恋が走り出す
練武場に隣接した庭。
大きな木の下で、チガヤは木陰に腰を下ろし、幹にもたれながら静かに目を細めていた。
昨夜の傷のせいで、今日は訓練を休んでいる。
隣には、いつものようにモモジとアオバ。
穏やかな風が吹くたび、葉がさらさらと揺れていた。
そんな中。
モモジだけが。
じぃぃぃぃ……っと。
獲物を狙う獣のような目で、チガヤを見つめていた。
「なに」
鬱陶しそうに眉を寄せるチガヤ。
しかし、モモジはさらに顔を近づけてくる。
鼻先が触れそうなくらい近い。
「なんかお前、今日機嫌いいよな」
「……そう?」
いつものように淡々と返す。
けれど。
ほんの少しだけ。
返事までに妙な間があった。
それを、モモジは見逃さなかった。
「ほら!」
びしっと指を突きつける。
「絶対なんかあっただろ?!」
「気のせい」
「絶対違う!」
興奮するモモジの横で、アオバは首を傾げた。
「そうか?」
まったく分からないらしい。
相変わらず無表情。
相変わらず、ぶっきらぼう。
どこからどう見ても、いつものチガヤだった。
「いつもと変わらなく見えるけど」
「いやいやいや!」
モモジは納得しない。
「なんか顔色いいんだよ!」
「腕上がんねぇとか言って訓練休んでるくせに!」
「不調のはずなのに!」
「なんか……こう……」
腕を組み。
じっとチガヤを見つめる。
そして。
「……くそ」
「?」
「どうせ彼女とイチャイチャしまくってんだろ」
チガヤは小さく瞬きをした。
「彼女」
「サクちゃん!」
一瞬――
ぴたりと、チガヤの動きが止まる。
それだけで。
モモジの目がぎらりと光った。
だが次の瞬間。
当の本人は、何事もなかったように視線を逸らす。
「~~~ッ! お前!」
モモジは、がばっと飛びついた。
「うわ、うざ……」
チガヤは心底嫌そうな顔で押し返そうとする。
「しらばっくれようったって無駄だからな!」
「……」
面倒くさそうにため息をつく。
しかし。
モモジは引き下がらない。
そして。
なぜか急に。
さっきまでの勢いが嘘のように、もじもじと視線を逸らし始めた。
チガヤが訝しげに眉を寄せる。
「……なんだよ」
「いや、その……」
ごにょごにょと口ごもる。
そして。
さらに声を小さくした。
「……もう、やったのか?」
「は?」
空気が、ぴり、と張った。
しかし。
当のモモジは、そんな変化にまるで気づいていない。
熟れた柿のように真っ赤な顔で、
「その……」
ごくりと唾を飲み込む。
「せ、接吻を……」
「……」
一瞬の沈黙。
風の音だけが静かに通り過ぎる。
葉がざわりと揺れた。
そして。
チガヤは、なんとも拍子抜けしたような顔になった。
「……なんでモモジにそんなこと教えなきゃならないの」
「いいじゃん!」
モモジが食いつく。
「教えろよ! 減るもんじゃねえだろ!」
「減る」
「減らねえよ!」
ぎゃあぎゃあと騒ぐ二人。
「……」
やれやれ。
また始まった。
アオバは二人を眺めながら、小さく息を吐く。
そして、ふと庭の端へ目を向けた。
「あ」
アオバの声に、モモジとチガヤが同時に振り向く。
木々の向こう。
サクが、もじもじと立っていた。
両手を胸の前でぎゅっと握り。
こちらへ来ようとしては立ち止まり。
また一歩進んでは、俯く。
そんなことを繰り返している。
チガヤの目が、わずかに見開かれた。
次の瞬間――
モモジを跳ね除けるようにして、勢いよく立ち上がる。
「うおっ!?」
突然押しのけられたモモジが、どさりと尻もちをついた。
「いてっ!」
しかし。
チガヤは振り返りもしなかった。
その目はもう、庭の端に立つサクしか見えていない。
足早に。
いや。
ほとんど駆けるように。
まっすぐサクのもとへ向かっていく。
「……走った」
呆然と呟くモモジ。
隣でアオバが首を傾げた。
「いや、そりゃチガヤだって走るだろ」
のんびりした声。
「訓練の時だっていつも走ってるし」
「そういうことじゃねー!」
モモジが絶叫した。
木漏れ日の向こう。
頬を真っ赤にして立ち尽くすサクと。
そんな彼女の前で、ほんの少しだけ表情を和らげているチガヤ。
あの、チガヤが。
何に対しても無気力で。
淡々としていて。
どこか冷めた目をしていた男が。
そんな顔を見せる日が来るなんて。
「おーおー、甘酸っぱいねぇ」
いつの間にか現れていたヒシンが、面白そうに声を上げる。
なんとも初々しくて。
淡く、こそばゆい空気だった。
そして。
ついにモモジは、がっくりと肩を落とした。
「なんかもう……」
力なく呟く。
「見てるこっちが、こっ恥ずかしくなってくるな……」
すると隣で、ヒシンがくっくっと肩を震わせた。
「……ま、よかったじゃねぇか」
「まぁ……」
モモジも小さく頷く。
なんとなく。
この甘酸っぱい空気の中に、これ以上居座るのも野暮な気がした。
「行くか」
「だな」
「ああ」
三人は苦笑を交わしながら、そっとその場を後にした。
背後では。
まだ周りのことなど目に入っていない二人に、柔らかな木漏れ日が、静かに降り注いでいた。




