第6話
ドウはすでに茶を飲んでいた。口論の方向を見ていた視線が、いつの間にか手元の小瓶に戻っている。
「ドウさん」
「はい」
「今、話を変えましたよね」
「そうですか」
「そうです。口論を指摘して、私が視線を向けた隙に——」
「あの口論、少し大きくなってきましたね」
ドウが穏やかに言った。
ルカは口を閉じた。
確かに声が大きくなっていた。周囲の取引師たちが少し離れ始めている。取引所のスタッフが駆け寄っていくのが見えた。
「……あれは放っておいても大丈夫ですか」
「スタッフが来ましたから、たぶん」
「そうですね」
ルカは視線を戻した。ドウは茶を飲んでいた。
「ドウさん」
「はい」
「今日の数値の話は、もういいです」
ドウは少し間を置いた。
「そうですか」
「ええ。後でいいと言いましたが、後でもいつまでも来ないようなので」
「……すみません」
ドウが言った。
ルカは少し驚いた。ドウが「すみません」と言うのは珍しかった。謝罪ではなく、何か別のことを言おうとして、言葉が「すみません」になった、という感じの間があった。
「いえ」
ルカは言った。「調査に集中します。今日の午後は、別の方向から手がかりを探してみます。ゴンさんのルートとは別に、被害者の周辺をもう少し丁寧に——」
「そうですね」
ドウが言った。「たぶん、そっちの方がいいかもしれないですね」
「そう思いますか」
「ええ」
ルカはドウの横顔を見た。
ドウは大広間の方向を見ていた。口論はすでに収まっており、スタッフが二人の間に入って話をしている。確率値が口論の余韻でまだ少し揺れていた。
「ドウさん」
「はい」
「一つだけ聞かせてください」
「何ですか」
「今日の数値は、良い数値ですか」
ドウは一拍置いた。
茶を飲んだ。
「面白い数値です」
「それは聞きました」
「面白い数値、ということは」ドウは言った。「良くも悪くも、ということかもしれないですね。たぶん」
ルカはしばらく考えた。
「……まあ、いいですか」
「まあ、いいんじゃないですかね」
ドウが穏やかに言った。「たぶん」
ルカは記録を開いた。午後の調査の計画を立て直す。被害者の周辺をもう一度丁寧に当たる。証言の食い違いについて、もう少し細かく確認する。観測者バイアスの影響を整理する。
「では、午後は——」
「ルカさん」
ドウが言った。
ルカは顔を上げた。
ドウは大広間の方向を見ていた。ルカの方を向いていない。確率値の浮遊する空間を、ぼんやりと眺めている。
「何ですか」
「……いえ」
ドウは言った。「なんでもないですよ、たぶん」
ルカはしばらく待った。
ドウは何も続けなかった。茶を飲んだ。大広間の方向を見ていた視線が、手元の小瓶に戻った。
「……また言いましたね」
ルカは言った。
「何をですか」
「なんでもないですよ、たぶん」
「ああ」ドウは少し考えた。「口癖ですから」
「口癖ですか」
「そうですね、たぶん」
ルカは息を吐いた。
大広間の喧騒が、また少し大きくなってきた。午後の取引が始まる時間が近づいている。確率値の密度が上がり、視界の霞が戻ってくる。床のどこかで、誰かが飲み物をこぼした音がした。
「午後の調査を始めましょう」
ルカは立ち上がった。
「そうですね」
ドウも立ち上がった。小瓶を懐に戻しながら、大広間の方向に目を向けた。その視線の動きが、一瞬だけ止まった。
ルカは気づかなかった。すでに記録を手に持って、次の目的地を確認していた。
「被害者の周辺から当たり直します。証言の食い違いについて、もう少し詳しく——」
「そうですね」
ドウが言った。「たぶん、そっちに何かあるかもしれないですね」
「たぶん、ではなく」
「あるかもしれないですね」
ルカは歩き出した。ドウが後に続く。
大広間の喧騒が戻ってきた。確率値が乱舞し始め、視界が再び白く霞む。どこかで口論が始まり、誰かが驚いて声を上げた。床が濡れていく音がした。
いつもの午後が、また始まった。
ドウの目を伏せる動作を、ルカは見ていなかった。
境界を越えた瞬間、世界が変わった。
正確には、世界から何かが消えた。
