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第5話

ルカは窓の外を見た。大広間の北西エリアに、立入禁止ロープがまだ張られている。フラット状態の確率値が、均一な光として静止している。


五十パーセント固定。


*今は何を感じても五十パーセントですから。*


ベン・ランの声が頭の中で繰り返された。フラット状態になった人間の声は、感情の起伏がない。怒りも悲しみも恐れも、全部が均一になる。


確率社会の行き着く先が、あれだ。


「ルカさん」


ドウの声で、ルカは窓から視線を戻した。


「今日の調査、どう思いますか」


ルカは少し考えてから答えた。


「手がかりは増えました。全員が同一人物に観測されていたという事実は、偶然ではない。この人物を追えば、偽造の方法と実行者に近づけると思います」


「そうですね、たぶん」


「ドウさんはどう思いますか」


ドウが少し間を置いた。


「ルカさんの確率、今日はなかなか面白い数値ですよ」


ルカは顔を上げた。


「それ、毎回言いますよね。具体的には?」


ドウが取引所の喧騒の方に視線を向けた。


「あ、あそこで揉めてますね」


大広間の中央で、二人の取引師が口論を始めていた。確率値が激しく揺れて、周囲の人間が少し距離を取る。よくある光景だ。


「ドウさん」


「なんですか」


「今の、話題を変えましたよね」


「揉めてたので」


「揉めてたのは関係ないでしょう」


ドウが視線を口論の方に向けたまま、穏やかに答えた。


「そうですかね、たぶん」


ルカは一瞬、言葉を探した。でも、ちょうどその時に口論の声が大きくなって、周囲の確率値が連鎖反応で揺れ始めた。ルカの注意がそちらに引っ張られる。


口論は三十秒ほどで収まった。


ドウが新しい茶を淹れていた。湯気が細く立ち上がる。


「まあ、いいですか」ルカはノートを手に取った。「明日の調査の段取りを確認しましょう。まずギルドの入退館記録の確認、次に残りの被害者二名への聞き込み、それから——」


「そうですね、たぶん」


ドウが茶を飲んだ。


窓の外で、立入禁止ロープが揺れていた。


口論が収まった大広間では、確率値が再び規則的に漂い始めていた。北西エリアの静止した確率値だけが、変わらず均一な光を放っている。


見慣れない確率師。


ルカはノートの余白に書いた。


*全員が観測された。全員、感触が変わった。特徴はバラバラ。*


*この人物を特定することが急務。*


午後の取引所は、午前よりも密度が増す。


確率値の光が重なり合い、視界全体が白く霞む。ルカは目を細めて——いや、やめた。目を細めると精度が上がると言ったのはヴィオだったが、今は別の人間の確率を読む必要はない。ただ、この喧騒の中を歩くだけだ。


「嬢ちゃん!」


大広間の中央通路を歩いていたルカの前方から、人混みを割って大きな声が飛んできた。


博打屋ゴンが、柱の陰から片手を上げて手招きしている。その周囲には取引所の常連客が数人、ゴンの話に半分耳を傾けながら自分の取引に集中するという、独特の聴衆の形を作っていた。


「嬢ちゃんと呼ぶな、と何度言えば」


「まあまあ、そんな細かいこと言わんといて」ゴンは全く悪びれない。「ちょうど良かった、嬢ちゃんに話したいことがあってん」


「私はゴンさんと雑談をしに来たわけではないんですが」


「雑談やないで、情報や」ゴンは人差し指を立てた。「ちゃんとした情報。ほら、あの事件の件やろ。俺、心当たりがあるかもしれへんで」


ルカは足を止めた。ドウが静かに隣に並ぶ。


「聞きましょう」


「そうこなくっちゃ」ゴンは満足そうに頷き、周囲の常連客に向かって「ちょっとすまんな」と一言断ってから、三人だけの小さな輪を作った。


取引所の喧騒が壁のように周囲を囲む。確率値の光が乱舞する中で、ゴンの声はよく通った。


「俺な、昨日の夜に思い出してん」ゴンが語り始める。「北側の区画で残高を飛ばされた確率師、いたやろ。あの人、俺と面識あってん。で、ちょっと前に話したとき、『最近なんか確率値の感触がおかしい』って言うてたんや」


