第8話
後ろからドウが続いてきた。茶碗を持ったままだった。
「確率値というのは、現在を映す鏡のようなもの、って」ルカは歩き出しながら続けた。「未来を予測するツールでしょう、普通は。鏡って何ですか、鏡って」
「そうですね、たぶん」
ドウが穏やかに答えた。
「変わった言い方だとは思いますけど」
「哲学的な言い回みが好きな人なのかもしれません」ルカは廊下の先を見た。「でも確率師として、確率値が何を示すものかという認識は重要です。鏡というのは——現在を映すというのは、つまり今の状況しか見ていない、ということですよね。それだと未来への予測ができない」
「……そうですかね」
ドウの声のトーンが、わずかに変わった気がした。
ルカは振り返らなかった。書類を整理しながら、次の調査の段取りを考えていた。
「でも今日の会合で、ヴィオさんは事件当日に記録室にいたことが確認できました。アリバイとしては十分です。確率値も正常でしたし、この方向の調査は一旦——」
「ルカさん」
ドウが呼んだ。
ルカは足を止めた。振り返ると、ドウが廊下の途中で立ち止まっていた。茶碗を手に持ったまま、ルカを見ていた。
「何ですか?」
「一つ聞いてもいいですか」
「どうぞ」
ドウは少し間を置いた。廊下の奥から、誰かの口論の声が低く響いてくる。石の壁に反響して、声の出所がわからない。
「ルカさんは、確率値が未来を見せていると思いますか」
ルカは目を丸くした。
「……はい?」
「確率値が」ドウは繰り返した。「未来を見せているものだと、思いますか」
「当然でしょう」
ルカは即答した。
「確率値は現在の状況から算出された未来の可能性の数値です。それを観測して判断を下すのが私たちの仕事です。何を今さら」
「そうですかね」
ドウが呟いた。
「そうですかね、って——何ですか、その言い方」ルカは少し呆れた顔をした。「ドウさん、今のヴィオさんの話を聞いていましたよね。鏡、という言い方が気になっているんですか?」
「気になっているかどうかは、よくわからないですけど」
ドウは茶碗を持ったまま、廊下の先に目を向けた。
廊下の突き当たりに、記録室の扉があった。
取っ手が、他の扉よりも磨り減っている。ルカは昨日もそれを見た。几帳面な研究者が頻繁に使っているのだろう、と思った。
「ドウさん」
「はい」
「何か言いたいことがあるなら、はっきり言ってください」
ドウは視線を記録室の扉から外した。ルカの方を向いた。
「特に何も」
「また『そうですかね』ですか」
「たぶん」
ルカはため息をついた。
ドウの「たぶん」は何かを含んでいる時と、本当に何も含んでいない時がある。今がどちらなのか、ルカにはわからなかった。
「ヴィオさんの観測結果は正常でした」ルカは繰り返した。「確率値が正常な人間が犯行に関与しているとは考えにくい。この方向は除外して——」
「そうですね、たぶん」
ドウが先に歩き出した。
ルカは一瞬だけ、ドウの背中を見た。
*なんで先に行くんだ。*
何かを言おうとして、やめた。言うべきことがあるのかどうかも、よくわからなかった。
ドウが歩き出した方向の廊下の先に、記録室の扉があった。
ルカはその扉をもう一度見た。磨り減った取っ手。几帳面な研究者。ヴィオが「過去の観測データ」を確認していると言っていた。
*過去の観測データ。*
ルカは首を振った。
調査は別の方向に向いている。ヴィオの確率値は正常だった。記録室に通っているのは、ただの業務だ。
「ルカさん」
ドウが少し先から呼んだ。
「次の聞き込みの段取り、確認しますか」
「ええ」
ルカは書類を抱え直して、歩き出した。
廊下を歩きながら、ルカはヴィオの言葉を頭の中で転がしていた。
*現在を映す鏡。*
*未来を予測するツールでしょう、確率値は。*
*そういう解釈もありますね、とヴィオは言った。*
引き下がり方が妙だった。同意でも反論でもなく、「そういう解釈もある」という言い方が。まるで、他の解釈が当然あるかのように。
ルカは首を振った。
*哲学的な言い回みが好きな人なんだろう。*
ドウが廊下の先で立ち止まり、壁際の窓から外を見ていた。