確率値がない。
ルカは立ち止まりそうになったが、足を止めなかった。立ち止まると、何かを認めることになる気がした。確率値がないことに、動揺しているということを。
「歩きにくいですね」
独り言のつもりだったが、声に出ていた。
後ろを歩いていたドウが、返事をしなかった。
路地は古い石畳で、建物と建物の間が狭く、昼間でも影が濃い。取引所では常に視界の三割から四割を確率値の光が占めているが、ここにはそれがない。その分、看板の文字が鮮明に見えた。飲食店の名前、営業時間、今日のおすすめ。数字が一切ない。確率値の代わりに言葉だけが並んでいる。
変な感じだった。
「ドウさん」
「はい」
「ここ、方向感覚が狂いませんか。確率値がないと、自分が今どこにいるか分からなくなる」
「そうですか」
そうですか、とドウは言った。同意でも否定でもない、ただの相槌。ルカは少し振り返ったが、ドウの顔は見なかった。前を向いて歩き続けた。
飲食店の窓から、人々の声が漏れてくる。笑い声。食器が触れ合う音。確率値がない場所でも、人は笑うのか、とルカは思った。当たり前のことを、当たり前でないことのように思っている自分に気づいて、少し恥ずかしくなった。
窓の中を横目で見た。
四人掛けのテーブルに一人で座っている男がいた。スープを飲んでいた。急いでいない。ゆっくり、確実に、一口ずつ飲んでいた。男の周囲に確率値はない。何かを決断しようとしている様子もない。ただ食べている。
ルカは視線を前に戻した。
「ここに来る人たちって、何のために来るんでしょうね」
「疲れた人が多いんじゃないですかね、たぶん」
「確率値に?」
「そうじゃないですかね」
ドウの声が、いつもと少し違う気がした。
ルカは立ち止まった。振り返ると、ドウがすぐ後ろにいた。ルカより一歩分だけ後ろ。いつもそうだ。一歩分だけ後ろ。観測に適した距離を、無意識に保っているのかもしれない。
「ドウさん」
「はい」
「あなたが好き嫌いを言うの、珍しいですね」
ドウは少し首を傾けた。
「好き嫌いですか」
「さっき、疲れた人が多いって言ったじゃないですか。それって、ここに来る人たちへの評価でしょう。好意的な」
「そうですかね、たぶん」
そうですかね、たぶん。ルカはその言葉を頭の中で繰り返した。ドウのその口癖は、同意とも否定とも取れる。何かを言っているようで、何も言っていない。ルカが聞き返すたびに、ドウはそう言って、それ以上何も言わない。
「……まあ、いいです」
ルカは前を向いた。
路地を曲がると、少し広い通りに出た。飲食店が並んでいる。昼過ぎの時間帯で、客が多かった。確率値のない空間に、これだけの人が集まっている。
食べ物の匂いが濃くなった。何かを焼いている匂い。スパイスの匂い。ルカは少し立ち止まって、匂いを確認するように息を吸った。取引所では、飲み物をこぼした床の匂いと、大勢の人間の匂いが混じっていて、食べ物の匂いはその中に埋まっている。ここでは食べ物の匂いだけがある。
「……ここ、好きなんですよね」
ドウが言った。
ルカは立ち止まった。今度は振り返った。
ドウは路地の入口に立っていた。ルカより少し後ろ。窓から漏れる光が、ドウの横顔に当たっていた。ドウの顔はいつもと変わらない。眠そうな目。穏やかな表情。だが何かが、ほんの少しだけ違った。
肩が、下がっていた。
取引所にいる時のドウは、気づかないくらいわずかに肩が上がっている。ルカはそれを今まで意識したことがなかったが、今、ドウの肩が下がっているのを見て、初めて気づいた。取引所では、ドウはずっと肩が上がっていたのだと。
「好き、ですか」
ルカは聞き返した。
「ええ」とドウは言った。「確率が見えないと、なんか……」
ドウが言葉を止めた。
ルカは待った。
「静かじゃないですか」
静かじゃないですか。
ルカはその言葉を繰り返した。頭の中で。確率値がない場所が静かだと、ドウは言っている。でも今、この路地は静かではない。食器の音がする。会話の声がする。笑い声がする。
「静かですか、ここ」