「感触、ですか」


「そう、感触。確率師ってやっぱ長年やってたら、数字だけやなくて感触で分かるやろ。なんか違うって」


ルカは頷いた。それは分かる。確率値を読むという行為は、純粋に数字を見るだけではない。観測の瞬間に生まれる微細な感覚——それを言語化するのは難しいが、確かに存在する。


「それで、その方は何か具体的なことを」


「それが、うまく言えへんって言うてたんや。ただ、いつもより数字が『まとまりすぎてる』って。普通はもっとバラつくはずなのに、なんか整然としすぎてる感じがするって」


ルカの中で何かが走った。


整然としすぎている。自然な誤差がない。


被害者の記録にあった走り書きの言葉が一瞬だけ浮かんで——しかしすぐに、ルカの思考は別の方向へ滑った。几帳面な人だったんですね、と自分が呟いたあの瞬間の感傷が、その言葉を上書きする。


「なるほど」とルカは言った。「それは観測者バイアスの可能性もあります。長期間同じ対象を観測していると、期待値への収束が」


「まあ、そうかもしれんけどな」ゴンは肩をすくめた。「俺もそう思うたし、その人もそう言うてた。ただ、事件の後で思い返したら、なんか引っかかってん」


「情報として受け取ります。ありがとうございます」


「ええって、ええって」ゴンは手を振った。「それよりな、嬢ちゃん。俺からもう一個、これは完全に雑談やけど」


「雑談はいりません」


「まあ聞いてや。俺の残高荒稼ぎの話や」


ルカは小さくため息をついた。ドウが茶を飲む動作の代わりに、何もない手を軽く動かした。持ってきていない茶を飲もうとしたのかもしれない。


「一分だけ」


「十分もいらん」ゴンは嬉しそうに身を乗り出した。「残高荒稼ぎでな、一番大事なことを教えたろか」


「犯罪の方法でなければ」


「犯罪やないわ!」ゴンは大声で笑った。周囲の常連客が一瞬こちらを見て、すぐに自分の取引に戻る。「俺はちゃんと合法的にやってんで。ルールの範囲内で最大限に動く、それが俺のやり方や」


「はい」


「でな」ゴンは声を落として、少し前のめりになった。「残高荒稼ぎで一番大事なのはな、嬢ちゃん——」


一拍。


ゴンの視線が、ほんの一瞬だけ、中央通路の北側を向いた。取引所の北西エリア——事件が起きた区画の方向。ルカはゴンの顔を見ていたので、気づかなかった。


「誰も見てへん時に動くことやねん」


ゴンが続ける。その声は、自慢話のトーンを保っていた。


「見られた瞬間に確率が変わるやろ。観測されたら数字が動く。せやから俺はいっつも、誰も見てへん角度から仕掛けんねん。これが俺の必勝法や。どや、すごいやろ」


「それ犯罪の説明では?」


ルカは即座に言った。


「ちゃうちゃう!」ゴンが手をぶんぶん振る。「合法やって言うてるやん。ただ、観測されない角度を選ぶっていうだけの話で」


「観測されない角度を意図的に選んで確率値が変わる前に動く、というのは」


「それが戦略や」


「戦略」


「そうや、戦略。嬢ちゃんかて確率師やろ。観測のタイミングで数字が変わるのは知ってるやろ。だから観測される前に動けばええだけの話や。ほんで俺はその角度を見つけるのが得意やねん」


ルカは「そうですか」と短く答えた。ゴンの自慢話の一つとして処理した。観測されない角度から動く——それは確かに確率値の特性を利用した合法的な戦術ではある。残高荒稼ぎ師がよく使う手法の一つだ。


ドウが少し後ろで静かに立っている。


「まあ、俺の場合はな」ゴンは続ける。「失敗したこともあるけどな。見てへんつもりで実は見られてたこともあったし。そういう時は確率がぐわって動いてもうて、えらい目にあったわ」


「それは大変でしたね」


「大変やったで! でもそこから学んだんや。角度の選び方を」ゴンは胸を張った。「今の俺は完璧や。誰も見てへん角度を見つけるのが、もう体に染み込んでる」


「それは結構なことです」


「ほんまやで。嬢ちゃんも参考にしてみ」


「私は残高荒稼ぎをするつもりはないので」


「そういう意味やなくて、仕事の考え方として!」


ゴンが大笑いした。周囲の常連客の何人かが、つられて笑う。取引所の喧騒の中に、笑いの波が一瞬広がった。


ルカは「はあ」と答えながら、内心では調査の次の手順を考えていた。ゴンが提供した情報——感触がおかしいという被害者の証言——は、観測者バイアスの一例として分類できる。有用かもしれないが、決定的ではない。


