第7話
それだけではなかった。ゴンが捕まえた二人目の常連——カワムラという名の若い確率師——も、似たような証言をしていた。事件当日、見慣れない確率師に観測された。その後、確率値が少しだけ変な感じになった。顔は覚えていない。
「パターンが揃ってきた」
ルカは呟いた。「被害者全員が、事件当日に見慣れない確率師と接触している。そしてその直後に確率値の異常が生じている。これは偶然ではない」
「ですね、たぶん」
ドウが茶を淹れながら言った。湯気が細く立ち上がる。「で、その見慣れない確率師が、観測されない角度から確率値を書き換えた、と」
「そういうことになります。問題は、どうやって観測されない角度を確保したか、ですが」
「それはまた次の問題ですね」
「そうです。今日の収穫は十分です。明日は——」
「嬢ちゃん」
声が飛んできた。
ルカは顔を上げた。ゴンがカウンターに近づいてくるところだった。荷物を肩にかけている。帰り支度をしていた。
「嬢ちゃんと呼ぶな」
「そやそや、零花さん」ゴンが訂正した。「俺、今日はこれで帰るわ。また明日」
「お疲れ様です。今日はありがとうございました」
「いやいや。俺の人脈がなかったらヤマザキにもカワムラにも会えてへんかったやろ。感謝してくれていいで」
「してます」
「ほんまか? もっと感謝の気持ちを顔に出して」
「これが私の感謝顔です」
ゴンが「嘘つけ」と笑った。ルカも、口の端がわずかに上がった。
ゴンが荷物を直した。歩き出そうとした。
「そういえば嬢ちゃん」
「呼ぶな」
「零花さん。ひとつ聞いていいか」
ゴンの声が、わずかに変わった。大言壮語の時の声ではなく、もう少し低い、普段着の声になっていた。ルカは資料から目を上げた。
「なんですか」
「ヴィオさんって、事件当日どこにいたか、確認した?」
ルカは一拍置いた。
「奏確ヴィオさんのことですか」
「そや」
「確認しました」ルカは即答した。「確率値が正常でしたから、無関係です」
「そうか」
ゴンが言った。
普通なら、そこで「そうか、よかった」とか「ならええか」とか、何か続くはずだった。ゴンという人間は、沈黙が苦手だ。何か言わずにいられない。それがゴンという人間の基本的な構造だ。
なのに。
ゴンは何も言わなかった。
一拍。二拍。
「……知らんけど」
それだけ言って、ゴンは歩き出した。振り返らなかった。
ルカは、ゴンの背中が人混みに消えていくのを見ていた。
知らんけど。
ゴンの「知らんけど」はいつも、大言壮語の締めくくりとして使われる。「俺がやったら絶対うまくいく、知らんけど」「あの取引は三倍になる、知らんけど」——そういう使い方だ。自信満々の発言に免責事項として付け足す、ゴン特有の言葉。
今の「知らんけど」は、違った。
何かを言いかけて、言えなくて、それでも何か言わずにはいられなくて、出てきた言葉が「知らんけど」だった——そういう「知らんけど」だった。
ルカは資料に視線を戻した。
「ゴンさんらしい曖昧な言い方ですね」
ドウに向かって言った。
ドウは茶を一口飲んだ。「そうですかね、たぶん」
「ヴィオさんのことを聞いてきたのが意外でした。あの方と面識があるんでしょうか」
「さあ」
ドウが言った。「取引所は広いですから」
「そうですね」
ルカは資料に目を落とした。ヴィオ。奏確ヴィオ。ギルドの権威ある確率師。初対面の時の、完璧な敬語と博識な言い回み。確率値は正常だった。観測した。目を細めて、丁寧に観測した。結果は正常だった。
無関係だ。
「明日は、この証言をもとに別の容疑者の動向を追います。カワムラの証言によれば、見慣れない確率師は事件の二日前から南側エリアに出入りしていた可能性がある。その動線を——」
「ルカさん」
ドウが言った。
ルカは顔を上げた。ドウはカウンターに肘をついて、取引所の中央通路の方を見ていた。確率値の一群が大きく動いていた。誰かが大きな取引を成立させたのかもしれない。
「何ですか」
「ゴンさんって、大事なことほど本当のことを言う人ですよ、笑いながら」
ドウが言った。いつもの穏やかな口調だった。取引所の喧騒を眺めながら、雑談のように。