「ドウさん、どうかしましたか」
「いえ」ドウは窓から視線を外した。「なんでもないですよ、たぶん」
ルカはドウの隣に並んで、窓の外を見た。
中庭だった。石畳の上に、午前の光が落ちていた。確率値がいくつか浮遊しているが、外の光の中では色が薄く見える。
「ドウさん」
「はい」
「ヴィオさんのこと、どう思いましたか」
ドウは少し間を置いた。
「博識な方ですね」
「そうですね」
「几帳面で」
「そうですね」
「……確率値が正常だったなら、事件とは無関係だと思います」ドウは穏やかに言った。「たぶん」
「そうです」ルカは頷いた。「確率的には、そういうことです」
ドウが茶碗を持ち直した。
「では、次の聞き込みに行きましょうか」
「そうしましょう」
二人は廊下を歩き始めた。
ルカの頭の中で、ヴィオの言葉がまだ揺れていた。
*現在を映す鏡。*
*そういう解釈もありますね。*
*——どちらの見方をするかで、確率師としての在り方が変わってくる。*
変わってくる、とヴィオは言った。
何が変わるのか。
ルカは廊下の先を見た。ドウが少し前を歩いている。その背中を見ながら、ルカは次の調査の手順を頭の中で組み立て始めた。
ヴィオの言葉は、その作業の中に溶けていった。
廊下の突き当たりで、記録室の扉が静かに閉じていた。
「では、確認させてください」
ルカは椅子を少し引いた。テーブルを挟んだ向かい側、ヴィオの周囲に浮かぶ確率値は、この小部屋の中でも数個だけ、静かに漂っていた。
取引所の大広間と比べれば、ここはずいぶん静かだ。確率値の密度が低く、浮遊する光の数が少ない。それが逆に、一つひとつの数値を際立たせる。
「観測させていただきます」
「もちろんです」
ヴィオが穏やかに答えた。完璧な敬語だった。声のトーンも、表情も、何一つ崩れていない。
「ただ——」
ヴィオが続けた。
「少し、目を細めて見た方が精度が上がりますよ。あなたの場合」
ルカは一瞬、手を止めた。
確率師に観測方法を指示する依頼人。初めてだ。
「……珍しいですね」
思わず口から出た。
「確率師に観測の手順を指示されるのは、初めてです」
「申し訳ありません」ヴィオは微笑んだ。微笑んだ、というより、微笑みに近い何かが顔の上に現れた、という方が正確かもしれない。「余計なことを言いました。ただ、あなたほどの観測精度をお持ちの方であれば、焦点を少し絞ることで——」
「いえ」
ルカは遮った。
「試してみます」
プロとして、依頼人の意見を無下にする理由はない。ヴィオが博識な確率師であることは、ギルドの廊下での立ち話からも明らかだった。几帳面な人物だという印象もある。観測方法への助言も、そういう性格から来るものだろう。
ルカは目を細めた。
視界が、わずかに霞む。
確率値の輪郭が、少しだけぼやける。しかしそれは、ヴィオが言った通り、焦点を絞った時の感覚に似ていた。雑多な情報を削ぎ落とし、対象だけを見る、あの感覚。
——精度が上がる、か。
ルカは観測を始めた。
ヴィオの周囲に浮かぶ確率値を、一つひとつ確認する。数値の動き、揺れ方、その安定性。確率師として十年近く積み上げてきた感覚が、自動的に分析を始める。
数値は、正常だった。
揺れはあるが、それは通常の範囲内だ。大きな感情的変動の痕跡もない。何かを隠している時に現れる特有のパターン——確率値が特定方向へ傾く、あの歪み——も見当たらない。
ルカは目を開いた。
「確率値は正常ですね」
短く、確信を持って言った。
「事件とは無関係と判断します」
ヴィオが穏やかに頷いた。
「そうですか」
「ご協力ありがとうございました」
「いえ」ヴィオは立ち上がる前に、一度だけルカを見た。「こちらこそ、お時間をいただきありがとうございます。零花さん」
ルカは書類を手に取りながら、ヴィオが退室するのを見送った。
扉が静かに閉まる。
小部屋に残ったのは、ルカとドウと、壁際の椅子に座ったままのドウだけだった。
——正常だった。
ルカは自分の判断を、もう一度頭の中で確認した。
十年近く確率を読んできた。他者の感情の揺れ、意図の歪み、隠蔽の痕跡。そういったものは、確率値に必ず現れる。今回も同じだ。ヴィオの数値は、どこにも異常がなかった。
