色鮮やかに、恋々
翌朝。
サクは、いつも通りに朝の支度をしていた。
昨夜は、ミツの顔をまともに見られないと、あれほど悩んでいた。
けれど――
「おはよう、サク」
「あ、おはようございます」
廊下でミツと顔を合わせても、思ったほど気まずくはなかった。
ミツはいつもの明るい笑顔を浮かべている。
その笑顔を見ただけで、サクの胸にあった緊張が、すっとほどけていった。
「今日は早いね」
「はい。ちょっと早く目が覚めて……」
拍子抜けするほど、自然に話せた。
サクは、ほっと胸を撫で下ろす。
(……よかった)
昨夜、あんなに悩んだのが嘘みたいだった。
けれど。
胸の底につかえていた重たいものは、消えるどころか形を変えて引っかかり続けている。
『ちょっと、かっこいいよね』
コハナが顔を赤らめて綻ばせた笑顔と、何の気負いもない声音が、頭の中で繰り返し思い起こされる。
サクの足取りが、わずかに鈍った。
目を閉じても浮かんでくる。
コハナと、チガヤが並んでいる姿。
(……ミツさんは、すごいな)
ふと、そう思った。
あんなに端正で、モテモテのヒシン。
そんな彼が他の女の子たちに囲まれていても、ミツはいつも堂々としている。
もちろん、時々かわいらしく拗ねた顔を見せることもある。
けれど、その根っこにあるのは、揺るがない絆なのだろう。
お互いを想い、信じている。
そんな絶対的な安心感があるからこそ、揺るがずにいられるのだ。
それに比べて、自分はどうだ。
まだ、気持ちを伝えてすらいない。
チガヤが自分をどう思っているのかも分からない。
怖くて、確かめることもできない。
たぶん――嫌われてはいない。
そう思う。
チガヤは案外、誰にでも優しい。
一見すると、とっつきにくい。
少し近寄りがたいところもある。
けれど、いざという時には手を差し伸べる。
さりげなく人を気にかけることも多い。
だからこそ、他の誰かの目に留まるのも無理はない。
頭では分かっている。
分かっているはずなのに、胸の奥がチリチリと痛んだ。
(……嫌だな)
足元からじっとりと這い上がってくるような、この気持ちは何なのだろう。
恋というものは、もっと。
キラキラしていて。
透明で。
触れれば壊れてしまいそうなほど、きれいなものだと。
そう、思っていたのに。
気がつけば、胸の底には誰にも見せたくないものが渦巻いている。
ドロドロとした嫉妬。
醜い独占欲。
そんな自分の心が嫌だった。
戸口から外へ出る。
冷たい朝の空気に触れた瞬間、サクは小さく首を振った。
頭上では、明けていく空が淡い茜色から、少しずつ澄んだ青へと変わろうとしている。
その美しさとは裏腹に。
サクの心は、まだ晴れなかった。
井戸端へ向かいながら、ぼんやりと考え込んでいると――
「また背中丸まってる」
ふいに、背後から平坦な声が飛んできた。
心臓が跳ね上がる。
全身の血が一気に駆け巡ったような気がして、サクは勢いよく振り返った。
「っ……!」
そこに立っていたのは、他でもない。
チガヤだった。
今まさに、頭の中で何度も思い浮かべていた本人が、すぐ目の前にいる。
それだけで、サクの顔が一気に熱くなった。
「ち、チガヤくん……! お、おはよう。早いね」
動揺を隠そうと声を張った。
けれど、自分でも分かるほど声が上ずっている。
あたふたするサクをよそに、チガヤは眠たげに目をこすった。
そして、小さく息をつく。
「夜回りで、いま帰るところ」
ぽやぽやとした声には、夜の仕事を終えたばかりとは思えないほど、緊張感がなかった。
チガヤはそのまま井戸端へ歩いていく。
冷たい湧き水を木桶に汲み上げると、両手ですくい、自分の顔に勢いよく浴びせた。
バシャッ。
静かな朝に、水音が響く。
水飛沫が朝の光を受けて、きらきらと輝いた。
滴る水をまとった横顔が、朝日に照らされて艶やかに光っている。
あまりにも眩しくて、サクは思わず息を呑んだ。
先ほどまで胸を重くしていたものとは違う。
甘く、切ない熱が、波のように押し寄せてくる。
「……どうかした?」
チガヤは顔を拭うこともせず、濡れたままの瞳でまっすぐサクを見た。
心臓が、どくりと大きく鳴る。
うるさいほどの鼓動をごまかすように、サクは手にしていた乾いた手拭いを差し出した。
チガヤはそれを受け取る。
無造作に顔を拭いながら、首を傾げた。
「なんか、落ち込んでる?」
布越しに聞こえる声は、いつも通り平坦だった。
けれど。
その奥には、サクの様子を気にしているような響きがあった。
ただの通りすがりなら、そのまま通り過ぎていくはずだ。
それなのに、チガヤは足を止めた。
そして、サクの小さな変化に気づいて、声をかけてくれた。
――気にかけてくれている。
そのことが、たまらなく嬉しかった。
今、この瞬間。
チガヤの意識の中に、自分がいる。
そう思っただけで、先ほどまで胸の底に絡みついていた嫉妬や不安が、少しずつほどけていく。
胸の奥が、じんわりと熱くなった。
――好きだなぁ。
自然と浮かんだその言葉は、驚くほど素直だった。
恋は、きれいなものばかりではない。
嫉妬することもある。
独り占めしたくなることもある。
誰かに心を向けてほしくないと思ってしまうこともある。
そんな自分を、嫌になることもある。
それでも。
そんな醜いところも、格好悪いところも、全部ひっくるめて。
この不器用で優しい少年が、どうしようもなく好きなのだと。
サクは、今さらながら気づかされた。
「……落ち込んでなんかないよ。ちょっと、考え事してただけ」
精一杯の強がりを混ぜて、笑ってみせる。
チガヤは「そう?」と首を傾げた。
けれど、それ以上は聞かなかった。
「なら、いいけど……朝飯、まだなら一緒に行く?」
思いがけない言葉に、サクは一度、大きく息を吸った。
「い、行く!」
弾むような声が出た。
胸の奥で波打つ恋心は、まだ少し痛い。
不格好で、思い通りにならなくて、ときどき苦しくなる。
それでも――
昨日よりほんの少しだけ色づいた朝の空気の中で。
サクの日常は、鮮やかに新しい一歩を踏み出していた。




