第9話
ドウが少し口の端を上げた。笑っているのか、そうでないのか、微妙な表情だった。
「数えてたんですか」
「数えてました」
「几帳面ですね」
「几帳面ではなく、気になっているんです」ルカはメモをカウンターに置いた。「言う必要がある時に言う、と言いました。今は、まだ、とも言いました。それはどういう意味ですか。今は言う必要がない、ということですか。それとも——」
遠くの口論が、急に静かになった。
運営スタッフが仲裁に成功したらしかった。取引所の空気が、少し元に戻っていく。浮遊していた確率値が、揺れを収めてゆっくりと漂い始める。
沈黙が戻ってきた。
ドウは茶を飲み干した。紙コップを小さく折りたたんで、カウンターの端に置いた。
「ルカさん」
「何ですか」
「明日も調査を続けますよね」
ルカは少し間を置いた。
「——続けます」
「そうですね、たぶん」ドウが立ち上がった。「では、今日はこれで」
「待ってください。まだ話が——」
「明日、改めて整理しましょうか」
ドウは既に歩き始めていた。東側カウンターから取引所の出口の方向へ、いつもの穏やかな足取りで。
ルカは立ち上がりかけて、止まった。
追いかけても、ドウは答えないだろう。今日だけで三回、同じパターンが繰り返された。言いかけて、止まる。話題を変える。別の方向を向く。
言う必要がある時に言う。
今は、まだ。
——まだ、とはどういう意味か。
いつになれば「まだ」ではなくなるのか。
ドウが取引所の人混みの中に消えていくのを、ルカは見送った。
浮遊する確率値が、午後の光の中でゆっくりと漂っている。取引所の喧騒が、また少しずつ高まり始めていた。
ルカはメモを手に取った。
手元には、三日前の不審な観測パターン。南側エリアの取引記録。謎の確率師の足跡。
調査は進んでいる。手がかりは積み重なっている。
——それなのに、なぜか今日は、調査の手がかりよりもドウの「まだ」という言葉の方が、頭の隅に残り続けていた。
ルカは頭を振った。
明日も調査を続ける。それだけだ。
資料をめくる音だけが、部屋に響いていた。
ギルドの茶室は四畳半の密室で、窓から差し込む午後の光が白い紙面を均一に照らしている。取引所の喧騒が壁の向こうに遠ざかり、ここだけが別の時間を刻んでいるような静けさだった。テーブルの上には、この六日間でルカとドウが集めた調査資料が広げられていた。証言の記録、取引履歴の断片、被害者たちの残高消失前後の確率値の推移グラフ。どれも、ヴィオを除外した前提の上に積み上げられた砂の城だということを、ルカはまだ知らない。
「……えーと」
ルカは資料の束を手に取り、端を揃えながら声に出した。独り言ではなく、作業の合間に思考を整理するための口癖だった。
「別の容疑者Bの動向は、事件当日の午後二時から四時の間に確認できない。証言もない。これが一番の問題点ですね」
「そうですね、たぶん」
部屋の端の椅子で、算太ドウが茶を飲んでいた。眠そうな顔をしているのはいつものことで、今日は特に瞼が重そうに見えた。片手に茶碗、もう片手には資料の束。ただし、ドウが見ているページはルカが今手にしているものとは違う。
「確率師Cの証言も、時系列が少しずれているんですよね」とルカは続けた。「二時間のズレ。観測者バイアスの範囲内ではありますが、気になります」
「なるほど」
ドウが言った。
ルカは手を止めた。
「……なるほど、何ですか」
「え」
「今、何かのページを見て『なるほど』と言いましたよね。何が『なるほど』だったんですか」
ドウは一拍置いた。手の中の資料を、ゆっくりと閉じる。閉じてから、ルカの方を向いた。
「忘れてるわけじゃないですよ、たぶん」
「……それ、どういう意味ですか」
「忘れてるわけじゃないってことです」
「忘れてないなら教えてください」
「そうですね」とドウは言い、茶を一口飲んだ。「でも今は、確率師Cの証言の時系列のズレの方が気になりますよ、たぶん。ルカさんが言った通り」
ルカは三秒ほど、ドウの顔を見た。ドウは穏やかな顔で茶碗を両手で包んでいた。眠そうで、飄々として、何も隠していないような顔をしている。