「これで調査の方向が絞れました」
ルカはドウに向かって言った。
「ヴィオさんは除外します。別の方向を当たりましょう」
ドウは壁際の椅子から立ち上がった。茶を飲む動作をしていたが、その手がわずかに止まった。
——気のせいか。
ルカはそう思って、次の書類に目を向けた。
「そうですね」
ドウが答えた。
「たぶん」
その「たぶん」が、いつもより少しだけ間があった。
しかしルカは、書類を手に持ったまま立ち上がっていた。扉に向かいながら、次の調査の手順を頭の中で組み立て始めていた。
ドウの声のわずかな間も、茶を持つ手が止まった一瞬も、ルカの意識の表面には届かなかった。
外の日差しは明るかった。
ギルドの石造りの建物から一歩出ると、光の量が一気に変わる。薄暗い廊下の空気が背中に残っているうちに、午前の日差しが正面から当たる。確率値の光が日光に溶け込んで、視界が一瞬だけ白く飛ぶ。
「よし」
ルカは小さく言った。誰に向けたわけでもなく、ただ、決断を確認するように。
「ヴィオさんは除外。次は別の方向から当たります」
ドウが後ろから出てきた。扉を閉める音がした。
「そうですね」
ドウが言った。
ルカはドウの返答を聞きながら、手の中の書類に目を落とした。ゴンが提供した別の容疑者情報。取引所の南側エリアで動きがあるという話だった。確認すべき事項がいくつかある。
「ドウさん、午後の調査の段取りですが——」
「……そうですかね、たぶん」
ルカは顔を上げた。
ドウが言ったのは、ルカの言葉への返答ではなかった。ルカが言い始める前に、ドウがそう言った。独り言のような、しかし確かにルカに向けられた言葉だった。
「……どういう意味ですか」
「いえ」ドウは穏やかに続けた。「ヴィオさんが除外、というのが、そうですかね、たぶん、と思っただけです」
ルカはドウを見た。
ドウはいつもの顔をしていた。少し眠そうな目。特に何も言っていないような、飄々とした表情。しかしその返答は、ドウにしては珍しく曖昧だった。
「どういう意味ですか」ルカはもう一度聞いた。「確率値は正常でした。私が観測して確認しています」
「そうですね」
「ヴィオさんが事件に関与している根拠は何もありません」
「そうですね」
「ドウさん」
ルカは声に少しだけ力を込めた。
「何か気になることがあるなら、言ってください」
ドウは一拍置いた。
「いえ」
「いえ、では——」
「嬢ちゃん!」
大声が来た。
玄関の石段の下から、ゴンが手を振りながら駆け上がってくる。いつもの豪快な笑顔で、何か良いものを見つけた時の顔をしていた。
「待っとったで! さっきの話の続きやけど——」
「嬢ちゃんと呼ぶな」
ルカは即座に返した。
「あ、そうそう、それな」ゴンは全く気にした様子もなく、ルカの隣に並んだ。「南側エリアで面白い話が出てきてな。あの容疑者の取引相手、もう一人おったらしいんや。俺の知り合いが——」
「待ってください」
ルカはゴンを遮って、ドウの方を向いた。
ドウはすでに石段の一段上に立っており、取引所の方向を見ていた。ルカが振り返った時、ドウの視線はルカではなく、遠くの通りに向いていた。
「ドウさん、さっきの話——」
「嬢ちゃん、聞いてる?」ゴンが割り込んだ。「もう一人の取引相手がな、事件当日に——」
「ゴンさん、少し待って」
「いや、これ急ぎやって。その人、明日には取引所から——」
「わかりました、聞きます」
ルカはため息をついた。
ゴンの情報は侮れない。これまでも何度か、ゴンが何気なく持ってきた情報が調査の突破口になったことがある。今回も無視するわけにはいかない。
ドウへの問いは、後でいい。
「で、その人物は何者ですか」
「それがな——」
ゴンが話し始めた。南側エリアの常連取引師の話、その人物が事件当日に不審な動きをしていたという目撃情報、ゴンの知り合いが偶然聞いたという細かい話。次々と情報が出てくる。
ルカはメモを取りながら聞いた。確認すべき点、照合すべき証言、当たるべき人物。調査の方向が具体的になっていく。ヴィオを除外した上で、この線を追えばいい。
