↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
26/37

この腕が届くなら




 黒装束《くろしょうぞく》の男《おとこ》が、音《おと》もなく踏《ふ》み込《こ》んだ。


 月明《つきあ》かりを受《う》けた刃《やいば》が、闇《やみ》の中《なか》で一瞬《いっしゅん》だけ白《しろ》く閃《ひらめ》く。



 速《はや》い。


 サクには、そうとしか分《わ》からなかった。


 チガヤが身体《からだ》を捻《ひね》る。


 迫《せま》る刃《やいば》を紙一重《かみひとえ》で躱《かわ》そうとした。



 けれど――



 ザッ。



 鈍《にぶ》い音《おと》がした。


 刃《やいば》が、チガヤの腕《うで》を掠《かす》めた。



 次《つぎ》の瞬間《しゅんかん》。


 月明《つきあ》かりの下《した》に、赤《あか》いものが散《ち》った。


 血《ち》だった。


 白《しろ》い月《つき》の光《ひかり》の中《なか》で、その赤《あか》だけが異様《いよう》なほど鮮《あざ》やかに見《み》えた。



「――ッ……!」



 サクの喉《のど》から、声《こえ》が漏《も》れかける。


 けれど。


 寸前《すんぜん》で、両手《りょうて》を口元《くちもと》へ押《お》し当《あ》てた。


 歯《は》を食《く》いしばる。


 叫《さけ》んではいけない。


 声《こえ》を出《だ》してはいけない。


 そう思《おも》うのに、身体《からだ》が言《い》うことを聞《き》かない。


 心臓《しんぞう》が、胸《むね》の内側《うちがわ》を叩《たた》いていた。



 どくん。


 どくん。 



 あまりにも激《はげ》しく脈打《みゃくう》つせいで、この音《おと》が二人《ふたり》の耳《みみ》にも聞《き》こえてしまうのではないかと思《おも》うほどだった。



(怖《こわ》い……)



 足《あし》が震《ふる》える。


 逃《に》げたい。


 今《いま》すぐ、ここから逃《に》げ出《だ》したい。


 そう思《おも》うのに。


 目《め》だけは、チガヤから離《はな》れなかった。



 血《ち》を流《なが》している。


 それなのに。


 チガヤは怯《ひる》んでいなかった。


 傷《きず》を押《お》さえることさえせず、短刀《たんとう》を握《にぎ》ったまま低《ひく》く構《かま》えている。


 呼吸《こきゅう》さえ乱《みだ》れていない。


 まるで、自分《じぶん》の腕《うで》から血《ち》が流《なが》れていることなど、たいしたことではないと言《い》わんばかりに。


 その姿《すがた》が、サクには、ひどく遠《とお》いものに見《み》えた。



 いつものチガヤとは、まるで違《ちが》う。



 鋭《するど》い目《め》。


 無駄《むだ》のない身体《からだ》の動《うご》き。


 生《い》き残《のこ》るためだけに研《と》ぎ澄《す》まされた、冷《つめ》たい静《しず》けさ。


 サクは、ただ震《ふる》えながら見《み》つめていた。



 しかし――


 次《つぎ》の瞬間《しゅんかん》だった。


 チガヤの身体《からだ》が、ぐらりと揺《ゆ》れた。



「……!」



 サクの目《め》が見開《みひら》かれる。


 チガヤが片膝《かたひざ》をついた。


 短刀《たんとう》を地面《じめん》につけることなく、どうにか身体《からだ》を支《ささ》えている。



 けれど。


 さっきまでとは明《あき》らかに違《ちが》う。


 動《うご》きが遅《おそ》い。


 呼吸《こきゅう》も、わずかに乱《みだ》れている。


 黒装束《くろしょうぞく》の男《おとこ》が、それを見逃《みのが》すはずがなかった。


 面《めん》の奥《おく》から覗《のぞ》く口元《くちもと》が、ゆっくりと歪《ゆが》む。



「効《き》いてきたようだな」



 サクの背筋《せすじ》が凍《こお》った。



 毒《どく》。



 あの刃《やいば》には、毒《どく》が塗《ぬ》られていたのだ。


 チガヤ自身《じしん》も、それに気《き》づいたらしい。


 ほんの一瞬《いっしゅん》。


 その目《め》が、自分《じぶん》の腕《うで》へ落《お》ちる。


 そして、すぐに敵《てき》へ戻《もど》った。

 


