特訓
あの夜の――仮面の男との一戦。
影にとって、気配を読まれた時点で勝負は決まっていた。
あとは追い詰められるだけだった。
報告を聞いたイヌタデは、何も言わなかった。
責めることもなければ、慰めることもない。
ただ静かに頷いただけだった。
そして、その日から、夜ごとの特訓が始まった。
場所は投馬の宮から少し離れた森。
人がめったに足を踏み入れない、小さく開けた場所だった。
月は出ていない。
空一面に散る星だけが、わずかな光を地上へ落としている。
木々の間からこぼれた星明かりが、地面に淡いまだら模様を描いていた。
風が枝を揺らす。
葉と葉が触れ合い、静かな音が森の奥へ流れていく。
湿った土の匂い。
草の青い香り。
遠くで鳴く虫の声。
小さな獣が落ち葉を踏むかすかな音。
普通の者なら、足元さえ見失うような暗さだった。
だが、チガヤには違う。
影として鍛えられた目は、闇に慣れていた。
星明かりだけでも、木々の形は分かる。
枝が揺れた理由も。
草が揺れた向きも。
風なのか。
獣なのか。
それとも、人なのか。
耳は音を拾い、肌は空気の流れを感じ取る。
闇は何も隠さない。
むしろ昼より多くを教えてくれる。
影に生きる者にとって、夜は最も頼れる味方だった。
その空き地の中央に、イヌタデは静かに立っていた。
背筋を伸ばし、腕を組んでいる。
その姿は闇へ溶け込み、目を離せば見失ってしまいそうだった。
「来なさい」
短い一言。
それだけだった。
チガヤは腰の短刀に手を添える。
ゆっくり息を整え、地を蹴った。
音を立てない。
落ち葉一枚さえ鳴らさぬように。
木の影から影へ。
闇に紛れながら、大きく回り込む。
背後を取り、一気に間合いを詰めた。
――獲れる。
そう思った、その瞬間だった。
景色がぐるりと回る。
星空と地面が入れ替わり、背中へ強い衝撃が走った。
「がっ……!」
肺の空気が一気に押し出される。
転がりながら受け身を取り、すぐに立ち上がった。
どこで崩された。
いつ触れられた。
何ひとつ分からない。
確かに背後を取っていた。
気配も消していた。
それなのに。
「今、君は一度だけ呼吸を止めました」
イヌタデは振り返りもせずに言った。
「獲ろうとした、その一瞬だけ、空気が変わりました」
チガヤは思わず息をのむ。
そんなわずかな変化まで読まれていた。
「気配とは、姿だけではありませんよ」
イヌタデは静かな声で続ける。
「呼吸、重心、ためらい、殺意――」
穏やかな声だった。
「人は、そうしたものを知らず知らずのうちに外へ出しています」
ゆっくりと、イヌタデは振り返る。
「君は隠れるのは上手い」
わずかな沈黙のあと、静かに続けた。
「ですが、仕留めようとした瞬間、自分から『ここにいる』と教えてしまっています」
チガヤは何も言えなかった。
反論できる言葉が見つからない。
「影は、最後まで影でいなければなりません」
星明かりが、その静かな目を淡く照らした。
「刃を振るう、その瞬間まで」
夜風が二人の間を吹き抜ける。
木々が静かに揺れた。
チガヤは短刀を握り直す。
「……もう一度、お願いします」
返事はなかった。
次の瞬間――
イヌタデの姿が闇へ溶ける。
「!」
気づいた時には、首筋へ冷たい刃がそっと添えられていた。
「二度目」
低い声だけが耳元に落ちる。
チガヤは静かに目を閉じ、小さく息を吐いた。
まだ遠い。
影と呼ばれるには。
自分には、足りないものがあまりにも多かった。




