《じんせい》、その顔《かお》に向《む》けられたのは恐怖《きょうふ》の叫《さけ》びか、あるいは蔑《さげす》みの視線《しせん》だけだった。



 しかし、宇良《うら》の瞳《ひとみ》は、じっとその歪《ゆが》んだ皮膚《ひふ》を見据《みす》えた。


 そして――彼女《かのじょ》は迷《まよ》いなく、まるで宝物《たからもの》に触《ふ》れるかのように愛《いと》おしげにその傷痕《きずあと》をなぞった。



 ――その瞬間《しゅんかん》、彼《かれ》の中《なか》で何《なに》かが音《おと》を立《た》てて崩《くず》れ去《さ》った。



 経験《けいけん》したことのない衝撃《しょうげき》が、全身《ぜんしん》の神経《しんけい》と脳髄《のうずい》を焼《や》き尽《つ》くすように駆《か》け巡《めぐ》る。



 これまで一度《いちど》も芽生《めば》えたことのない、名状《めいじょう》しがたき感情《かんじょう》のうねりが、胸《むね》の底《そこ》から爆発《ばくはつ》した。



 宇良《うら》の放《はな》つ妖艶《ようえん》な色気《いろけ》に呑《の》み込《こ》まれるような、抗《あらが》いようのない純粋《じゅんすい》な情欲《じょうよく》。



 もともと心《こころ》にかけていた彼女《かのじょ》への、仄《ほの》かな庇護欲《ひごよく》。



 そして、自分《じぶん》の醜《みにく》さを。


 その泥《どろ》のような過去《かこ》の傷《きず》を。


 すべて受《う》け入《い》れてくれたかのような錯覚《さっかく》から生《う》まれる、幼子《おさなご》のような甘《あま》えたい欲求《よっきゅう》。


 それらが複雑《ふくざつ》に、かつ強烈《きょうれつ》に混《ま》ざり合《あ》い、激《はげ》しい濁流《だくりゅう》となって彼《かれ》の理性《りせい》を跡形《あとかた》もなく焼《や》き尽《つ》くした。



 抗《あらが》う間《ま》もなく、二人《ふたり》は深《ふか》く重《かさ》なり合《あ》い、決《けっ》して引《ひ》き返《かえ》せない一線《いっせん》を越《こ》えてしまった。





 夜《よる》が白々(しらじら)と明《あ》け、冷《つめ》たい現実《げんじつ》が部屋《へや》の空気《くうき》を支配《しはい》したとき、彼《かれ》の胸《むね》を襲《おそ》ったのは形容《けいよう》しがたい激《はげ》しい後悔《こうかい》だった。



(俺《おれ》は……いったい何《なに》をしている)



 主《あるじ》である阿久良《あくら》に対《たい》する背信《はいしん》。


 そして、冷徹《れいてつ》な「影《かげ》」の立場《たちば》を踏《ふ》みにじった己《おのれ》の愚《おろ》かさ。



 何《なに》より、二度《にど》と戻《もど》れない禁断《きんだん》の蜜《みつ》の味《あじ》を知《し》ってしまったという事実《じじつ》が、鉄《てつ》の枷《かせ》のように彼《かれ》の心《こころ》を締《し》め付《つ》けた。



(二度《にど》と、彼女《かのじょ》に近《ちか》づいてはならない)




 だが。


 どれほど心《こころ》で戒《いまし》めようとも、ひとたび彼女《かのじょ》と顔《かお》を合《あ》わせてしまえば、正気《しょうき》ではいられなかった。





 ◇





「あぁっ……!」



 宇良《うら》の喉《のど》の奥《おく》から絞《しぼ》り出《だ》されたような甘《あま》い悲鳴《ひめい》が、ひっそりと冷《ひ》えた室内《しつない》の空気《くうき》を震《ふる》わせた。


 幾度《いくど》も重《かさ》ねられたはずの熱《ねつ》の奔流《ほんりゅう》は、いまだ衰《おとろ》えることを知《し》らず、むしろ夜《よる》の深《ふか》まりとともに狂《くる》おしさを増《ま》していた。


 部屋《へや》を満《み》たす妖花《ようか》の甘《あま》い香《かお》りは、二人《ふたり》の体温《たいおん》で熱《ねつ》を帯《お》び、濃密《のうみつ》に空間《くうかん》を支配《しはい》している。


 熱《あつ》い衝撃《しょうげき》が走《はし》るたび、宇良《うら》の白《しろ》い指先《ゆびさき》が彼《かれ》の筋肉《きんにく》の張《は》った背中《せなか》に深《ふか》く食《く》い込《こ》み、無数《むすう》の古《ふる》い傷痕《きずあと》を辿《たど》るように爪《つめ》を立《た》てた。