「確率値がない、という意味で」とドウは言った。「数字がないと、なんか……静かな気がするんですよね、たぶん」
ルカはしばらく考えた。
確率値が静かだという感覚が、ルカにはなかった。確率値は常にそこにある。浮遊して、揺れて、他の人間が観測するたびに数値が変わる。それは当たり前のことで、空気があることと同じくらい当たり前のことで、静かとか静かでないとか、そういう問題ではない。
ただ、ドウがそう言っている。
「証人なのに、確率が見えない場所が好きというのは、矛盾しませんか」
ドウは少し間を置いた。
「矛盾、ですかね」
「あなたの仕事は確率を観測することでしょう。確率が見えない場所に来ると、仕事ができない」
「そうですね、たぶん」
「それなのに好きというのは」
「矛盾してるかもしれないですね」とドウは言った。「矛盾してるかもしれないですけど、好きなものは好きなので」
「……そういうものですか」
「そういうものじゃないですかね、たぶん」
ルカは前を向いた。歩き始めた。ドウがついてくる気配がした。一歩分だけ後ろ。
飲食店の一つの窓に、老人が座っていた。窓際の席。外を見ていた。確率値のない外を。老人の目は穏やかで、何かを探しているわけでも、何かを考えているわけでもなかった。ただ、外を見ていた。
ルカは老人から目を逸らした。
「確率が見えない場所で、人はどうやって判断するんでしょうね」
独り言だった。声に出したつもりではなかったが、声に出ていた。
「直感、じゃないですかね」とドウが言った。「たぶん」
「直感」
「ええ」
直感。ルカはその言葉を転がした。確率師にとって直感は、確率値を読む能力の副産物だ。確率値を見て、数値を読んで、その積み重ねが直感になる。確率値なしの直感というのは、確率値を読む経験のない人間の直感で、それは精度が低い。
でも、ここにいる人たちは、確率値なしで判断している。そして笑っている。食べている。話している。
「……確率的には、直感は信頼性が低いんですが」
「そうですね、たぶん」
「でも、ここの人たちは普通に生活しているように見える」
「見えますね」
「矛盾してますよね」
「そうかもしれないですね」
ドウの声は、いつもと同じだった。穏やかで、断定を避けて、何かを言っているようで何も言っていない。でも今、ルカはその声を少し違う耳で聞いていた。
ドウはここが好きだと言った。
ドウが好き嫌いを言うのを、ルカはほとんど聞いたことがない。茶は飲む。それは知っている。でもどんな茶が好きかは知らない。どんな場所が好きかも、今まで聞いたことがなかった。
そのドウが、ここが好きだと言った。
確率が見えないから静かだと言った。
ルカは路地の先を見た。盲区の奥に続く道。確率値がない、静かな道。
「……確率がないと、人はどうやって判断するんでしょうね」
もう一度言った。今度は独り言ではなく、ドウに向けて。
「直感、じゃないですかね」とドウは同じように答えた。「たぶん」
二人は並んで歩いた。一歩分の距離は変わらなかった。食べ物の匂いが続いた。窓から笑い声が聞こえた。確率値のない路地を、二人は歩いた。
盲区の奥まで行くつもりはなかった。
調査のルートとして通過するだけで、立ち止まる理由はない。確率値が見えない場所は不便だ。観測ができない。判断の根拠がない。目的地へ向かうための最短ルートが盲区を通っていたというだけで、ここに来たかったわけではない。
でも、ルカは少し歩みを緩めていた。
気づいたのは、路地の突き当たりが見えてきた頃だった。突き当たりの先に、確率値が薄く見えている。境界が近い。盲区から出る手前の、確率値が戻り始める地帯。
「もうすぐ出ますね」
ルカは言った。
返事がなかった。
振り返ると、ドウが少し後ろで立ち止まっていた。路地の真ん中に、一人で立っている。窓から漏れる光の中に、ドウの輪郭がある。
「ドウさん?」
「あ、すみません」
ドウはすぐに歩き始めた。いつもの歩調で、いつもの一歩分の距離を保って。ルカは前を向いて歩き続けた。
境界が近づくにつれて、確率値が増えていった。最初は一つ、二つ。遠くにぼんやりと浮かんでいる。それが少しずつ増えて、少しずつ鮮明になって、やがてルカの視界に確率値の光が戻ってきた。