「以上や」ゴンが締めくくった。「どや、役に立つやろ」
「助かります」
「そやろ、そやろ。俺の情報網はギルドより広いで、知らんけど」
ゴンが笑った。ルカも書類を整理しながら、小さく笑った。
ゴンはいつもこうだ。大言壮語と、しかし本物の情報が混在している。笑いながら付き合っていると、気づいた時には重要な手がかりを持っていたりする。
「では、午後から南側エリアへ」
ルカは言った。
「ゴンさんも来ますか」
「もちろんや。俺の顔が広い場所やで、あそこは。任せとき」
ゴンが石段を降りながら言った。「先に行っとくわ。ちょっと寄るとこあるし」
「わかりました。一時間後に南側の入口で」
「了解や。嬢——零花さん」
ゴンが珍しく名前で呼んだ。ルカが振り返ると、ゴンはすでに通りに出ていて、手を振りながら歩き去っていくところだった。
ルカは視線をドウに戻した。
ドウはまだそこにいた。石段の一段上に立ったまま、取引所の方向を見ていた。
「ドウさん」
ルカは声をかけた。
ドウが振り返った。いつもの顔だった。
「では、今日は特に面白い数値ですよ」
ルカは眉を上げた。
「何ですか、それは」
「ルカさんの確率の話です」ドウは言った。「今日は特に」
「だから、具体的には——」
ドウはすでに石段を降り始めていた。ルカの方を向かずに、通りの方向へ歩きながら言った。
「午後の調査、頑張ってください」
「待って、今の話——」
しかしドウは振り返らなかった。
ルカは石段の上に立ったまま、ドウの背中を見た。ドウはいつものように、少し眠そうな歩き方で通りを進んでいく。何も言わなかったような、何も知らないような、あの飄々とした歩き方で。
今日は特に。
その言葉が、ルカの耳の中に残った。
いつもの「今日はなかなか面白い数値ですよ」ではなく、「今日は特に」。
——特に、とは。
ルカは書類を手に持ったまま、しばらくドウの背中を見ていた。しかし答えは出なかった。ドウはもう通りの向こうに消えかけていた。
ゴンの情報を確認しなければならない。午後の調査の準備もある。ヴィオを除外した上で、新しい方向を当たる段取りを組まなければならない。
ルカは書類を手に取り直して、石段を降り始めた。
「今日は特に」という言葉は、ルカの意識の中で、ゴンの情報の整理に押し流されていった。
南側エリアに踏み込んだ瞬間、確率値の密度が変わった。
取引所の他の区画とは比べものにならない。浮遊する数値が重なり合い、視界が乳白色を通り越して霞んでいる。高額取引区画特有の圧力——数字の重さが、文字通り空気に滲んでいた。
「嬢ちゃん、こっちこっち」
ゴンが人混みの中で手を振っている。常連客と思しき男に何か耳打ちしながら、片手でルカたちを呼んでいた。三人で歩くには少し狭い通路を、ゴンが先頭で切り開いていく。
「ほんまに顔広いですね」
ルカが言うと、ゴンは振り返らずに胸を張った。
「当たり前やろ。俺がこの取引所で何年やってると思てんの。ここの常連の七割は俺の情報で動いてるんやで、知らんけど」
「七割は盛りすぎでしょう」
「細かいこと言うなや。——あ、おっさん、ちょっと待って」
ゴンが急に立ち止まり、別の方向へ駆け出した。顔見知りを見つけたらしい。ルカとドウは通路の端に寄って、ゴンが戻るのを待つ形になった。
調査六日目。
ヴィオを無関係と断じてから、ルカは別の方向を向いて走り続けている。ゴンが提供した容疑者情報——取引所の南側エリアで不審な動きをしていた確率師の存在——を追って、今日も同じ区画に来ていた。昨日より一歩、手がかりに近づいている感触があった。
「今日も面白い数値ですよ」
ドウの声が、ゴンの大声が遠ざかった隙間に滑り込んできた。
ルカは反射的に振り向いた。ドウは相変わらず眠そうな顔で、霞む視界の中の確率値をぼんやりと眺めている。
「今日も、ですか」
「ええ、今日も」
「昨日も言ってましたよね、それ」
「言いましたっけ」
「言いました」ルカは少し語気を強めた。「一昨日も言いました。その前も言いました。毎回言いかけて、毎回話題を変えるんですよ、ドウさんは」
