この腕が届くなら
黒装束の男が、音もなく踏み込んだ。
月明かりを受けた刃が、闇の中で一瞬だけ白く閃く。
速い。
サクには、そうとしか分からなかった。
チガヤが身体を捻る。
迫る刃を紙一重で躱そうとした。
けれど――
ザッ。
鈍い音がした。
刃が、チガヤの腕を掠めた。
次の瞬間。
月明かりの下に、赤いものが散った。
血だった。
白い月の光の中で、その赤だけが異様なほど鮮やかに見えた。
「――ッ……!」
サクの喉から、声が漏れかける。
けれど。
寸前で、両手を口元へ押し当てた。
歯を食いしばる。
叫んではいけない。
声を出してはいけない。
そう思うのに、身体が言うことを聞かない。
心臓が、胸の内側を叩いていた。
どくん。
どくん。
あまりにも激しく脈打つせいで、この音が二人の耳にも聞こえてしまうのではないかと思うほどだった。
(怖い……)
足が震える。
逃げたい。
今すぐ、ここから逃げ出したい。
そう思うのに。
目だけは、チガヤから離れなかった。
血を流している。
それなのに。
チガヤは怯んでいなかった。
傷を押さえることさえせず、短刀を握ったまま低く構えている。
呼吸さえ乱れていない。
まるで、自分の腕から血が流れていることなど、たいしたことではないと言わんばかりに。
その姿が、サクには、ひどく遠いものに見えた。
いつものチガヤとは、まるで違う。
鋭い目。
無駄のない身体の動き。
生き残るためだけに研ぎ澄まされた、冷たい静けさ。
サクは、ただ震えながら見つめていた。
しかし――
次の瞬間だった。
チガヤの身体が、ぐらりと揺れた。
「……!」
サクの目が見開かれる。
チガヤが片膝をついた。
短刀を地面につけることなく、どうにか身体を支えている。
けれど。
さっきまでとは明らかに違う。
動きが遅い。
呼吸も、わずかに乱れている。
黒装束の男が、それを見逃すはずがなかった。
面の奥から覗く口元が、ゆっくりと歪む。
「効いてきたようだな」
サクの背筋が凍った。
毒。
あの刃には、毒が塗られていたのだ。
チガヤ自身も、それに気づいたらしい。
ほんの一瞬。
その目が、自分の腕へ落ちる。
そして、すぐに敵へ戻った。
まだ動ける。
そう判断したのだろう。
だが。
黒装束の男が、一歩踏み出す。
刃が、ゆっくりと持ち上がった。
その動きには、もう迷いがない。
チガヤが構える。
けれど。
先ほどの鋭さは、ない。
サクには、それが分かった。
次の一撃を受けたら――
きっと、チガヤは。
その考えが頭に浮かんだ瞬間。
「――だめ!!」
気がつけば。
サクは走り出していた。
自分でも、何をしているのか分からない。
なのに。
身体だけが勝手に動いていた。
チガヤの目が、大きく見開かれる。
「誰か――!!」
叫んだ。
喉が裂けるのではないかと思うほどの声だった。
「誰か来て!!」
声が夜の宮へ響き渡る。
「人殺し!!」
自分でも驚くほど大きな声だった。
胸が痛い。
肺が焼けるようだった。
それでも、止まらなかった。
叫びながら、サクはチガヤのほうへ駆け寄る。
黒装束の男が、舌打ちした。
「……ちっ」
さすがに人が集まるのは避けたいらしい。
男は一瞬だけチガヤを見た。
そして、すぐさま身を翻す。
黒い影が屋根へ跳ぶ。
まるで重さなど存在しないかのように、屋根の上へ舞い上がった。
次の瞬間には、その姿は闇の中へ溶けていた。
月明かりが雲に隠れる。
まるで、最初から何もいなかったかのように。
男は消えた。
静かになった。
あまりにも突然だった。
先ほどまで刃がぶつかり、火花が散っていた場所に、今は、ただ夜の風が吹いている。
遠くで、夜鳥が一声鳴く。
サクは荒い息を吐いた。
肩が大きく上下している。
胸に手を当てる。
まだ心臓が、壊れそうなほど鳴っている。
けれど。
今は、それどころではなかった。
目の前にいるチガヤを見る。
片膝をついたまま、腕から血を流している。
「……チガヤくん」
声が震えた。
チガヤは顔を上げる。
「俺に構うな」
いつもの声だった。
淡々としていて、感情が薄い。
まるで何も問題などないように。
「でも……」
「大丈夫だ」
そう言って、チガヤは立ち上がろうとした。
その瞬間――
身体が、大きく傾いた。
「あっ……!」
サクは咄嗟に手を伸ばした。
チガヤの身体が、腕の中へ倒れ込む。
思ったより、軽かった。
もっと重いと思っていた。
サクは慌てながらも、両腕を回した。
細い身体を、胸の前でしっかりと支える。
「……!」
チガヤが目を見開いた。
サク自身も、驚いていた。
こんなふうに誰かを抱き留めたことなんて、ない。
それでも。
腕に力を込める。
足を踏ん張る。
背を伸ばして、どうにか身体を支える。
その瞬間。
胸の奥から、熱いものが込み上げてきた。
(よかった……)
自分の身体で、この人を支えられる。
背が高いこと。
周りの女の子たちより身体が大きいこと。
それが、ずっと嫌だった。
だから。
人前では、できるだけ背を丸めていた。
肩を縮めて。
少しでも小さく見えるように。
けれど、今だけは。
(わたし、背が高くて……)
(身体も、大きくて……)
――よかった。
初めて、本当に、そう思えた。
この腕が届いて。
この身体で支えられて。
チガヤをここに繋ぎ止めていられる。
「だめ」
サクは、チガヤを支えながら言った。
「無理に動かないで」
「構わな――」
「いいから」
ぴしゃり、と言い切った。
自分でも驚くほど、強い声だった。
チガヤが、ぱちりと瞬きをする。
サクを見る。
そこにいたのは。
いつも、おどおどして。
何かあるたびに「すみません」と謝って。
誰かの顔色をうかがっている少女ではなかった。
頬はまだ青ざめ、目元には恐怖が残っている。
それでも。
チガヤを支える腕だけは、決して緩めない。
「ほら」
サクは小さく息を整えた。
「こっち」
チガヤは何か言い返そうとした。
けれど。
言葉が出てこない。
結局。
そのまま黙った。
というより。
押し切られた。
チガヤは、支えられたままサクを見た。
(……変な女だ)
チガヤは本気で、そう思った。
けれど――
その腕の温もりを、今だけは振りほどこうとは思わなかった。