「あとな」ゴンが思い出したように言った。「別の話やけど、北区画の取引師でな、最近妙な動きしてる人がいてん。もしかしたらその事件と関係あるかもしれへん」


ルカの耳が立った。


「どんな動きですか」


「それがな——」


ゴンが別の容疑者情報を語り始めた。ルカはそちらに集中した。確率値が乱舞する午後の取引所の中で、ゴンの声だけが明確に聞こえた。


ドウは静かに後ろに立っていた。


中央通路の北側を、もう一度だけ見た。


ゴンが人混みに消えた。


「また何かあったら声かけてや、嬢ちゃん!」という声が、取引所の喧騒に溶けていった。


「嬢ちゃんと呼ぶな」


ルカが言ったが、もう聞こえていない。


中央通路の人の流れが、ゴンが去ったことで少し落ち着いた。周囲の常連客たちも、それぞれの取引へと戻っていく。この一角だけが、相対的に静かになる。


確率値の光が夕方の色調に変わり始めていた。午前の白い光とは違う、少し橙がかった色が浮遊する数値に混じっている。取引所の一日が、後半に差し掛かっている証拠だ。


「北区画の取引師、ですか」


ルカは手帳に書き留めた情報を確認しながら言った。ゴンが最後に提供した別の容疑者情報——北区画で最近不審な動きをしている確率師の名前と、その行動パターン。


「明日、当たってみる価値はありますね」


「そうですね、たぶん」


ドウが答えた。


ルカは手帳から目を上げた。ドウは取引所の中央通路の方向を見ていた。その視線の先には、特に何もない。確率値が乱舞しているだけの、通常の取引所の風景だ。


「どうかしましたか」


「いえ」ドウは視線を戻した。「なんでもないですよ、たぶん」


いつもの答え。ルカは手帳を閉じた。


「ゴンさんの情報、どこまで信用できると思いますか」


「どこまで、というのは」


「北区画の取引師の話です。ゴンさんは情報屋として信頼できますが、情報の精度については」


「ああ」ドウは少し考えるような間を置いた。「ゴンさんは嘘はつかないと思いますよ。ただ、見えている範囲が独特なので」


「独特」


「取引所の裏側から見た景色、というか。普通の確率師には見えていない角度から物事を見てる人なので。その情報は確かに本物だと思いますけど、それが今回の事件と繋がるかどうかは」ドウは首を傾けた。「別の話かもしれないですね、たぶん」


「そうですね」


ルカは同意した。ゴンの情報は常に独特の価値を持つ。取引所の表側では見えないものが見えている。ただ、それが今回の事件——確率値の偽造という精緻な犯行——と直接結びつくかどうかは、確認が必要だ。


「ゴンさんって、面白い人ですよね」


ドウが唐突に言った。


ルカは少し驚いて、ドウを見た。ドウはまだ中央通路の方向を向いていた。その横顔には、いつもの眠そうな表情がある。しかし何かを考えているような、わずかな間があった。


「面白い、というのは」


「笑いながら大事なことを言う人じゃないですか」


ルカは「はあ」と答えた。


「さっきの自慢話も」ドウが続ける。「残高荒稼ぎの話、ゴンさんにとってはあれが本当のことなんだと思いますよ。誰も見てへん角度から仕掛けるっていうのが、ゴンさんの生き方の核心というか」


「それは確かに」


「大言壮語に見えるけど、実は一番正直に話してる、みたいな人いるじゃないですか」ドウは少し間を置いた。「大事なことほど本当のことを言う人ですよ、笑いながら」


夕方の確率値の光が、ドウの横顔を橙色に染めた。


ルカは「そうかもしれませんね」と答えながら、ゴンの自慢話を頭の中で反芻した。誰も見てへん角度から仕掛ける。見られた瞬間に確率が変わる。だから観測されない角度から動く。


確かに、それはゴンの生き方だ。残高荒稼ぎ師として取引所の裏側で生きてきた人間の、経験から来る言葉。大言壮語のように聞こえるが、実際にゴンはその哲学で生き延びてきた。