 まだ動《うご》ける。


 そう判断《はんだん》したのだろう。


 だが。


 黒装束《くろしょうぞく》の男《おとこ》が、一歩《いっぽ》踏《ふ》み出《だ》す。


 刃《やいば》が、ゆっくりと持《も》ち上《あ》がった。


 その動《うご》きには、もう迷《まよ》いがない。


 チガヤが構《かま》える。


 けれど。


 先《さき》ほどの鋭《するど》さは、ない。


 サクには、それが分《わ》かった。


 次《つぎ》の一撃《いちげき》を受《う》けたら――


 きっと、チガヤは。


 その考《かんが》えが頭《あたま》に浮《う》かんだ瞬間《しゅんかん》。



「――だめ!!」



 気《き》がつけば。


 サクは走《はし》り出《だ》していた。


 自分《じぶん》でも、何《なに》をしているのか分《わ》からない。


 なのに。


 身体《からだ》だけが勝手《かって》に動《うご》いていた。



 チガヤの目《め》が、大《おお》きく見開《みひら》かれる。

 


「誰《だれ》か――!!」



 叫《さけ》んだ。


 喉《のど》が裂《さ》けるのではないかと思《おも》うほどの声《こえ》だった。



「誰《だれ》か来《き》て!!」

 


 声《こえ》が夜《よる》の宮《みや》へ響《ひび》き渡《わた》る。



「人殺《ひとごろ》し!!」



 自分《じぶん》でも驚《おどろ》くほど大《おお》きな声《こえ》だった。


 胸《むね》が痛《いた》い。


 肺《はい》が焼《や》けるようだった。


 それでも、止《と》まらなかった。


 叫《さけ》びながら、サクはチガヤのほうへ駆《か》け寄《よ》る。



 黒装束《くろしょうぞく》の男《おとこ》が、舌打《したう》ちした。



「……ちっ」



 さすがに人《ひと》が集《あつ》まるのは避《さ》けたいらしい。


 男《おとこ》は一瞬《いっしゅん》だけチガヤを見《み》た。


 そして、すぐさま身《み》を翻《ひるがえ》す。


 黒《くろ》い影《かげ》が屋根《やね》へ跳《と》ぶ。


 まるで重《おも》さなど存在《そんざい》しないかのように、屋根《やね》の上《うえ》へ舞《ま》い上《あ》がった。


 次《つぎ》の瞬間《しゅんかん》には、その姿《すがた》は闇《やみ》の中《なか》へ溶《と》けていた。




 月明《つきあ》かりが雲《くも》に隠《かく》れる。


 まるで、最初《さいしょ》から何《なに》もいなかったかのように。


 男《おとこ》は消《き》えた。




 静《しず》かになった。


 あまりにも突然《とつぜん》だった。


 先《さき》ほどまで刃《やいば》がぶつかり、火花《ひばな》が散《ち》っていた場所《ばしょ》に、今《いま》は、ただ夜《よる》の風《かぜ》が吹《ふ》いている。


 遠《とお》くで、夜鳥《よどり》が一声《ひとこえ》鳴《な》く。




 サクは荒《あら》い息《いき》を吐《は》いた。


 肩《かた》が大《おお》きく上下《じょうげ》している。


 胸《むね》に手《て》を当《あ》てる。


 まだ心臓《しんぞう》が、壊《こわ》れそうなほど鳴《な》っている。


 けれど。


 今《いま》は、それどころではなかった。


 目《め》の前《まえ》にいるチガヤを見《み》る。


 片膝《かたひざ》をついたまま、腕《うで》から血《ち》を流《なが》している。



「……チガヤくん」



 声《こえ》が震《ふる》えた。


 チガヤは顔《かお》を上《あ》げる。



「俺《おれ》に構《かま》うな」



 いつもの声《こえ》だった。


 淡々(たんたん)としていて、感情《かんじょう》が薄《うす》い。


 まるで何《なに》も問題《もんだい》などないように。



「でも……」



「大丈夫《だいじょうぶ》だ」



 そう言《い》って、チガヤは立《た》ち上《あ》がろうとした。