ルカは溜め息をついた。
「……まあ、いいですけど」
「ありがとうございます」
「なぜ礼を言うんですか」
「なんとなくです、たぶん」
ルカは資料に視線を戻した。確率師Cの証言の記録。事件当日の午後、見慣れない確率師に観測を受けた、という内容。時刻が他の証言と二時間ずれている。観測者バイアスか、記憶の歪みか。あるいは——
あるいは、何か別のことか。
ルカはその考えを、意識の端で軽く押しのけた。今は整理だ。体系的に整理して、次の手を考える。感情で動くのは後にする。確率的には、今は論理の時間だ。
「それで」とルカは言った。「被害者たちの共通点として、全員が事件当日に『見慣れない確率師』から観測を受けているという点は変わらないですよね」
「変わらないですね」
「その人物の特徴が証言ごとに異なるのは、観測者バイアスによるものとして処理していますが」
「してますね」
「でも」とルカは言いかけて、止まった。
ドウが静かにこちらを見ていた。茶碗を持ったまま、表情を変えずに。
「でも?」
「……いえ」とルカは言った。「観測者バイアスで説明できます。特徴が違うのも、記憶の再構成の問題です。確率的には、そちらの方が自然な説明です」
「そうですね、たぶん」
ドウはまた茶を飲んだ。
ルカは資料の次のページをめくった。取引履歴の断片。被害が発生した時間帯の、北西エリアの確率値の推移記録。数値が系統的に歪んでいる、あの異様なパターン。誰かが、観測されない角度から——
「ドウさん」
「はい」
「さっき見ていたのは、何のページですか」
沈黙が一拍あった。
「資料ですよ」とドウは言った。「ルカさんと同じ資料です」
「同じ資料の、どのページですか」
「……どのページだったか、ちょっと」
「忘れてるわけじゃないと言いましたよね」
「そうですね」とドウは言った。穏やかに、断定を避けるいつもの口調で。「忘れてるわけじゃないですよ。ただ、今は別の話をしている方が良いと思います、たぶん」
ルカは再び三秒、ドウを見た。
今度はドウが先に視線を逸らした。窓の方を向いて、外の石畳を見ている。午後の光が斜めに差し込んで、部屋の床に長い影を作っていた。
「……まあ」とルカは言った。「いいです。整理を続けましょう」
「そうですね」
ルカは資料に戻った。
何かが引っかかっていた。言語化できない何かが、意識の端でざわついている。ドウが見ていたページ。閉じてから答えたという順序。「忘れてるわけじゃない」という言葉の奇妙な正確さ。
忘れていないなら、なぜ教えない。
ルカは、その問いを意識の表面に上げようとして——止めた。
調査だ。今は調査に集中する。感情で動くのは後にする。確率的には、今は論理の時間だ。
「被害者全員が、事件当日に同一の人物から観測を受けた可能性は高い」とルカは言った。「その人物が確率値を書き換えた。観測されない角度から。これが現時点での最も有力な仮説です」
「そうですね、たぶん」
「犯人の特定が急務です」
「そうですね」
茶を飲む音がした。
ルカは資料をめくり続けた。紙の乾いた感触が指先に伝わる。午後の光が少しずつ傾いていく。部屋の隅で、ドウが静かに茶碗を置く音がした。
「ルカさん」
「はい」
「今日の整理、お疲れ様です」
ルカは手を止めた。
「……まだ終わっていませんよ」
「そうですね」とドウは言った。「でも、少し休んでから続けた方が良いと思いますよ。確率的には、たぶん」
ルカは窓の外を見た。午後の光が暖色に変わり始めていた。
「……そうですね」
資料を閉じた。
部屋が静かになった。遠くから、ギルドの廊下で誰かが口論している声が壁越しに届いてくる。いつもの光景だ。ドウが新しい茶を淹れる音がした。湯気の匂いが、白い光の中に漂った。
ルカは、さっきドウが閉じた資料のページのことを、もう一度だけ考えた。
何を見ていたのか。
なぜ閉じてから答えたのか。
——まあ、いい。
今は整理だ。
窓からの光が、いつの間にか橙色に変わっていた。
白かった紙面が、暖かい色に染まっている。テーブルの上の資料が、夕方の光の中で少し違う顔を見せていた。ルカは手を止めて、窓の外を見た。ギルドの中庭に、長い影が伸びている。