笑いながら語られた言葉が、実は核心を突いている。


そういうことは、確かにある。


「では、明日は北区画の調査を」


「そうですね、たぶん」


ドウが茶を飲んだ。持ってきていない茶を——いや、いつの間にか紙コップを手に入れていた。取引所のどこかで調達したらしい。


ルカは手帳を鞄にしまいながら、明日の調査の段取りを考え始めた。北区画の取引師。確率値の偽造。観測されない角度。


「ゴンさんて、失敗したこともあるって言ってましたね」


「ああ、言ってましたね」


「見てへんつもりで実は見られてた、と」


「そうですね」


「それで確率が動いて大変だったと」


「えっと」ドウが少し考えた。「そうですね、たぶん」


ルカは「そうですか」と言って話を切り上げた。ゴンの失敗談は、残高荒稼ぎ師の経験談として興味深いが、今の調査に直接関係するわけではない。


明日の準備をしなければ。


「では、今日はこれで」


「そうですね」ドウが立ち上がった。「お疲れ様です」


二人は取引所の出口に向かって歩き始めた。夕方の確率値が、橙色の光の中で静かに浮遊している。


中央通路を通り過ぎる時、ルカはふと足を止めた。


「ドウさん」


「はい」


「さっきの話、ゴンさんが笑いながら大事なことを言う、という」


「ええ」


「ドウさんは逆ですよね。大事なことほど軽く言う」


ドウが少し間を置いた。


「そうですかね、たぶん」


いつもの答えだった。ルカはそれ以上追わずに歩き出した。


ドウの確率値が一つだけ動いた。ルカは振り返らなかったので、見えなかった。


南側エリアに足を踏み入れた瞬間、視界が白く霞んだ。


確率値の密度が違う。高額取引が集中するこの区画は、取引所の中でも特に数値の動きが激しく、浮遊する光の粒が重なり合って視界全体を乳白色に染める。ルカは目を細めて前方を見た。人の輪郭が霞の向こうにぼんやりと滲んでいる。


「……視界が悪いですね、今日は」


ドウが穏やかに言いながら、ルカの少し後ろを歩いた。茶を持ち歩く習慣は取引所の外でも変わらない。今朝は保温の小瓶を懐に入れてきたらしく、歩くたびに微かに湯気の匂いがした。


「いつもこうです、ここは」


ルカは歩調を緩めずに答えた。南側エリアの常連たちは確率値の霞に慣れており、霞の中でも迷わず目的のカウンターへ向かっていく。その背中を目で追いながら、ルカは三日前から頭の中で組み立ててきた仮説の続きを考えていた。


ゴンが提供した情報は、思いのほか具体的だった。別の容疑者——取引所の南側を縄張りにする残高荒稼ぎ師で、ゴンとは古い知り合いだという——が、事件当日の午後に北西エリアの近くをうろついていたという目撃情報がある。確率値を意図的に操作した経験があるとも噂されていた。


手がかりとしては十分だった。少なくとも、ルカにはそう思えた。


「あのカウンターです」


ルカは霞の向こうに目を凝らした。確率値の光が特に密集している一角に、目当ての人物がいるはずだった。


「……あ、いますね」


ドウが静かに言った。ルカより先に見つけていたらしい。


「どのカウンターですか」


「三つ目の柱の右側。背の高い方」


ルカは視線を動かした。霞の向こうに、確かに人影があった。取引師と何かを話しながら、自分の周囲の確率値をちらちらと確認している。その動作に迷いがない。確率値の扱いに慣れた人間の動きだった。


「行きましょう」


ルカは歩き出した。


南側エリアの高額取引区画には、独特の緊張感がある。取引される数値が大きいほど、観測する確率師への要求も高くなる。証人の精度が一パーセントずれるだけで、何百万という運勢残高が吹き飛ぶ。それを知っているから、ここにいる人間たちは誰も余計な言葉を発しない。口論は多いが、笑い声は少ない。


ルカは目当ての人物に近づきながら、頭の中で質問の順序を組み立てた。事件当日の行動を確認する。北西エリアへの立ち入りを確認する。確率値の操作技術について、直接は聞かない——相手が警戒する前に、間接的な質問で輪郭を掴む。