 その瞬間《しゅんかん》――


 身体《からだ》が、大《おお》きく傾《かたむ》いた。



「あっ……!」



 サクは咄嗟《とっさ》に手《て》を伸《の》ばした。


 チガヤの身体《からだ》が、腕《うで》の中《なか》へ倒《たお》れ込《こ》む。



 思《おも》ったより、軽《かる》かった。


 もっと重《おも》いと思《おも》っていた。


 サクは慌《あわ》てながらも、両腕《りょううで》を回《まわ》した。


 細《ほそ》い身体《からだ》を、胸《むね》の前《まえ》でしっかりと支《ささ》える。



「……!」



 チガヤが目《め》を見開《みひら》いた。


 サク自身《じしん》も、驚《おどろ》いていた。


 こんなふうに誰《だれ》かを抱《だ》き留《と》めたことなんて、ない。



 それでも。


 腕《うで》に力《ちから》を込《こ》める。


 足《あし》を踏《ふ》ん張《ば》る。


 背《せ》を伸《の》ばして、どうにか身体《からだ》を支《ささ》える。



 その瞬間《しゅんかん》。


 胸《むね》の奥《おく》から、熱《あつ》いものが込み上《こ》げてきた。



(よかった……)



 自分《じぶん》の身体《からだ》で、この人《ひと》を支《ささ》えられる。



 背《せ》が高《たか》いこと。


 周《まわ》りの女《おんな》の子《こ》たちより身体《からだ》が大《おお》きいこと。


 それが、ずっと嫌《いや》だった。


 だから。


 人前《ひとまえ》では、できるだけ背《せ》を丸《まる》めていた。


 肩《かた》を縮《ちぢ》めて。


 少《すこ》しでも小《ちい》さく見《み》えるように。


 けれど、今《いま》だけは。



(わたし、背《せ》が高《たか》くて……)



(身体《からだ》も、大《おお》きくて……)



 ――よかった。



 初《はじ》めて、本当《ほんとう》に、そう思《おも》えた。


 この腕《うで》が届《とど》いて。


 この身体《からだ》で支《ささ》えられて。


 チガヤをここに繋《つな》ぎ止《と》めていられる。


 

「だめ」



 サクは、チガヤを支《ささ》えながら言《い》った。



「無理《むり》に動《うご》かないで」



「構《かま》わな――」



「いいから」



 ぴしゃり、と言《い》い切《き》った。


 自分《じぶん》でも驚《おどろ》くほど、強《つよ》い声《こえ》だった。



 チガヤが、ぱちりと瞬《まばた》きをする。


 サクを見《み》る。


 そこにいたのは。


 いつも、おどおどして。


 何《なに》かあるたびに「すみません」と謝《あやま》って。


 誰《だれ》かの顔色《かおいろ》をうかがっている少女《しょうじょ》ではなかった。



 頬《ほお》はまだ青《あお》ざめ、目元《めもと》には恐怖《きょうふ》が残《のこ》っている。


 それでも。


 チガヤを支《ささ》える腕《うで》だけは、決《けっ》して緩《ゆる》めない。



「ほら」



 サクは小《ちい》さく息《いき》を整《ととの》えた。



「こっち」



 チガヤは何《なに》か言《い》い返《かえ》そうとした。


 けれど。


 言葉《ことば》が出《で》てこない。



 結局《けっきょく》。


 そのまま黙《だま》った。


 というより。


 押《お》し切《き》られた。



 チガヤは、支《ささ》えられたままサクを見《み》た。



(……変《へん》な女《おんな》だ)

 


 チガヤは本気《ほんき》で、そう思《おも》った。


 けれど――


 その腕《うで》の温《ぬく》もりを、今《いま》だけは振《ふ》りほどこうとは思《おも》わなかった。





評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。