「……もうそんな時間ですか」
「そうですね、たぶん」
ドウが茶碗を置く音がした。
ルカは資料を閉じた。今日の整理は、ここまでにしよう。別の容疑者への調査の方向性は固まっている。明日、また動く。確率的には、今日中に何かが分かるわけではない。
「ドウさん」
「はい」
「さっきの話ですが」
ドウが静かにこちらを見た。
「さっきの、何の話ですか」
「『なるほど』の話です」
「ああ」とドウは言った。穏やかに、少しだけ間を置いて。「あれですか」
「あれです。忘れてるわけじゃないと言いましたよね」
「言いましたね」
「では、何を見て『なるほど』と思ったんですか」
ドウは茶碗を両手で包んだ。窓の外を少しだけ見て、それからルカに視線を戻した。
「……言えることと、言えないことがあるんですよ、たぶん」
ルカは眉を上げた。
「今まで一度もそういう言い方をしたことがないですよね」
「そうですかね」
「ありましたか、そういう言い方」
「……なかったかもしれないですね、たぶん」
ルカは三秒考えた。
「言えないということは、何かを知っているということですか」
「知っているかどうかは、難しいですね」とドウは言った。「見たものが何を意味するか、私には確信が持てないので」
「でも何かを見た」
「見ましたね」
「それが何かを意味する可能性がある」
「可能性は、あるかもしれないですね」
ルカは深く息を吸った。
「ドウさん、それは調査に関係することですか」
沈黙があった。
ドウの手の中の茶碗が、微かに揺れた。中の茶が揺れる音がした。それだけだった。
「……関係するかもしれないし、しないかもしれないですね。今の段階では、判断が難しいです」
「判断が難しいなら、私に教えてくれれば一緒に判断できます」
「そうですね」とドウは言った。「でも、私が見たものをルカさんに伝えるには、もう少し確信が必要な気がするんですよ、たぶん」
「確信が持てたら教えてくれますか」
「……そうですね、たぶん」
ルカはドウを見た。
ドウは穏やかな顔をしていた。眠そうで、飄々として、何も隠していないような顔。でも今日は何かが少し違う気がした。何が違うのかを、ルカは言語化できなかった。声のトーンか。視線の置き方か。茶碗を持つ手の角度か。
何かが、引っかかっていた。
「ドウさんって」とルカは言いかけた。
「はい」
「……いえ」
ルカは窓の外を見た。橙色の光が中庭の石畳に落ちている。ギルドの建物の影が長く伸びて、記録室の方向まで届いていた。
記録室。
ヴィオが頻繁に出入りしているという噂の、あの記録室。
ルカはその考えを、意識の端でまた軽く押しのけた。今は整理だ。今日の調査の成果を整理して、明日の手を考える。記録室のことは、ヴィオは無関係だ。確率値は正常だった。自分の観測は正しい。
「何でもないです」とルカは言った。「明日も調査を続けましょう」
「そうですね」
「別の容疑者の動向を、もう少し詳しく調べます」
「分かりました」
ドウが立ち上がった。茶碗を片付けて、資料の束を揃えて、椅子を引いた。いつもの退室の動作。飄々として、何も変わらない。
「ドウさん」
ドウが振り返った。
「何ですか」
「さっきの話、本当に忘れてないですか」
ドウは一拍置いた。
「忘れてないですよ」と言った。「たぶん」
「たぶん、って何ですか」
「確率的に、たぶん、ということです」
ルカは溜め息をついた。
「……分かりました。では、明日」
「はい、明日」
ドウが扉に向かった。
ルカは窓の外を見ていた。橙色の光が少しずつ薄くなっていく。石畳の影が長くなる。中庭の端に、記録室の窓が見えた。今日は誰も出入りしていない。当然だ。ヴィオは事件と無関係だ。自分の観測は正しい。
——何かが、引っかかっていた。
扉が静かに開いて、閉じた。
ドウが出て行った後の部屋は、夕方の橙色の光だけが残った。テーブルの上の資料が、暖かい色に染まっている。ルカはしばらく、その資料を見ていた。
何かがおかしい気がする。何がおかしいのかが分からない。
自分の観測精度への自信が、その感覚に蓋をした。
