熱に溺れる
昨夜の出来事から、一夜が明けた。
けれど、サクの心は完全に上の空だった。
朝からずっと、頭がふわふわしている。
もう何度ため息をついたか、自分でも分からない。
昨夜のことは、まるで夢のようだった。
あれが本当に起きたことだなんて、とても信じられない。
影のように駆けるチガヤ。
刃と刃がぶつかる音。
命を懸けた戦い。
飛び散る血。
そして――あの瞬間。
瞼を閉じれば、鮮明にあの小屋の中での光景が蘇る。
◇
ひんやりとした夜の静けさの中――
サクの心臓は耳障りなほど激しく脈打っていた。
ゆっくりと重ねられた唇から伝わるのは、チガヤの体温と、まだ収まりきらない浅い呼吸の揺らぎ。
それが「口付け」という名前を持つ行為なのだと理解した瞬間、サクの思考は真っ白に弾け飛んだ。
緊張と高揚で血の気が引き、視界がぐらつく。
けれど、それを遥かに上回る圧倒的な幸福感が、胸の奥を満たしていった。
直に伝わってくるサクの甘い吐息と身体の震え。
それがチガヤの理性を麻痺させ、どこまでも深く求めさせようとする。
(あ……ダメだ、これ)
痺れるような頭の片隅で警鐘が鳴る。
感情と身体の昂りに流され、思考が酷く濁っている。
腕の傷の痛みすら忘れていた。
これ以上この熱に呑まれれば、完全に自分を見失う。
それに、さっきの敵が戻ってくる可能性は十分にあるのだ。
いま自分たちが置かれている状況は、決して安全ではない。
こんなところで無防備に隙を晒している場合ではなかった。
チガヤは湧き上がる熱を力任せに押さえつけた。
「……ん」
名残惜しさを断ち切るように、ゆっくりとサクの唇から身を離す。
「……チガヤ、くん……?」
急に身体を離され、サクは取り残されたような心地でチガヤを見上げた。
頬は赤く染まり、焦点の定まらない瞳は呆然と潤んでいる。
その無防備な姿に、胸の奥の熱が再び跳ね上がる。
「……移動しよう。ここに長く留まるのは危険だ」
サクの視線から逃げるように、チガヤはあえて素気なく背を向けた。
しかし、掴んだサクの手首にこもる力だけはどこか優しく、絶対に離さないと言わんばかりの強さで繋がれていた。
小屋を出ると、夜の冷たい空気が二人を包み込む。
「……というか」
歩き出しながら、チガヤはさっきから気になっていた疑問を口にした。
「なんでこんな夜更けに、一人で外にいたんだ?」
その問いに、サクは「あ、」と声を漏らし、思い出したようにチガヤの手を引いた。
高床倉庫の並ぶ一角、その裏手に案内する。
そこには藁が敷かれ、三匹の小さな命が肩を寄せ合っていた。
「……猫」
「うん……ほっとけなくて」
サクはもじもじと指先を弄びながら、申し訳なさそうに視線を泳がせた。
チガヤは小さく息を吐き、静かに首を振った。
責めるような様子はなく、ただサクのその優しさを噛みしめるように頷く。
「大丈夫だ。今夜はとにかく部屋に戻ろう」
チガヤはそう言うと、そのままサクを送り届けるために宮の侍女の宿房へと向かった。
宿房の前に到着し、あとは自分の部屋に入るだけ――そう分かっているのに、サクはなかなか敷居を跨ごうとしない。
戸口の前で立ち止まり、振り返る。
じっと潤んだ瞳でチガヤを見つめ――
そして、何かを決意したように、ふわりと一歩だけ距離を詰めた。
ちゅっ、と小さな音が響いた。
柔らかい唇が、チガヤの頬にそっと触れる。
「う、腕の怪我……さっきのは応急処置だから! ちゃんと手当て、してね……っ」
真っ赤な顔で一気に捲し立てると、サクは――
「お、おやすみ!」
と叫ぶように言い残し、逃げるように宿房の中へと駆け込んでいった。
あとに残されたのは、夜の冷気と静寂だけ。
チガヤは熱の残る自分の頬にそっと手を当てたまま、しばらくの間、呆然とその場に立ち尽くしていた。
◇
――記憶の糸がそこまで巻き戻った瞬間。
「~~~~っ!」
サクはその場で突然、顔を手で覆い、しゃがみ込んだ。
(わ、私……チガヤくんと……)
あまりにも濃厚で、あまりにも急すぎる展開だった。
自分の心が、まったく追いついていない。
「ちょっと! でかいのがしゃがんでると邪魔なんだけど!」
同僚の侍女、ハヅキの鋭い声が飛ぶ。
けれど、甘い夢の中を彷徨っているサクの耳には、その怒声すら届いていなかった。
(……期待しても、いいのかな)
チガヤくんも。
自分と同じ気持ちなんだと。
そう思っても、いいのだろうか。
自分は背ばかり高くて。
昔から兄たちには、邪魔だとか鈍いだとか言われてきた。
男の人なんて苦手だった。
誰かに恋をすることなんて、考えたこともなかった。
まして。
好きになった人と想いが通じ合うなんて――
そんなものは、自分には縁のない話だと思っていた。
もしかしたら。
昨夜のことは、一時の気の迷いだったのかもしれない。
命懸けの戦いの後で、気持ちが昂ぶっていただけだったのかもしれない。
勘違いだったら。
自分だけが舞い上がっていたのだとしたら。
そう考えた途端、胸の奥がぎゅっと痛んだ。
けれど、思い出す。
あの時、チガヤが自分に向けた瞳の熱を。
強引に身を離した彼の、どこか切なげで、けれど決して離さないと言わんばかりに強く握られた手首の温もりを。
それは決して、ただの気の迷いで片付けられるものなんかじゃないと、サクの直感が叫んでいる。
胸の奥が、じんわりと熱を帯びる。
もう会いたい。
たった一晩しか経っていないのに。
それなのに、ひどく遠くにいるような気がした。
感情をあまり表に出さないのに、時折優しさが滲む、あの顔が見たい。
ぶっきらぼうで淡々とした声で、自分の名前を呼んでほしい。
小柄なのに、誰よりも頼もしく見える背中に触れたい。
傷の痛みは引いただろうか。
無理をしていないだろうか。
気付けば、思考のすべてがチガヤで埋め尽くされている。
――恋をしているのだ。
こんなにも。
どうしようもなく。
サクは膝を抱えたまま、誰にも見せないようにこっそりと唇を指先で撫ぞった。
まだ微かに熱を帯びているような気がする。
サクは波立つ心を鎮めるように、ぎゅっと目を閉じ――胸の奥で渦巻く愛しさと疼きを、逃がさないように、そっと抱きしめた。