ドウが少し首を傾けた。否定も肯定もしない、いつもの表情だった。
「具体的な数値を教えてください」
「今日は取引所の混雑が——」
「それも毎回言いますよね」
ドウが口を閉じた。
霞む視界の中で、確率値がいくつか揺れた。高額取引区画の喧騒が、二人の間の空気に音として流れ込んでくる。遠くでゴンの大声がした。常連客と何か交渉しているらしい。
「——なあ、ドウさん」
ゴンが戻ってきた。汗をかきながら、息を少し弾ませている。常連客との立ち話を終えたらしかった。
「ドウさんって、ルカさんの確率、毎回ちゃんと読んでるよな?」
ルカは少し驚いた。ゴンがこういう問い方をするのは珍しかった。
ドウが「そうですね、たぶん」と答えた。
「じゃあなんで毎回言わへんの?」
ゴンの問いは、ルカが何度も心の中で立てながら言葉にできなかったものだった。直球で、遠慮がなくて、だからこそ刺さる。
ドウは一拍置いた。
その一拍が、ルカには少し長く感じられた。
「言う必要がある時に言いますよ」
「今は必要ない、ってこと?」
ドウがルカの方を向いた。一瞬だけ、視線が合った。
「……今は、まだ」
「まだってなんやねん」ゴンが笑った。「知らんけど、なんか意味深やな」
「そんなことないですよ、たぶん」
ドウが茶を取り出して一口飲んだ——いつの間に買っていたのか、小さな紙コップだった——そしてルカの方を向いた。
「それより、さっきの常連さんから何か聞けましたか」
ゴンが即座に切り替わった。
「聞けた聞けた。あのな、嬢ちゃん——」
「嬢ちゃんと呼ぶな」
「——ルカさん。あの確率師、三日前にもここに来てたらしいで。しかも今回と同じ時間帯に。偶然とちゃうと思うわ、知らんけど」
ルカの頭の中で、情報の断片が動いた。三日前。同じ時間帯。南側エリア。
「目撃した人は?」
「一人だけ。でも顔は覚えてないって。確率師の格好やったとは言うてたけど」
「また証言の食い違いが出ますね」
「観測者バイアスやろ、きっと」
ゴンが軽く言って、また別の常連客に手を振った。
ルカは少し考えた。観測者バイアス。そうだ、それで説明できる。証言が食い違うのは、見た人間によって確率値の影響が異なるからだ。この区画は特に確率値が密集しているから、記憶の精度が落ちやすい。
「でも、三日前と今回で時間帯が一致しているのは偶然ではないかもしれません」
「そやろ? 俺もそう思う」ゴンが胸を張った。「さすが嬢ちゃん、話が早い」
「嬢ちゃんと呼ぶな」
「すまんすまん。——次、誰に聞き込みするん?」
ルカは頭の中で手順を整理した。三日前の同じ時間帯に目撃された確率師。南側エリアの高額取引区画。観測者バイアスで証言が食い違う。この手がかりを繋げれば、もう少し輪郭が見えてくるはずだった。
「この区画の取引記録を確認したいです。三日前の同時間帯に、どんな取引が行われていたか」
「それやったら俺、知り合いがおるわ。記録管理の担当者」
「ゴンさんの知り合いって、何者なんですか」
「いろいろや。知らんけど」
ゴンがまた人混みに突っ込んでいった。ルカとドウは後に続く。
霞む視界の中で、確率値が揺れる。高額取引区画の喧騒が、三人の足音を飲み込んでいく。
ルカは歩きながら、ドウの「まだ」という言葉を頭の隅で転がしていた。
今は、まだ。
まだ、とはどういう意味か。いつになれば「まだ」ではなくなるのか。
——でも、調査の手がかりが積み重なっている今、そんなことを考えている場合ではなかった。ルカは頭を切り替えた。
「ゴンさん、その担当者はどこにいますか」
「もうちょっと奥や。ついてきて」
三人は、霞む視界の中を進んでいった。
記録管理の担当者から得た情報は、期待以上だった。
三日前の同じ時間帯に南側エリアで行われていた取引の記録。そこに、不審な観測パターンが一件だけ残っていた。通常の確率師の観測ログとは微妙に異なる数値の動き——証拠とは言えないが、手がかりとしては十分だった。
ゴンが「俺の人脈、役に立ったやろ」と自慢し、ルカが「今回だけは認めます」と答え、ゴンが「今回だけとはなんやねん」と言って笑いながら別の用事で去っていった。