気のせいだ。確率的には、気のせいだ。
ルカは立ち上がり、資料を抱えて扉に向かった。
廊下に出ると、ドウがまだそこにいた。壁に背を預けて、窓の外を見ていた。
「……まだいたんですか」
「はい」とドウは言った。「一緒に出ようかと思いまして」
「そうですか」
二人で廊下を歩いた。石造りの建物の廊下は薄暗く、確率値が少なく、静かだった。取引所の喧騒が遠くに聞こえる。誰かが口論している声が、壁越しに届いてくる。
「ドウさん」
「はい」
「『なるほど』って、毎回何かを見て言ってるんですよね」
「そうですね、たぶん」
「毎回見て、毎回『なるほど』と言って、毎回なんでもないと言う」
「……そうですね」
「おかしくないですか、それ」
ドウは少し考えた。廊下を歩きながら、石畳の床を見ながら。
「おかしいですかね」と言った。「私には、そういう習慣があるのかもしれないですね、たぶん」
「習慣」
「はい」
「何かを見て、なるほどと思って、言わない、という習慣」
「……そう言われると、確かにそういう習慣があるかもしれないですね」
ルカは歩きながら、ドウの横顔を見た。
眠そうで、飄々として、何も変わらない。でも今日は何かが少し違う気がした。言語化できない何かが、ルカの意識の端でざわついている。
「ドウさん、その習慣はいつから始まりましたか」
「さあ」とドウは言った。「気づいたらそうなっていた気がします、たぶん」
「気づいたら」
「はい」
ルカは廊下の先を見た。出口の扉が見えた。外の光が、扉の隙間から漏れている。橙色の光が、石畳の廊下に細い線を作っていた。
「ドウさん」
「はい」
「その習慣、直しませんか」
ドウが少しだけ笑った気がした。確信はない。廊下が薄暗くて、ドウの表情がよく見えなかった。
「考えておきます」とドウは言った。「確率的には、たぶん」
「確率的に考えるんですか、習慣を直すかどうかを」
「何事も確率ですよ」
「……そうですね」
扉を開けた。外の空気が、橙色の光と一緒に流れ込んできた。
二人で外に出た。
ルカは空を見上げた。夕方の空が、取引所の屋根の向こうに広がっていた。確率値がいくつか浮遊しているが、外の空気の中では少し動きが緩やかだった。
「明日も早いですね」とドウが言った。
「そうですね」
「お疲れ様でした」
「お疲れ様です」
二人で石畳の道を歩き始めた。
ルカはまだ、何かが引っかかっていた。
ドウが毎回何かを見て、毎回なるほどと言って、毎回なんでもないと言う。忘れてるわけじゃない、と言った。言えることと言えないことがある、と言った。確信が持てたら教える、と言った。
それは——
ルカは、その考えを、今日最後の力で意識の端に押しのけた。
気のせいだ。確率的には、気のせいだ。明日は別の容疑者の調査を続ける。それが今できる最善だ。
「ドウさん」
「はい」
「明日、よろしくお願いします」
「こちらこそ」とドウは言った。「よろしくお願いします、たぶん」
「たぶん、って何ですか」
「明日も、たぶん良い調査ができると思いますよ、ということです」
ルカは溜め息をついた。
橙色の光の中を、二人で歩いた。確率値がいくつか、夕空の中を漂っていた。
南側エリアの奥は、取引所の中でも特に確率値の密度が高い。
天井から床まで、数値が滝のように流れている。ルカが一歩踏み込むたびに、周囲の確率値がわずかに揺れた。誰かが動けば確率が動く。誰かが見れば確率が変わる。この世界の基本的なルールが、ここでは特に可視化されていた。視界の九割が確率値の光で埋まり、残りの一割でかろうじて人の輪郭が見える。
ドウが少し後ろを歩いていた。
「今日も密度が高いですね」
ドウが言った。感想なのか観測結果なのか、いつものように判然としない口調だった。
「七日目ですよ」とルカは答えながら、前方の確率値の流れを目で追った。「同じ場所を七日間調べ続けて、まだ何も出てこない。普通は何か出るはずなんですが」
「出てこない、というのも情報ですよね、たぶん」
「そうですね。出てこないということは——」
ルカは立ち止まった。
