助言
宮兵宿舎の一室は、どこか熱の冷めきらない燻るような気配を孕んでいた。
既に灯火は落とされ、月の光が窓辺に座るヒシンの影を淡く引き延ばしている。
同室の三人は完全に夢の中だ。
とりわけモモジの豪快ないびきは、地鳴りのように床板を揺らし、規則的な周期で部屋の静寂を削り取っていく。
そんな中――
ヒシンは一人、窓辺のひやりとした木枠に肘を預け、薄月が浮かぶ夜空をぼんやりと仰ぎ見ていた。
その横顔には、日頃見せる喰えない笑顔や飄々とした余裕など微塵もない。
刻まれた深い皺と、眉間に落ちた濃い影。
彼は喉の奥から、今日何度目になるかもわからない重苦しい溜め息を滑り落とした。
脳裏にへばりついて離れないのは、昼間の穀物庫裏での情けない一幕だ。
上官の声――正確には、影の技で完璧に再現されたチガヤの怒声――に慌てふためいて身だしなみを整えながら逃げ出した後のこと。
真っ赤な顔をして涙目になり、文字通り頭から湯気を立てて怒り心頭だったミツの姿が鮮明に思い出される。
『もうっ! だから嫌って言ったのに!』
(いや……嫌なんて言ってなかったし、むしろ乗り気だっただろ……)
喉まで出かかったその反論は、口にすれば火に油を注ぎ、今度こそ口をきいてもらえなくなると悟っていたため、ぐっと呑み込んだのだった。
「はぁ……」
ヒシンは顔を両手で覆い、深々と沈み込んだ。
恋人同士となり、一線を越えてしまってからのミツの可憐さは、まさに毒だった。
初めてその華奢な体を腕の中に抱き寄せた瞬間の記憶が、怒涛のように押し寄せてくる。
手のひらに伝わってきた吸い付くような肌の柔らかさ。
耳元をくすぐる甘く切ない吐息。
水を含んだように潤んだ瞳で、すがるように己の名を呼ぶ声。
たった一度解き放たれてしまった情熱は、己の想像を遥かに超える毒となって全身に回り、抑え込もうとすればするほど疼きを増す。
ミツの姿が視界に入るだけで。
その指先にほんの少し触れただけで。
腹の底から理性をあっさりと塗りつぶすような熱い情欲が跳ね上がるのだ。
己の身体を苛むどうしようもない熱に、ヒシンは今日何度目になるかも分からない溜め息を吐き出した。
その時、寝床の方で衣擦れの音がした。
ヒシンの度重なる溜め息にすっかり嫌気がさしたように、チガヤがもそりと起き上がってきたのだ。
ボサボサの頭を掻きながら、窓辺のヒシンの元へと歩み寄ってくる。
「チガヤ、起きてたのか」
「……ヒシンの溜め息がうるさくて眠れないんだけど」
「……え、そんなに溜め息ついてたか、俺」
不機嫌を絵に描いたような声に、思わずたじろぐヒシン。
「……モモジのいびきはいつものことだけど、ヒシンの辛気臭いため息は妙に鬱陶しい」
チガヤはジトッとした光のない眼で、容赦なくヒシンを見据えている。
「なぁ、チガヤ……」
ヒシンは片手で頭を抱え、掠れた声で漏らした。
「俺、おかしくなっちまったのかもしれない」
「今更でしょ」
「笑い事じゃねぇんだよ……自分でも信じられないんだ。今まで女相手にこんな風になったこと、一度もなかったのに」
窓枠に肘をつき、苦笑混じりに自嘲する。
かつては誰に対しても一定の距離を保ち、己の感情すら他人事のように冷静に眺めていた自分が嘘のようだった。
「……本命の女ってのは、こんなにも歯止めがきかなくなるもんなのかね。自分でも呆れるくらい堪え性がない」
ヒシンは自虐的に鼻で笑うと、壁にもたれかかって再び月夜を仰いだ。
「はぁ……まだガキのお前相手に、俺は何をくだらねぇ相談をしてるんだかな」
「……誰がガキだ」
チガヤは不機嫌そうに眉をひそめると、そっけない口調で吐き捨てた。
「――昼休憩の間なら、北の祭祀倉庫には誰も来ない。あそこは古い神具の保管場所だから、滅多に人が立ち入らない」
「……は?」
あまりにも具体的で唐突な助言に、ヒシンは目を丸くして固まった。
チガヤはくるりと身を翻し、自分の寝床へ向かいながら振り返ると、その唇の端をわずかに押し上げ、珍しく挑発的な笑みを浮かべた。
「次からはちゃんと場所を選べって言ってるんだよ」
言うだけ言うと、チガヤはさっさと薄い掛け布を頭からかぶり、背中を向けて横になってしまった。
静まり返った室内に、モモジの豪快ないびきだけが再び響き渡る。
ヒシンはしばらくポカンとしていたが、やがてじわじわとその言葉の意味を咀嚼し、堪えきれずに吹き出した。
「……ハッ、言っとくもんだな。ありがとな、チガヤ。いいこと教えてもらったわ」
「――別に。夜な夜な隣で溜め息つかれるのも迷惑だから……」
布団の中から返ってきたのは、すでにまどろみの中にある小さな呟きだった。
間もなくして、すぅすぅと規則正しい寝息が聞こえ始める。
ニヤリと口元を緩めたヒシンの脳裏には、明日さっそく「北の祭祀倉庫」へミツをどうやって連れ出すかという、不埒で切実な計画がめまぐるしく駆け巡っていた。