ルカは少し考えた。「それは……ゴンさんの自慢話が実は経験に基づいている、ということですか」
「そうかもしれないですし、そうじゃないかもしれないですね、たぶん」
「曖昧ですね」
「ドウさんですから」
ルカは自分で言って、少し苦笑した。ドウが振り返って、こちらを見た。穏やかな、いつもの顔だった。
「確かにそうかもしれませんね」とルカは言った。「ゴンさんの話、聞き流すことが多いですが、経験から来てる部分もある」
「ありますよ、きっと」
「今日の自慢話は……残高荒稼ぎで一番大事なのは誰も見ていない時に動くことだ、でしたっけ」
「そんなようなことを言ってましたね」
「それも経験から来てるんでしょうか」
「さあ」ドウが茶を飲んだ。「ゴンさんに聞いてみたらどうですか」
「今日はもう帰ってしまいましたが」
「明日いますよ、たぶん」
ルカは頷いた。資料を整理し始めた。今日の収穫をまとめて、明日の調査計画を立てる。
見慣れない確率師。横方向のずれ。観測されない角度。
手がかりは増えている。方向は見えている。
ルカは資料を重ねながら、ゴンの「知らんけど」を思い出した。
——ヴィオさんって、事件当日どこにいたか、確認した?
なぜゴンがヴィオの名前を出したのか、分からなかった。ゴンとヴィオに接点があるとは思えない。ゴンは取引所の常連で、ヴィオはギルドの確率師だ。活動範囲が違う。
ただの雑談だろう。ゴンはああいう人間だ。思ったことを口に出す。思ったことが何もなくても口に出す。
「では、明日の調査の段取りを確認しましょう」
ルカは言った。ドウが「そうですね、たぶん」と答えて、茶を置いた。
取引所の午後の喧騒が、二人の周囲を包んでいた。確率値が乱舞し、誰かが口論をしていて、床のどこかが濡れていた。いつもの日常だった。
ゴンが角を曲がって消えた方向を、ルカは一度だけ見た。
それから、資料に向き直った。
調査は、進んでいる。
それで十分だった。
廊下の確率値は、取引所のそれとはまるで質が違う。
「ザ・オッズ」では数値が乱舞し、視界を常に霞ませている。けれどここ「プロバビリスト・ギルド」の廊下に浮かぶ確率値は、どれも穏やかに、ほとんど動かずに漂っていた。石造りの建物が持つ重さが、確率値にまで伝播しているかのようだった。
ルカは報告書を脇に抱え、廊下を進んだ。ドウが少し後ろをついてくる。茶を飲む音がしないから、今は手ぶらなのだろう。
「あ、零花さん」
廊下の中ほどで、確率師の同僚が数人、立ち話をしていた。一人がルカに気づいて声を上げる。
「今日も取引所の方ですか? 大変でしたね、あの事件」
「調査中です」ルカは短く答えた。「ご協力いただいている皆さんには感謝しています」
「いえいえ」と別の確率師が首を振る。「零花さんが動いてくれているなら、こちらとしても安心というか。あなたの観測精度は本当に——」
「ありがとうございます」
お世辞は苦手だ。ルカは会釈して歩き続けようとした。
しかし足が、止まった。
「——ヴィオさんが最近また、記録室に」
声は、廊下の少し奥から聞こえた。別の確率師二人が、壁際で話し込んでいる。ルカに気づいていないらしく、声のトーンが落ちていない。
「——頻繁にね。先週も三日続けて」
「そうなんですか? あそこ、古い観測データしかないでしょうに」
「ですよね。何を調べているんでしょう」
ルカはそのまま歩き続けた。一拍だけ遅れて。
*記録室。また、その名前が出た。*
頭の中で何かが引っかかったが、すぐに別の考えが上書きした。几帳面な研究者が過去のデータを参照する。それだけのことだ。ヴィオほどの実力者なら、過去の観測記録を参照して自分の理論を検証することもあるだろう。
「零花さん」
最初に声をかけてきた確率師が、ルカに追いついてきた。四十代ほどの、温和な顔をした男性だ。ギルドの資格審査委員会に所属していると聞いたことがある。
「少しよろしいですか。今回の調査のことで」
「もちろんです」
「実は——」確率師は声を少し落とした。「ヴィオ先生についてなんですが」
ルカは足を止めた。
「ヴィオさんですか」