目の前の確率値が、いつもと少し違う動きをしていた。正確には「少し違う」というより「整いすぎている」という感覚だった。この区画の確率値は、高額取引の影響でいつも不規則に揺れているはずだった。それが今日は、妙に均一な動きをしている。
ルカは眉をひそめた。
それから、その感覚を意識の隅に押しやった。
今日の調査の本題は、七日前から追っている別の容疑者——取引所の北側で不審な動きをしていた確率師の関係者——の行動確認だ。ヴィオは除外した。確率値が正常だった。自分の観測は正しかった。今更その結論を疑う理由はない。
「続けましょう」とルカは言った。「あの証人の証言が、まだ確認できていません」
「そうですね、たぶん」
ドウが静かについてきた。
---
三十分後、ルカは資料を手に取ったまま動きを止めていた。
「……おかしい」
独り言のように言った。ドウが隣で確率値を眺めながら、特に反応しなかった。
「この証人の証言、前回と食い違っています」とルカは続けた。「七日前は『事件当日の午後に取引を行った』と言っていた。でも今日確認したら、『午前中だった』と言っている」
「観測者バイアスじゃないですかね、たぶん」
「それを考えました。でも時間帯の記憶というのは、感情的な印象とは別に、比較的安定しているはずです。午前と午後を取り違えるのは——」
ルカは言葉を切った。
もう一度、資料を見た。
証言の食い違いは、確かに観測者バイアスで説明できる範囲だった。人間の記憶は不完全で、特に感情的な動揺を経験した後では、細部が変容することがある。事件の被害者たちが動揺していたのは間違いない。午前と午後を取り違えることも、理論上は起こりうる。
それでも、何かが引っかかっていた。
「ドウさん」
ルカは資料から目を上げた。
ドウが振り返った。眠そうな顔だった。いつもの顔だった。
「聞いていいですか」
「どうぞ」
ルカは一瞬、躊躇した。
七日間、この問いを口にしなかった。正確には、口にしそうになって、別の言葉に変えることを繰り返してきた。業務的な確認として言い換えることで、問いの本質から目を逸らしてきた。
でも今日は、調査の流れの中で自然に出てくる形にできる。実務的な確認として。証人の証言の食い違いを分析するための、論理的な手続きとして。
「私の確率を教えてください」
言ってから、少し驚いた。思ったより直接的な言い方になった。
「今日の調査の方向性を——」とルカは続けようとした。「確率的に確認したいんです。この証言の食い違いが、私が追っている仮説の方向性と整合しているかどうか、数値で見たほうが効率的だと思って」
ドウが何も言わなかった。
一拍。
ルカはドウの顔を見た。いつもと同じ、眠そうな顔だった。でも、何かが——わずかに——止まっていた。ドウの手が、茶を持ち上げかけて、止まっていた。
その止まり方が、少し長かった。
「取引所の混雑で」とドウは言った。穏やかな声だった。「少し見にくい状況ですね、今は」
周囲を見渡した。確率値の密度が高く、視界が霞んでいた。確かに、この区画は観測の精度が落ちやすい環境だった。
「では後で」とルカは言った。
「ええ、後で」
ドウが答えた。
茶を飲んだ。
ルカは資料に視線を戻した。証言の食い違いの分析を再開した。観測者バイアスという結論に向かって、論理を組み立て直した。ドウが数値を教えてくれれば確認できる。後で聞けばいい。今は調査に集中すべきだ。
「後で」という言葉が、思ったよりも軽く空気に溶けていった。
---
午後三時を過ぎた頃、ルカは一つの結論に達した。
「この証言の食い違いは、観測者バイアスで説明できます」
資料を折りたたみながら言った。
「記憶の時間的な歪みは、感情的な動揺の後に頻繁に発生します。被害者たちは全員、残高消失という重大な被害を受けていた。その状況では、細部の記憶が変容することは十分にありえる。午前と午後の取り違えも、その範囲内です」
「なるほど」とドウが言った。
「つまり、この証言の食い違いは私が追っている仮説の方向性を否定するものではない。引き続き、同じ方向で調査を進めます」
ドウが何も言わなかった。
