牙は嗤う
夜の帳が下り、投馬の宮は静寂の中に沈んでいた。
月明かりの差す屋根の上を、チガヤは音もなく駆ける。
風が生ぬるい。
こんな夜は、あまりろくなことがない。
虫の声も弱い。
空気は重く、どこか淀んでいる。
だからこそ――
影としての感覚は、いつも以上に研ぎ澄まされていた。
ぬるり、と。
まるで水の中を泳ぐ蛇のように、自分たちの目を掻い潜り、宮へ忍び込んでくる何者か。
幾度かその気配の端を捉えたことはあった。
だが、影の尾を掴むことすらできず、姿を見た者は一人としていない。
影としての格は、自分よりも何段階も上だろう。
投馬国の警戒網を抜けられている。
その事実が。
チガヤの胸の奥で燻る自尊心を苛立たせていた。
(次こそは――何としても、捕らえる)
そう思っていた。
その時だった。
――ぞくり。
背筋を冷たいものが走る。
チガヤの感覚が拾った。
いつもの小物ではない。
もっと濃い。
もっと深い。
獣のような気配。
小高い屋根の上――身を低くして周囲を見下ろしていたチガヤの目が、ある一点で止まった。
――いた。
黒い影。
人の目には夜そのものと見紛うほどの闇。
迷いなく、足早に近づく。
気配を殺す。
息を消す。
足音はない。
風すら起こさない。
完璧だった。
少なくとも。
チガヤは、そう思った。
「ほう」
不意に。
前方の影が立ち止まった。
「投馬国にも、優秀な影がいるのだな」
男の声。
静かで。
感心したような響き。
チガヤの全身が凍りつく。
この距離で気配を悟られたことなど、一度もない。
「十歩ほど後ろか? いや……八歩か」
冷や汗が伝う。
(――読まれている)
その瞬間。
男の姿が、ふっと消えた。
「――ッ!?」
気づいた時には。
「後ろだ」
耳元。
すぐ後ろから声がした。
その刹那――
ギィン!!
夜の静寂を引き裂くように、激しい金属音が響いた。
火花が散る。
チガヤの短刀と、男の刃がぶつかり合っていた。
「……!」
無意識だった。
考えるより先に身体が動いていた。
「ほう」
男が、再び感心したように声を漏らす。
「止めたか」
その衝撃で、チガヤの顔を覆っていた黒布が、ふわりと宙を舞った。
夜風に煽られ、月明かりの下へ落ちていく。
露わになった顔。
まだ少年の面影を残す、若い顔立ち。
だが。
その双眸だけは、鋭く研ぎ澄まされていた。
男の動きが、ぴたりと止まる。
月明かりの下。
わずかに見える口元が、愉快そうに歪んだ。
唇の端から覗く犬歯は牙のように鋭く、その笑みは、人のものとは思えない不気味さを漂わせていた。
「若いな」
まるで。
思いがけない宝でも見つけたかのような声だった。
チガヤは答えない。
答える余裕などない。
刃越しに伝わってくる圧迫感――本能が「死」を予期して激しく警鐘を鳴らし続けている。
――強い。
圧倒的に。
これまで刃を交えてきたどんな相手とも違う。
住む世界が。
格が違う。
「面白い」
男が、くつくつと喉の奥で笑った。
月明かりが雲の隙間から細く差し込み、その顔をかすめる。
深く被った黒い頭巾の奥には、目元だけを覆う奇妙な面があった。
古の呪具を思わせる滑らかな質感。
その表面には、幾重にも重なった渦模様が刻まれていた。
面に隠された瞳は見えない。
だからこそ、その向こうから注がれる視線だけが、肌を這うように生々しく感じられた。
「投馬国の影も、捨てたものではないな」
男が、にやりと口角を吊り上げる。
唇の隙間から覗く鋭い牙が、月明かりを受けて鈍く光った。
そして、その声には。
敵意よりも、待ち望んだ獲物を前にした肉食獣の愉悦が滲んでいた。