いつもの定位置に戻ると、取引所の昼の喧騒が少し落ち着いていた。
ルカは東側カウンターの椅子に腰を下ろし、手元のメモを広げた。ドウが隣に座って、どこからか調達してきた茶を一口飲んでいる。
「記録の不審なパターン、どう思いますか」
「そうですね」ドウが茶を持ったまま少し考えた。「通常の観測ログと比べると、確かに数値の変動タイミングが——」
「微妙にずれている」
「ええ。微妙に、ですね、たぶん」
「偶然の誤差の範囲内と言えなくもないですが」
「言えなくもないですね」
「でも」ルカはメモに視線を落としたまま言った。「三日前と今回で、同じパターンが繰り返されている。偶然が二度続くのは、少し不自然です」
「そうですね、たぶん」
昼の取引所は、朝のピーク時より確率値の密度が薄かった。浮遊する数値がゆっくりと漂い、視界が少しだけ澄んでいる。遠くで誰かが口論しているが、ここまでは声の断片しか届かない。
ルカはメモをめくった。
「次のステップを整理します。まず、この不審な観測パターンを残した確率師の身元を特定する。次に、その人物が事件当日にも南側エリアにいたかどうかを確認する。そして——」
「ルカさん」
ドウの声が、ルカの言葉を遮った。
珍しかった。ドウが話の途中で遮ることは、あまりない。
ルカは顔を上げた。ドウは取引所の中程を見ていた。視線の先に特に何かあるわけではない。浮遊する確率値が、午後の光の中でゆっくりと漂っているだけだった。
「何ですか」
「いえ」ドウは取引所から視線を戻さないまま言った。「今日も、面白い数値ですよ。たぶん」
ルカは少し息を吐いた。
「それ、さっきも聞きました」
「そうでしたっけ」
「聞きました。ゴンさんにも指摘されていましたよね」
ドウが取引所から視線を戻した。ルカと目が合った。ドウの表情はいつもと変わらない——眠そうで、穏やかで、何を考えているのか分からない顔だった。
「ゴンさんが言ってましたね。なんで毎回言わないのか、って」
「言ってましたね、たぶん」
「ドウさんの答えは、言う必要がある時に言う、でしたよね」
「そうですね」
「今は、まだ、とも言いました」
ドウが少し間を置いた。
「言いましたね」
「『まだ』というのは」ルカはメモを手に持ったまま、少し慎重に言葉を選んだ。「いつになれば、まだではなくなるんですか」
ドウは答えなかった。
取引所の喧騒が、二人の間の空気に流れ込んでくる。誰かが驚いて飲み物をこぼした音がした。遠くで口論の声が上がり、また静かになった。浮遊する確率値が、午後の光の中でゆっくりと揺れている。
ルカはドウの答えを待った。
ドウは茶を一口飲んだ。
「それは」ドウが言いかけた。
——その瞬間、取引所の別のカウンターで大きな声が上がった。
「ちゃうやろ! その計算、絶対ちゃうやろ!」
誰かが確率値を巡って口論を始めたらしかった。声が取引所全体に響き、周囲の確率師たちが一斉にその方向を向いた。浮遊していた確率値がいくつか大きく揺れた。
ルカも反射的にその方向を見た。
口論の声が続いている。二人の確率師が、互いの観測結果の数値を巡って激しく言い合っていた。取引所の運営スタッフが間に入ろうとしている。
ルカはドウに視線を戻した。
ドウは茶を飲んでいた。口論の方向を一瞬見て、また取引所の別の場所に視線を移している。いつもと変わらない、穏やかな顔だった。
「——言いかけていましたよね」
ルカが言うと、ドウが「そうでしたっけ」と答えた。
「そうでした。『それは』と言いかけて止まりました」
「ああ」ドウが少し考えるような顔をした。「そうでしたね、たぶん」
「続きは何ですか」
ドウは答えなかった。
遠くの口論がまだ続いている。運営スタッフが二人の確率師を引き離そうとしている声が、断片的に聞こえてくる。
ルカはドウの横顔を見た。
ドウは取引所の中程を見ていた。浮遊する確率値を眺めているのか、その奥の何かを見ているのか、ルカには分からなかった。
「ドウさん」
「はい」
「あなたは毎回、数値を言いかけて話題を変えます」
「そうですかね」
「そうです。今日だけで三回目です」