「すみません」


ルカが声をかけると、目当ての人物が振り返った。四十代ほど、目つきが鋭い。確率値を見る目線の動きが、熟練の残高荒稼ぎ師のそれだった。


「確率師の零花ルカといいます。少しお時間をいただけますか」


「……ギルドの人間か」


「はい。先日の取引所での件について、いくつか確認させてください」


相手は一瞬、周囲の確率値を確認した。それから、ルカの顔を見た。


「まあ、いいけど」


話は思ったより順調に進んだ。相手は事件当日の行動について、はっきりと答えた。北西エリアには近づいていない。午後は別の区画で別の取引師と一緒にいた。証人もいる。


アリバイは固かった。


ルカはいくつかの追加質問をしながら、相手の確率値の動きを観察した。嘘をついている様子はない。確率値は質問の内容に応じて自然に揺れており、特定の方向への歪みが見られなかった。


「ありがとうございました」


ルカは会話を終えた。相手は軽く頷いて、取引師との話に戻った。


ドウが隣に来た。


「どうでしたか」


「シロです。確率値の動きに不自然な点がなかった。アリバイも複数の証人がいる」


「そうですか」


「ただ」


ルカは歩きながら言った。


「確率値の操作技術については、一定の知識を持っているようでした。質問の仕方を変えたとき、反応が少し速すぎた。知識はある。でも今回の事件には関与していない」


「なるほど」


「次の候補を当たります。ゴンさんが言っていた、もう一人の方——」


「ルカさん」


ドウが口を開いた。


ルカは歩調を緩めずに続けた。


「北側の区画に拠点を持つという残高荒稼ぎ師ですよね。事件当日に取引所の——」


「ルカさんの確率」


ドウが言った。


ルカの言葉が止まった。


振り返ると、ドウは少し後ろを歩きながら、霞の中に視線を向けていた。ルカの方を見ていない。取引所の別のエリア——中央通路の方向——に、ぼんやりと目を向けている。


「今日は、なかなか面白い数値ですよ」


ドウが穏やかに言った。


「……面白い、とは」


ルカは立ち止まった。


「具体的に教えてもらえますか。今日の調査の方向性を確認したいんです。確率的に、この方向は——」


「あ」


ドウが言った。


「あそこで揉めてますね」


ルカは思わず視線を向けた。


中央通路の方向——ドウが目を向けていた場所——で、確かに二人の男が声を荒げていた。確率値を巡る口論らしく、周囲の取引師たちが少し距離を取りながら様子を窺っている。


「……よくある光景ですね」


ルカは視線を戻した。


ドウはすでに茶を一口飲んでいた。口論の方向を見ていた視線が、自然に取引所全体へと広がっている。まるで最初から何も言っていなかったかのような、穏やかな表情だった。


「ドウさん」


「はい」


「今、数値の話をしていましたよね」


「してましたね」


「具体的には」


「面白い、と言いました」


「面白いというのは」


「面白い、ということです」ドウは少し考えるような間を置いた。「たぶん」


ルカは息を吐いた。


「毎回、そこで止まりますよね」


「そうですか」


「そうですよ。言いかけて、止まる。それがもう何度も——」


「あ、北側の方に動きがありますよ」


ドウが静かに言った。


ルカは反射的に北側を見た。確率値の動きが少し変化している。高額取引が始まったのか、数値の光が密度を増して揺れていた。


「……次の候補の話をしていました」


ルカは向き直った。ドウはすでに歩き出していた。ルカの方を向かずに、北側エリアの方向へ。


「北側の方ですよね。ゴンさんが言っていた」


「そうです」


ルカは歩き出した。ドウの隣に並ぶ。


「ドウさん」


「はい」


「今の話は、後で聞かせてもらえますか。数値の件」


ドウは一拍置いた。


「……後で」


「ええ。後で」


「そうですね」ドウは言った。「後で、たぶん」


「たぶん、ではなく」


「後で」


ドウが繰り返した。今度は「たぶん」がなかった。


ルカはそれ以上追及しなかった。北側エリアへ向かう足を速めながら、頭の中で次の質問を組み立て直した。調査は順調だった。容疑者の輪郭が少しずつ絞られてきている。ゴンの情報は使えた。次の候補も、同じように丁寧に当たれば——