「ええ。今回の事件の調査で、ギルド関係者も対象になり得るというお話でしたよね。それで、ヴィオ先生についてもし何かお聞きになることがあれば、と思いまして」
「ヴィオさんについて、何か?」
「いえ、特別な話というわけでは——」確率師は少し言葉を選ぶように間を置いた。「ただ、あの方の実績は、ギルドの中でも飛び抜けていますから。もし参考になるなら、と」
ルカは廊下の確率値を一つ眺めた。穏やかに漂っている。
「ヴィオさんの実績について、聞かせていただけますか」
確率師の顔が少し明るくなった。
「それはもう。あの方の観測精度は——私が見てきた中でも、本当に別格です。確率値の読み取りに際して、観測者バイアスが極めて小さい。同じ対象を観測しても、他の確率師と比べて誤差が出ないんです」
「誤差が出ない」
ルカは繰り返した。
「ええ。それも、長年にわたって安定している。大きな案件でも、複雑な状況でも、ヴィオ先生の観測値は揺れない。それが信頼の根拠になっていて——」
廊下の奥から、別の確率師の声が聞こえてきた。
「——ヴィオさんって、確か証人を使わないんですよね?」
声は、別の立ち話グループから漏れてきたものだった。ルカの方向ではなく、廊下の壁に向かって話している。
「そうらしいですよ。私も不思議に思って聞いたことがあるんですが」
「自己観測は不可能なのに、ですか?」
「本人は『必要ない』って仰るそうで。ただ——」
そこで声が低くなり、聞き取りにくくなった。
ルカの隣にいた確率師が、少し苦笑した。
「証人を使わないというのは、確かに珍しいですよね。ただ、ヴィオ先生の場合は——あれだけの実力があれば、自己観測に近い精度を持っているのかもしれません。私たちとは、そもそも別の水準にいる方ですから」
「なるほど」
ルカはうなずいた。
証人を使わない。自分の確率を誰にも観測させない。
それは確かに奇妙な選択だ。この世界では、自分自身の確率は自分には見えない。だから証人という職業が存在する。どれほど優秀な確率師であっても、自分自身の確率を読むことはできない——それは世界の法則だ。
でも、ヴィオほどの実力者なら。
ルカは一拍置いてから、その考えを閉じた。
合理化だ、とどこかで気づいていた。でも今は調査の優先事項がある。
「ヴィオさんは、今回の事件の調査にも協力的でいらっしゃいますか」
「ええ、もちろん。あの方はギルドの倫理審査委員会にも関わっていらっしゃいますし、今回の件については特に——」確率師は少し声を落とした。「ただ、最近は少し……」
そこで廊下の奥から別の確率師が大声で名前を呼んだ。
「田中さん! さっきの件、確認お願いできますか?」
「あ、失礼」確率師——田中という名らしい——が申し訳なさそうに頭を下げた。「続きはまた。ヴィオ先生については、ぜひ一度直接お話を」
「ありがとうございます」
田中が廊下の奥へ歩いていく。
ルカはその背中を見送りながら、「最近は少し」という言葉の続きを考えた。
何が言いかけられたのか。
「——ルカさん」
ドウが、ルカの少し後ろから声をかけた。いつの間にか、ドウが隣に並んでいた。茶のない手が、廊下の壁際に軽く触れている。
「何ですか」
「証人を使わないというのは、確かに珍しいですね」ドウは言った。穏やかなトーンで。「たぶん」
「そうですね」ルカは答えた。「ただ、ヴィオさんほどの実力なら、それだけ自己の観測精度が高いということかもしれません」
「そうですかね」
ドウの返事が、いつもより少しだけ間があった。
ルカは廊下を進みながら、ドウの方を振り返らなかった。
「明日、ヴィオさんとの会合が設定されていますよね」
「はい」
「直接お話を聞けるでしょう。確率的には、それが一番早い」
「そうですね、たぶん」
ドウが答えた。いつもの口癖で。
ルカは廊下の先を見た。記録室への通路が、左手に分岐している。扉は閉まっていた。
*几帳面な研究者が、過去のデータを参照する。それだけのことだ。*
「では、報告書を提出して今日は上がりましょう」ルカは言った。「明日に備えて」
「そうですね」