取引所の密度ではない。でも、確率値はある。
ルカは少し息を吸った。
落ち着く、と思った。確率値があると落ち着く。それは当たり前のことだ。確率師にとって確率値は仕事の道具で、道具があると落ち着く。
「やっぱり確率値があった方が落ち着きますね」
ルカは言った。
「そうですかね、たぶん」
ドウが答えた。
境界線を越えた。
確率値が一気に増えた。視界に光が戻ってきた。路地の先に、取引所のある方角が見える。そちらから喧騒の音が聞こえてくる。複数の声。口論の声。確率値が変動するたびに誰かが声を上げる音。
ルカは一歩、二歩と歩いた。
後ろの気配が変わった。
ドウが、境界線を越えた。
ルカは振り返らなかった。でも、何かが変わったことを感じた。ドウの歩調が、少しだけ変わった。盲区の中では、ドウの足音が軽かった。今、少しだけ重くなっている。
気のせいかもしれない。
ルカは前を向いて歩き続けた。
「矛盾してるかもしれないですけど、好きなものは好きなので」
さっきドウが言った言葉が、頭の中で繰り返された。
好きなものは好き。
確率師の言葉ではない、とルカは思った。確率師は好き嫌いで判断しない。確率値で判断する。好き嫌いは主観で、主観は観測者バイアスを生む。確率師にとって観測者バイアスは敵だ。
でもドウは言った。好きなものは好き、と。
「ドウさん」
「はい」
「さっきの話ですけど」
「さっきの話」
「証人なのに確率が見えない場所が好きというのは、矛盾していると言いましたよね」
「言いましたね」
「その矛盾について、あなたはどう思っているんですか」
ドウはしばらく答えなかった。
ルカは振り返った。ドウは一歩分後ろにいた。いつもの位置。でも今、ドウは前を見ていなかった。少し下を向いていた。路地の石畳を見ているような角度。
「矛盾、ですかね」
ドウが言った。
「それは」
「矛盾してるかもしれないですね」とドウは言った。「矛盾してるかもしれないですけど、矛盾してるからといって、好きじゃなくなるわけじゃないので」
「……それは、矛盾についての答えになっていないですよ」
「そうかもしれないですね、たぶん」
ドウは顔を上げた。ルカと目が合った。ドウの目は、いつもと同じだった。穏やかで、少し眠そうで、何かを考えているようで考えていないような、そういう目。
でも今、ルカはその目をいつもと少し違う気持ちで見た。
ドウは、盲区が好きだと言った。確率が見えないから静かだと言った。証人なのに、確率が見えない場所が好きだと言った。
それは矛盾している。
でもドウは、矛盾しているからといって好きじゃなくなるわけじゃないと言った。
ルカは、その言葉の意味を考えた。考えながら、前を向いて歩き始めた。ドウがついてくる。一歩分後ろ。
「どうかしましたか」
ドウが言った。
「いえ」とルカは答えた。「なんでもないです」
「そうですか」
「……矛盾していても、好きなものは好きというのは、確率師的には不合理な考え方ですね」
「そうかもしれないですね」
「でも」
ルカは少し間を置いた。
「まあ、人間というのはそういうものかもしれないですね、確率的には」
「そうじゃないですかね、たぶん」
取引所の方角から、喧騒がはっきり聞こえてきた。口論の声。確率値が変動する音。誰かが飲み物をこぼす音。いつもの音。
ルカは少し歩調を速めた。
「明日も調査を続けましょう。ゴンさんの情報を元に、別の容疑者を当たってみます」
「そうですね、たぶん」
二人は並んで歩いた。確率値が増えていく。視界が少しずつ霞んでいく。盲区から離れるにつれて、取引所の喧騒が大きくなっていく。
ルカは前を向いていた。
ドウは一歩分後ろを歩いていた。
盲区を出た後も、ドウはしばらく静かだった。
取引所の方角に向かって歩きながら、ルカはドウが静かなことを気にしなかった。ドウはよく静かにしている。静かにしながら、茶を飲んだり、確率値を観測したり、何かを考えたりしている。それはドウのいつもの様子で、特別なことではない。