「どう思いますか」とルカは聞いた。
「そうですね、たぶん」
いつもの答えだった。
ルカは少し待った。ドウが何か続けるかと思って。でもドウは茶を飲んで、南側エリアの確率値の流れを眺めているだけだった。
「ドウさん、さっきの件ですが」
「ああ」とドウが言った。「数値の件ですか」
「ええ。混雑が少し落ち着いてきましたよね。今なら」
ドウが周囲を見渡した。確率値の密度は、確かに少し下がっていた。午後三時を過ぎると、高額取引の時間帯が一段落して、南側エリアの混雑は緩和される傾向があった。
「そうですね」とドウは言った。「少し落ち着いてきましたね、たぶん」
ルカは待った。
ドウが確率値の流れを見ていた。ルカの方向を一瞬確認して、また確率値に視線を戻した。
「ルカさんの確率は」とドウは言い始めた。
ルカは耳を傾けた。
「今日は」
ドウが少し間を置いた。その間が、いつもより長かった。
「なかなか面白い数値ですよ」
それだけだった。
「面白い、というのは」
「ああ、あそこで揉めてますね」
ドウが南側エリアの奥の方を指した。確かに、二人の取引師が確率値を巡って口論を始めていた。声が大きくなっていた。
ルカは口論の方向を見た。それから、ドウに視線を戻した。
ドウはすでに口論の方向を向いていた。
「面白いというのは、具体的にどういう意味ですか」とルカは言った。
「数値が」とドウは言った。口論を眺めながら。「今日の調査の方向性と、少し——」
口論が大きくなった。一方の取引師が確率値の表示を指差して、もう一方が首を振っていた。周囲の取引師たちが振り返り始めた。
「少し、何ですか」
「少し、興味深いというか」とドウは言った。「まあ、後で改めて確認しますよ、たぶん」
口論が取引所のスタッフを呼ぶ展開になった。スタッフが駆けてきて、二人の間に入った。周囲の取引師たちがざわめいた。確率値が複数、同時に動いた。
ルカはその動きを目で追った。口論の原因を把握しようとした。今日の調査と関連する可能性があるかどうか、確認する必要があった。
「後で、というのはいつですか」
「落ち着いたら」とドウが言った。「あの口論が落ち着いたら」
「口論は関係ないでしょう」
「そうですね、たぶん」
ドウが茶を飲んだ。
口論が収まりつつあった。スタッフが間に入って、両者が離れていった。周囲のざわめきが静まっていった。確率値の動きが落ち着いた。
「落ち着きましたね」とルカは言った。
「そうですね」
「では、改めて」
ドウが確率値の流れを眺めた。南側エリアの奥の方を見ていた。特に何かがあるわけではなかった。ただ、確率値が流れていた。
「今日は」とドウは言った。「この区画、少し見にくいですね、まだ」
ルカは周囲を見渡した。確かに、口論の影響で周囲の確率値がまだ少し乱れていた。完全に落ち着くまで、もう少し時間がかかるかもしれなかった。
「では後で」とルカは言った。
今日、何度目の「後で」だろうか。
「ええ、後で」
ドウが答えた。
---
午後四時になった。
ルカは今日の調査のまとめを書いていた。証言の食い違いについて、観測者バイアスによる記憶の変容という結論を記録した。調査の方向性は変わらない。引き続き、別の容疑者の動向を追う。ヴィオは除外済み。確率値が正常だった。自分の観測は正しかった。
「ドウさん」
「はい」
「今日の調査、どう思いますか」
ドウが少し考えた。
「証言の食い違いは、確かに観測者バイアスで説明できますね、たぶん」
「そうですね」
「ただ」
ルカが顔を上げた。
「ただ、何ですか」
ドウが確率値の流れを見ていた。南側エリアの確率値は、午後四時になると少し落ち着く。高額取引の時間帯が終わって、密度が下がる。視界が少し開ける。
「ルカさんの確率、今日は」
ルカは待った。
「なかなか面白い数値ですよ」
「それは三回目ですよ」とルカは言った。「面白いというのが何を意味するのか、今日一度も教えてもらっていません」
「そうでしたっけ」
「そうでしたっけ、ではないですよ」
ドウが茶を飲んだ。
「ドウさんは、『忘れてるわけじゃないですよ、たぶん』と言うんですよね。毎回」