二人は廊下を進んだ。記録室の扉の前を、通り過ぎながら。
報告書の提出を終えたのは、午後四時を少し過ぎた頃だった。
ギルドの担当者——事務方の中堅で、いつも几帳面に書類を揃えている女性——が、ルカの報告書を受け取って一通り目を通した後、「奏確ヴィオ様との会合を明日の午前十時に設定しました」と告げた。
「ご確認をお願いします」
「わかりました」
ルカは受け取った書類に目を落とした。会合場所は、ギルド内の密談用の小部屋——茶室と呼ばれている四畳半ほどの部屋だ。ルカが同僚と軽口を交わす時に使う場所でもある。
「ヴィオさんの方から、場所はどこでも構わないとのことでした」担当者が付け加えた。「ご都合に合わせますと」
「ありがとうございます」
ルカは書類をドウに渡した。ドウが受け取りながら、さらりと目を通す。
「明日の午前十時ですね」ドウが言った。「そうですか」
「何か問題がありますか」
「いえ、たぶん」
いつもの口癖で返ってきた。ルカは担当者に会釈して、廊下に出た。
夕方のギルドは、朝よりも人が少ない。業務を終えた確率師たちが帰宅し始め、廊下の確率値も少し動きが鈍くなっていた。石造りの建物に、夕方の光が斜めに差し込んでいる。
ルカは出口の方向へ歩き始めた。
そして、記録室の前で足が止まった。
意識してではなかった。廊下を歩きながら、自然に視線が引き寄せられた。
記録室の扉は、他の扉と同じ木製だ。しかし扉の取っ手が——他の扉の取っ手と比べて——明らかに磨り減っていた。金属の表面が、長年の使用によって光沢を失い、中央部分が薄くなっている。
*頻繁に使われている。*
ルカは一瞬だけ立ち止まった。
*几帳面な研究者が、過去のデータを参照する。それだけのことだ。*
合理化が、一拍遅れてやってきた。
ルカは歩き続けた。取っ手から視線を外して、出口の方向へ。
「ルカさん」
ドウが後ろから声をかけた。
「何ですか」
「記録室、見てましたね」
「通りかかっただけです」ルカは言った。「磨り減った取っ手が目に入っただけで」
「そうですか」
ドウの返事は、短かった。
ルカは振り返らなかった。
廊下の先に、出口の扉が見える。そこから外に出れば、今日の仕事は終わりだ。明日、ヴィオと直接話す機会がある。それで十分だ。
「ドウさん」
「はい」
「ヴィオさんが記録室に通っているという噂、どう思いますか」
少しの間があった。廊下の確率値が、一つだけ静かに動いた。
「どう、とは」ドウが言った。「どういう意味でしょう」
「調査に関係があるかどうか、という意味です」
「ああ」ドウは少し考えるような間を置いた。「記録室には、過去の観測データが保管されていますよね、たぶん」
「そうです。古い確率観測の記録が、大量に」
「それを、ヴィオさんが参照している」
「そういうことになります」
「なるほど」
ドウが言った。いつもの口癖で。
ルカは出口の扉を押した。外の光が差し込んでくる。夕方の、少し傾いた光だ。
「明日、直接聞けばわかります」ルカは言った。「確率的には、それが一番効率的です」
「そうですね、たぶん」
二人は建物の外に出た。石畳の上に、夕方の光が長い影を作っている。取引所の方向から、遠く喧騒が聞こえてくる。
ルカは歩きながら、明日の会合について考えた。ヴィオという人物に、どう切り込むか。どんな角度から観測を試みるか。相手は確率師ギルドの権威ある人物で、観測精度が高く、証人も使わない——。
*証人も使わない。*
その事実が、もう一度頭の中を通り過ぎた。
ルカは歩き続けた。石畳の上を、一歩ずつ。
「ドウさん」
「はい」
「あなたは明日、どんな準備をしますか」
ドウが、少し考えるような間を置いた。
「準備、ですか」
「証人として、ヴィオさんを観測する準備です。相手は確率師ギルドの中でも実力者ですし、観測の精度という意味では——」
「ルカさん」
ドウが、ルカの言葉を遮った。
珍しいことだった。ドウがルカの言葉を遮ることは、ほとんどない。
ルカは足を止めて振り返った。
ドウは石畳の上に立っていた。夕方の光が、ドウの横顔に斜めに当たっている。いつもの穏やかな表情で——しかし何かが、わずかに違う気がした。