だから、ルカは気にしなかった。
喧騒が大きくなった。確率値が増えた。視界が霞んだ。
いつもの世界に戻ってきた。
「ドウさん、どうかしましたか」
ルカはもう一度聞いた。
「いえ」とドウは答えた。「なんでもないですよ、たぶん」
なんでもないですよ、たぶん。
ルカはその言葉を聞いて、少し首を傾けた。なんでもないですよ、たぶん、という言葉は、なんでもないことを断定していない。なんでもないかもしれないし、何かあるかもしれない。どちらとも取れる言葉。
でも、追及しなかった。
「そうですか」とルカは言って、前を向いた。「では、行きましょう」
「そうですね」とドウは言った。
二人は歩き続けた。取引所の喧騒に向かって。確率値が乱舞する、いつもの世界に向かって。
盲区の路地は、後ろに遠ざかっていった。
南側エリアは、取引所の中でも確率値の密度が違う。
天井から床まで、数値が滝のように流れている。昼前の最繁忙時間帯、高額取引の確率師たちが集中して観測を行うせいで、視界全体が乳白色の霞に包まれていた。ルカは一歩踏み込むたびに、浮遊する確率値が肩や腕をすり抜けていくのを感じた。数字が皮膚に触れる感覚——正確には触れていないのだが、脳がそう錯覚する。長年の職業病だ。
「この区画、今日は特に混んでますね」
ゴンが隣を歩きながら、周囲を見渡して言った。通常の半分以下の音量だった。ゴンが大声を出さないのは、南側エリアでは声が確率値の乱流に飲まれて届きにくいからだ——という建前で、実際のところは、ここの常連たちが本気で取引に集中しているため、大声を出すと睨まれる、という実利的な理由だとルカは思っていた。
「ゴンさん、昨日確認した取引記録の件ですが」
ルカは歩調を変えずに言った。「事件当日の午後二時から三時の間、このエリアで大きな取引があったはずです。その取引に関わった確率師の名前を——」
「あ、それやったら知ってるで」
ゴンが当然のように割り込んだ。「常連の話、ちょっと待って。あそこにおる」
ゴンが顎でしゃくった先に、柱の陰でひとりで確率値を眺めている中年の男がいた。ゴンは迷いなくその方向へ歩き出した。ルカとドウがその後に続く。
「ヤマザキさーん」
小声なのに妙に通る声で、ゴンが男に声をかけた。男——ヤマザキ——が振り返り、ゴンを見て、微妙な顔をした。
「またお前か」
「またお前かはないやろ。久しぶりやん」
「三日前に会った」
「そんな細かいことは気にしない。ちょっとええか、この嬢ちゃんが確率師でな——」
「嬢ちゃんと呼ぶな」
ルカは即座に言った。ゴンが「あ、そやそや」と頭を掻いた。
「零花先生が調べてる件で、四日前の午後の取引について聞きたいんやけど」
「零花先生でもない」
しかしヤマザキはルカを見て、少し態度が変わった。確率師の装束——ギルドの紋章入りの上着——を認識したのだろう。
「集団誤読の件か」
「そうです」ルカは頷いた。「事件当日、このエリアで取引をされていましたか」
「してた。してたが、俺は被害に遭ってない」
「そうですか。では——」
「ただ」
ヤマザキが言葉を区切った。視線が少し遠くなった。「変なやつがいたのは確かだ」
ルカの中で何かが鋭くなった。「変な、というのは」
「見慣れない確率師だよ。このエリアに来るやつはだいたい顔なじみだ。でもそいつは知らない顔だった。確率師の格好はしてたが」
「特徴を教えていただけますか」
ヤマザキは少し考えた。「背が高かった。それくらいしか覚えてない。顔は……」彼は額に手を当てた。「なんか、ぼんやりしてるな。記憶が」
「観測者バイアスです」ルカは静かに言った。「その方を見た時、あなたの確率値はどんな状態でしたか」
「取引の最中だったから、集中してた。あまり気にしてなかった」
「それです。注意が分散していると、記憶の解像度が落ちます。特に確率値に集中している時は、視覚情報の処理が二次的になる」
ルカはメモを取りながら言った。ヤマザキが頷いた。「そういうもんか」
「他に何か気づいたことは」