 その痛《いた》みが、かえって彼《かれ》の獣《けもの》のような執着《しゅうちゃく》を煽《あお》り立《た》てる。



 荒《あら》い息《いき》を吐《は》きながら、彼《かれ》は宇良《うら》の微《かす》かに震《ふる》える唇《くちびる》にそっと指《ゆび》を這《は》わせた。


 熱《ねつ》に濡《ぬ》れたその頬《ほお》を撫《な》で、狂《くる》おしいほど愛《いと》おしいものを見《み》る目《め》で彼女《かのじょ》を見据《みす》える。



「……サイ、と」



 不意《ふい》に、微《かす》かに掠《かす》れた男《おとこ》の声《こえ》が紡《つむ》がれる。



「……え?」



 ――サイ。



「……それが、俺《おれ》の……本当《ほんとう》の名《な》だ」



 それは冷徹《れいてつ》な「影《かげ》」として。


 あるいはただの道具《どうぐ》として生《い》きるために、遠《とお》い大陸《たいりく》の凍《い》てつく寒村《かんそん》に捨《す》て去《さ》ったはずの名《な》だった。



「……サイと、貴女《あなた》に……呼《よ》んでほしい」



 それは誰《だれ》に強《し》いられた服従《ふくじゅう》でもなければ、任務《にんむ》のための偽《いつわ》りでもない。


 自《みずか》ら進《すす》んで差《さ》し出《だ》す、魂《たましい》の完全《かんぜん》な降伏《こうふく》だった。



 奴国王《なこくおう》・阿久良《あくら》の呪縛《じゅばく》も。


 渦蜘蛛《うずぐも》の頭領《とうりょう》に売《う》り渡《わた》した肉体《にくたい》も。


 この瞬間《しゅんかん》にはもう、どうでもよかった。



 宇良《うら》のその細《ほそ》い腕《うで》の中《なか》で壊《こわ》され、そして再構築《さいこうちく》されていく己《おのれ》のすべてを、その名《な》とともに彼女《かのじょ》に委《ゆだ》ねるための、痛切《つうせつ》な告白《こくはく》。



 宇良《うら》の唇《くちびる》が、ゆっくりと歪《ゆが》んだ。



 どこか狂《くる》おしく。


 恐《おそ》ろしいほどに深《ふか》く。


 甘《あま》い毒《どく》を孕《はら》んだ圧倒的《あっとうてき》な微笑《ほほえ》みが、その美《うつく》しい顔《かお》に咲《さ》き誇《ほこ》る。



「……サイ」



 宇良《うら》がその名《な》を一音《いちおん》ずつ、舌先《したさき》で確《たし》かめるように、愛《いと》おしむように刻《きざ》み込《こ》んだ。



 次《つぎ》の瞬間《しゅんかん》――


 サイの腰《こし》がぐっと深《ふか》く沈《しず》み込《こ》み、宇良《うら》の秘《ひ》められた奥《おく》を容赦《ようしゃ》なく押《お》し広《ひろ》げる。



 宇良《うら》の口《くち》から、甘《あま》く切《せつ》ない悲鳴《ひめい》が上《あ》がり、白《しろ》い背中《せなか》が弓《ゆみ》なりに激《はげ》しく反《そ》り上《あ》がる。


 彼《かれ》は宇良《うら》の華奢《きゃしゃ》な背中《せなか》に両手《りょうて》を回《まわ》し、逃《に》がさぬように激《はげ》しく抱《だ》き締《し》めながら、さらに深《ふか》く、容赦《ようしゃ》なくその熱《ねつ》を突《つ》き立《た》てていく。



 重《かさ》ね合《あ》わせた唇《くちびる》から漏《も》れ出《で》るのは、もはや言葉《ことば》にならない甘《あま》い喘《あえ》ぎと、部屋《へや》の静寂《せいじゃく》を切《き》り裂《さ》く密《ひそ》やかな水音《みずおと》。



 冷《ひ》え切《き》った夜《よる》の宮《みや》の奥底《おくそこ》。


 誰《だれ》も踏《ふ》み込《こ》んではならない禁忌《きんき》の闇《やみ》の中《なか》で――


 傷《きず》だらけの男《おとこ》と、その傷《きず》を愛《め》でる女《おんな》の影《かげ》は、ゆらめく火《ひ》の光《ひかり》の中《なか》で完全《かんぜん》に溶《と》け合《あ》い、決《けっ》して解《と》けぬ呪縛《じゅばく》を互《たが》いの肉体《にくたい》に深《ふか》く、深《ふか》く刻《きざ》み込《こ》んでいくのだった。





評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。