「あ、いましたよ」


ドウが言った。


「どこですか」


「あの柱の向こう。青い上着の方」


ルカは視線を向けた。確かに、それらしい人物がいた。


「行きましょう」


歩きながら、ルカは少しだけ頭の隅で考えた。


面白い数値、とドウは言った。


面白い、とはどういう意味か。良い数値なのか。悪い数値なのか。今日の調査の方向性を示す数値なのか。それとも、全く別の何かを指しているのか。


ルカは考えを打ち切った。調査に集中しなければならない。数値の話は後でいい。ドウが「後で」と言ったのだから、後で聞けばいい。


「すみません」


ルカは青い上着の人物に声をかけた。


取引師が振り返る。


調査は続いた。


昼前の取引所は、午前のピーク時と比べて少しだけ静かになる。


確率値の密度が下がり、視界の霞が薄くなる。床の濡れた箇所が乾き始め、靴底を通じて伝わる湿り気が消えていく。取引師たちが昼の休憩に入り、大広間の喧騒が一段階落ちる。


ルカはカウンターの椅子に腰を下ろした。今日の午前中の聞き込みで得た情報を、頭の中で整理する。


青い上着の人物——ゴンが提供した二人目の候補——も、アリバイがあった。事件当日の午後は別の取引所に出向いており、複数の確率師が証人として名前を挙げた。確率値の操作技術については、今日の一人目と同様に一定の知識を持っていたが、関与を示す証拠はなかった。


二人とも、シロ。


ルカは手元の記録を眺めた。今日の午前中で当たれる候補は全て当たった。次の手を考えなければならない。ゴンが持ってくる情報には限りがある。別のルートから手がかりを探す必要があるかもしれない。


ドウが隣の椅子に腰を下ろした。懐から保温の小瓶を取り出して、茶を一口飲む。湯気の匂いが漂った。


「お疲れ様でした」


「ええ」


ルカは記録から目を上げた。


「今日の午前中は収穫なし、ということになります」


「そうですね、たぶん」


「たぶん、ではなく確実に」


「そうですね」


ドウは茶を飲みながら、大広間の方向を眺めた。昼の静けさの中で、遠くの口論の声が低く聞こえてくる。取引所は決して静かにはならない。喧騒の密度が変わるだけだ。


ルカは記録を閉じた。


「次の手を考えます。ゴンさんに追加の情報を求めるか、あるいは別の方向から——」


「ルカさん」


ドウが言った。


「何ですか」


「さっきの話なんですけど」


ルカは少し身を正した。


「さっき、というのは」


「南側で。数値の話」


「ああ」ルカは言った。「『後で』と言っていましたね。では、今がその後でということで——」


「まあ」


ドウが言った。


「まあ、とは」


「面白い数値でしたよ、今日は」


「それは聞きました。面白いというのが具体的にどういう意味なのかを——」


「面白い、ということです」


ドウは穏やかに言った。「たぶん」をつけなかった。今日は珍しく断定に近い言い方だった。


ルカは少し考えた。


「良い数値ですか。それとも悪い数値ですか」


「面白い数値です」


「どちらでもない、ということですか」


「どちらでもある、かもしれないですね」


ルカは息を吐いた。


「ドウさん」


「はい」


「毎回、そこで止まりますよね」


ドウは茶を飲んだ。


「止まってますか」


「止まっています。言いかけて、止まる。今日だけでも二回。先週からカウントすると——」


「そんなに言いましたっけ」


「言っています」


ルカは言った。「最初は南側エリアで、次は昨日の聞き込みの後で、その前は——」


「あ」


ドウが言った。


「何ですか」


「いえ」


ドウは大広間の方向に目を向けた。「なんでもないですよ、たぶん」


ルカは視線を追った。大広間には特に変わった様子がなかった。昼の静けさの中で、確率値が穏やかに浮遊している。口論の声が遠くから聞こえるが、それは常のことだった。


「……今、何かありましたか」


「いえ」


「ドウさん」


「はい」


「なんでもないですよ、という言い方は毎回していますよね」


ドウは少し考えるような間を置いた。


「そうですか」


「そうです。なんでもないですよ、たぶん。それが口癖になっています」


「口癖ですか」


「口癖です。数値の話をするたびに、なんでもないですよ、たぶん、と言って話を変える。今日だけで——」


「また揉めてますね、あそこ」


ドウが静かに言った。


ルカは思わず視線を向けた。大広間の中ほどで、確かに二人の男が声を上げていた。確率値を巡る口論らしく、周囲の取引師たちが距離を取っている。


「……よくある光景ですね」


ルカは視線を戻した。

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