「そいつが来てから、俺の確率値が少しだけ揺れた気がした。でも取引の最中だったから、自分の集中が乱れたのかと思って」
ルカの手が一瞬止まった。
確率値が揺れた。
取引の最中に、外部要因で確率値が揺れる——それは通常、起きない。確率値は観測者の状態に連動するものであり、外部から直接干渉できるものではない。少なくとも、理論上は。
「その揺れは、どんな方向でしたか」
「方向?」
「上下、あるいは横方向——数値が増加したのか減少したのか、あるいは横にずれるような感覚だったか」
ヤマザキが首を傾げた。「……横、だったかな。増えも減りもしてない感じで、なんか横にずれた」
ルカはそれを書き留めた。横方向のずれ。
「ありがとうございます。大変参考になりました」
「役に立てたなら」ヤマザキはもう確率値の方を向いていた。「早く解決してくれ。あの件以来、このエリアも空気が悪い」
ゴンが「おおきに」と言って、三人は柱の陰を離れた。
「どや、嬢——零花さん」
ゴンが歩きながら言った。今回は自分で訂正した。少し成長している。
「横方向のずれ、か」ルカは呟いた。「それが本当なら、外部からの確率値への干渉が実際に起きていたということになる」
「それ、どういう意味や」
「通常、確率値は観測者の内的な状態に連動します。外部から操作できるものではない——少なくとも、正面から観測されている状態では」
ルカは歩きながら、頭の中で情報を整理した。「しかし観測されない角度から干渉すれば、話は別かもしれない」
「なるほどな」
ゴンが言った。普段の大言壮語ではなく、素直な相槌だった。ルカはそれに気づかず、思考を続けた。
「証言の共通点が見えてきた。被害者たちは全員、事件当日に見慣れない確率師と接触していた。そしてその後、確率値に何らかの異常が生じた。これは——」
「ルカさんの確率」
ドウが言った。
ルカは振り返った。ドウは少し後ろを歩いており、周囲の確率値を眺めながら、いつもの穏やかな表情をしていた。
「今日もなかなか面白い数値ですよ」
ゴンが「また言うてる」と笑った。
ルカは一拍置いた。「今日も、と言いましたか」
「言いましたね、たぶん」
「昨日は言いましたか」
「さあ」
ドウが曖昧に答えた。視線は既に別の方向——取引所の中央通路の方——に向いていた。確率値の一群が大きく動いており、それを追っているように見えた。
ルカは「具体的には」と聞こうとした。
「あ、ヤマザキさんの知り合いがあそこにいる」
ゴンが言って、さっさと歩き出した。「事件当日の目撃者かもしれん。ちょっと聞いてくる」
「ゴンさん、待って——」
しかしゴンはもう人混みの中に消えかけていた。ルカは溜息をついて、その後を追った。
ドウが静かについてくる。
ルカはちらりと後ろを見た。ドウはいつもの眠そうな顔で、特に何も言わずに歩いていた。「今日も面白い数値」という発言は、もう過去のものとして処理されている様子だった。
——今日も、という言い方をした。
昨日も面白い数値だったということか。一昨日も? その前も?
ルカは前を向いた。ゴンが手を振っている。また別の常連客を捕まえたらしい。
今はそっちに集中しなければならない。
調査は、確実に進んでいる。
横方向のずれ。見慣れない確率師。観測されない角度からの干渉。
断片が、少しずつ形を持ち始めていた。
「零花さん」
ドウが言った。ルカは振り返った。
「ゴンさん、また大声出してますよ」
「あ」
確かに、ゴンの声が南側エリアの喧騒を突き破って聞こえてきた。常連客らしき人物が苦笑いしている。
ルカは小走りで向かった。
ドウが後ろで、ひとりで茶を飲んでいた——茶がないのに、そういう仕草をした気がした。気のせいかもしれない。
午後の取引所は、少しだけ落ち着く。
昼を過ぎると高額取引の波が一旦引き、南側エリアの熱気が東側まで波及しなくなる。ルカとドウの定位置——東側カウンターの隅——は、喧騒の中の相対的な静けさを保っていた。
ルカはカウンターに資料を広げた。今日の聞き込みで集めた証言を、手早く整理していく。
ヤマザキの証言。横方向のずれ。見慣れない確率師の存在。