「何ですか」
「明日の会合、ルカさんが観測する前に」ドウは言った。「私の方から確率値を確認しますね、たぶん」
「それはいつもやっていることでしょう」
「そうですね」ドウはうなずいた。「ただ、明日は特に」
「特に?」
「なんでもないですよ、たぶん」
いつもの口癖で、会話が閉じた。
ルカは少しの間、ドウの顔を見た。何かを読み取ろうとして——読み取れなかった。
「では、明日に備えて今日は早めに休みましょう」ルカは言った。「確率的には、十分な準備が精度を上げます」
「そうですね、たぶん」
二人は石畳を歩き続けた。ギルドの建物が、後ろに遠ざかっていく。
ルカは前を向いたまま、ドウの「特に」という言葉の意味を考えた。
そして、考えることをやめた。
明日、直接会えばわかる。それで十分だ。
夕方の光が、石畳の上で長く伸びていた。取引所の喧騒が、遠くから届いてくる。いつもの、日常の音だ。
ルカは歩きながら、明日のヴィオとの会合について考え続けた。どんな角度から観測を試みるか。どんな言葉で切り込むか。相手がどんな反応を示すか。
ギルドの記録室の、磨り減った取っ手のことは、もう考えていなかった。
茶室の扉を開けた瞬間、空気が変わった。
確率値が少ない。
ルカは無意識にそう感じた。取引所の大広間では天井から床まで数値が乱舞しているが、この小部屋には浮遊する確率値がほとんどなく、二人の間に数個だけが静かに漂っている。窓から差し込む朝の光が斜めに入り、その数値を薄く照らしていた。
「零花さん」
部屋の奥から声がした。
テーブルを挟んで向こう側に、奏確ヴィオが座っていた。
背筋が真っすぐだった。手はテーブルの上で静かに重ねられ、視線はルカを正面から捉えている。確率師ギルドの制服は一分の乱れもなく、髪も整っていた。ルカが今まで会ってきた確率師の中で、これほど「整っている」人間はいなかった。
ルカは一瞬だけ、ドウを確認した。ドウは部屋の隅の椅子に腰を下ろし、茶を淹れている。いつもの所作だった。
「失礼します」
ルカはテーブルの前に座った。
「お時間をいただきありがとうございます、奏確さん」
「こちらこそ」
ヴィオの声は穏やかだった。低すぎず、高すぎず、言葉の一つひとつが丁寧に選ばれているような話し方だった。
「調査にご協力できることがあれば、と思っておりました。ギルドの事案ですから」
「ありがとうございます」ルカは書類を取り出した。「では早速ですが、事件当日のことをお聞きしてもよいでしょうか。奏確さんは——」
「その前に、少しよろしいですか」
ルカは顔を上げた。
ヴィオが微笑んでいた。完璧な微笑みだった。口角の角度も、目元の緩み方も、何もかもが計算されているように見えた。
「確率値というのは、現在を映す鏡のようなものですから」
ルカは首を傾げた。
「……はい?」
「調査のお話をする前に、少しだけ」ヴィオは続けた。「確率師として、確率値というものをどう捉えておられるか、お聞きしたかったのです。零花さんは——ザ・オッズの零と呼ばれるほどの方ですから」
「未来を予測するツールでしょう」
ルカは即座に答えた。当然のことを聞かれたような気がして、少し戸惑いを感じながら。
「確率値は現在の状況から未来の可能性を数値化したものです。それを観測して判断を下すのが確率師の仕事です。違いますか」
「ええ、そういう解釈もありますね」
ヴィオは穏やかに引き下がった。
その引き下がり方が妙だった。反論でもなく、同意でもなく、「そういう解釈もある」という言い方が。
*鏡? 現在を映す? なんだそれは。未来を映すものだろう、確率値は。*
ルカは喉の奥でツッコみながら、咳払いをした。
「では、当日のことを——」
「もう一つだけ」
またヴィオが遮った。今度は少し前のめりになり、ルカの顔を見た。
「観測のことです」
「観測?」
「零花さん、私の確率値を観測してみていただけますか」
ルカは一瞬、固まった。
依頼人に確率を観測してもらうことを求めるのは珍しくない。しかし確率師に観測方法を指定する依頼人は——初めてだった。
「構いませんが」ルカは少し苦笑した。「確率師に観測方法を指示する依頼人、初めてですよ」
「失礼しました」ヴィオは頭を下げた。「ただ——少し、目を細めて見た方が精度が上がりますよ。あなたの場合」
ルカはヴィオの顔を見た。
几帳面な人だな、と思った。自分の確率値を観測される側が、観測する側の精度を気にするなんて。確かにヴィオは証人を使わないと聞いていた。そういう性格なのかもしれない。
「……わかりました」
ルカは目を細めた。
視界が少し霞んだ。確率値の輪郭がわずかにぼやける。集中するための動作だ、とルカは思った。精度を上げるために視野を絞る——そういうことだろう。
ヴィオの周囲に浮遊する確率値を読んだ。
正常だった。
特筆すべき異常はない。感情的な高揚も、強い決意も、深い恐怖も、数値には現れていなかった。穏やかで安定した確率値だった。
「……正常ですね」ルカは目を開いた。「特に問題のある数値ではありません」
「ありがとうございます」
ヴィオが頷いた。その表情は変わらなかった。
*几帳面だな。本当に。*
ルカは書類を手に取り直した。
「では改めて。事件当日——」
「もちろん、お答えします」
ヴィオは背筋をさらに伸ばし、ルカを見た。
「当日、私は午前中にギルドで会議がありました。午後は記録室で資料の確認をしておりました。取引所の北西エリアには、一切立ち入っておりません」
「記録室に、どのくらいいましたか」
「午後二時頃から、四時頃まで」
「一人で?」
「はい。資料の確認は個人作業ですから」
ルカは書き留めながら、次の質問を考えた。記録室。また記録室だ。廊下でその名前を聞いたのは、もう何度目だろう。
「記録室では、どのような資料を?」
「過去の観測データです」ヴィオは少し間を置いた。「ギルドの記録は膨大ですから、定期的に整理と確認が必要なのです。私はそれを担当しております」
「なるほど」
ルカは頷いた。
確かにヴィオほどの立場の確率師なら、ギルドの記録管理を担当していても不思議ではない。
質問を続けながら、ルカはヴィオの話し方を観察していた。答えが丁寧だった。あまりにも丁寧で、あまりにも整っていた。言葉の選び方も、間の取り方も、視線の向け方も。
完璧だった。
*完璧すぎる。*
ルカは一瞬そう思ったが、すぐに打ち消した。完璧な人間がいてもおかしくない。それがヴィオという人物なのだろう。
「最後に一点」ルカは書類を閉じた。「事件当日、取引所の北西エリアで確率値の異常な動きを観測した、という証言があります。その時間帯、奏確さんは記録室にいたとおっしゃいましたね」
「はい」
「記録室から北西エリアは、かなり距離がありますね」
「そうですね」
「では、アリバイとしては十分だと思います」
ヴィオは微笑んだ。
「お役に立てたなら幸いです」
会合が終わった。
ルカが立ち上がりながら、書類をまとめていた時だった。
「零花さん」
ヴィオがもう一度呼んだ。
「先ほどの話ですが」
「はい?」
「確率値が現在を映す鏡、という言い方をしました」ヴィオは静かに続けた。「零花さんは未来を予測するツールだとおっしゃいましたね」
「ええ」
「どちらが正しいか、という話ではありません」ヴィオは窓の外に目を向けた。中庭の光が差し込んでいる。「ただ——どちらの見方をするかで、確率師としての在り方が変わってくる、と思っているのです。私はそう感じています」
ルカはヴィオの横顔を見た。
何かを言おうとして、やめた。
「……参考にします」
「失礼しました」ヴィオは再び視線をルカに戻した。「余計なことを申し上げました」
「いえ」
ルカは扉に向かった。
背後でヴィオが立ち上がる気配がした。確率値が静かに揺れる。部屋の隅でドウが茶を飲み干す音がした。
扉を開けると、廊下の光が差し込んできた。
廊下は薄暗かった。
茶室の扉を閉めると、朝の光が遮断され、石造りの建物特有の冷えた空気が戻ってきた。遠くの部屋から誰かの口論の声が反響している。ギルドの日常だった。
ルカは書類を抱えたまま、少し立ち止まった。
「ヴィオさん、少し変わった言い回しをしますね」




