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第4話

ルカが持つ小さな照明は、棚の間の通路をかろうじて照らすだけだった。天井まで積み重なった確率記録の背表紙が、光の端で揺れている。確率値の光がいくつか浮遊していて、暗闇の中でそれだけが鮮明に見えた。


一枚。また一枚。


ルカは記録をめくり続けた。


三年前の観測記録。二年半前。二年前。一年半前——


自分が読んだ記録だ。自分が「正しい」と判断した確率値の記録だ。


これを今、何のために見ているのか。


ルカは一瞬、手を止めた。


——確認のため。自分の観測精度を確認するため。これだけの記録を積み重ねてきた。これだけの依頼を解決してきた。操作された確率値を見抜けなかったとしたら、それは——


手が動き出す。また一枚。また一枚。


記録の文字は正確で、整然としていた。ルカが観測した数値、判断の根拠、依頼人の反応。どれも、その時の自分が確信を持って書いたものだ。


確信。


その言葉が、喉の奥で引っかかった。


確信とは何か。根拠のある確信と、根拠のない確信の、どこに境界線があるのか。自分が正しいと思っていたものが、実は誰かの手によって「正しく見えるように」設計されていたとしたら——


ルカは記録を一枚、強く押さえた。紙が少しだけ音を立てた。


やめろ。


今日やるべきことは、明日の調査の準備だ。被害者の記録を確認し、偽造のパターンを絞り込む。それが仕事だ。自分の過去の記録を夜中に一人で見返すことは、仕事ではない。


では何なのか。


——わからない。


ルカは照明を少し傾けた。記録の文字が光の角度で変わる。ある観測記録のページで、手が止まった。


二年前の記録。ある取引所での依頼。確率値を読んで、「この取引は安全です」と判断した案件だ。依頼人は満足して帰り、取引は成立した。


その時の数値を、今のルカは改めて見た。


正常だった。どこにも、歪みはない。


——でも、今の自分には判断できない。これが本当に正常だったのか、あるいは「正常に見えるように」操作されていたのか。


記録を見ても、操作の有無は判断できない。


ルカは、その事実に気づいた瞬間、照明を棚の角に当てた。光が乱反射して、一瞬だけ視界が白くなった。


——気づいていた。最初から、気づいていた。記録を見ても答えは出ない。それでも来た。それでも見ている。


何のために。


廊下から、足音が聞こえた。


「ルカさん」


ドウの声だった。扉は閉まっている。廊下越しに声が届いている。


「もう遅いですよ」


ルカは記録を閉じた。素早く。棚に戻す。照明を持ち直す。


「もう行きます」


声が、自分でも驚くほど落ち着いていた。


「そうですか」とドウが言った。廊下の向こうで、足音が止まっている。「では、一緒に出ましょうか」


「ええ」


ルカは照明を消した。書庫が暗くなった。確率値の光だけが、暗闇に浮かんでいる。


いくつかの数値が、ゆっくりと漂っている。


ルカはそれを見た。一秒だけ。


それから、扉に向かって歩き出した。


扉を開けると、廊下の光が差し込んだ。ドウが壁際に立っていた。いつものように、特に何も考えていないような顔で。


「お疲れ様です」とドウが言った。


「お疲れ様です」


二人は並んで廊下を歩いた。石造りの建物の夜の静けさの中で、足音だけが響いた。


「ドウさん」とルカは言った。


「はい」


「今日の依頼、受けて正しかったと思いますか」


ドウが一拍置いた。


「どうでしょうね」とドウは言った。「正しいとか正しくないとか、そういう話じゃない気もしますよ、たぶん」


「では、どういう話ですか」


「受けるしかなかった話、じゃないですかね」


ルカは少し考えた。


「それは、同じことですよ」


「そうですかね」とドウが言った。穏やかに。「たぶん」


建物の出口が見えてきた。外の石畳の上に、夜の確率値がいくつか浮遊していた。取引所ほど密ではないが、それでも確かに、そこにある。


ルカは扉を押し開けた。夜の空気が頬に当たった。


「明日から、被害者の記録を確認します」とルカは言った。「ドウさんも同行してください」


「わかりました」


「証人として」


「ええ」とドウが言った。「証人として」


二人は石畳の上を歩き始めた。夜の確率値が、二人の周りをゆっくりと漂っていた。


ルカは前を向いたまま、書庫に置いてきた何かのことを考えた。


あの記録の中に、答えはなかった。それでも行った。それでも見た。


——それは、何のためだったのか。


石畳の音が続いた。ドウが隣を歩いている。


ルカは、その問いを、また押し込んだ。


記録閲覧室の空気は、古い紙の匂いがした。


取引所の喧騒とは別の世界だ、とルカはいつも思う。ギルドの書庫も同じ匂いがするが、こちらはもう少し——なんというか、使われた匂いがする。誰かが何度も手を触れた紙の、指の脂が染み込んだような匂い。


天井の照明が均一な白い光を注いでいる。影のない光。確率値はここでも浮遊しているが、数が少ない。取引所の霞がかかった視界に慣れた目には、この部屋の鮮明さが少しだけ異質に感じられた。


テーブルの上に、被害者の記録が広げられている。


「では、始めます」


ルカは椅子を引いて座った。テーブルの向かい側には誰もいない。ドウは部屋の端の椅子に腰を下ろして、茶を飲んでいる。証人として同席しているが、今は観測の必要がないため、ただそこにいる。


最初の記録は、日付と数値の羅列だった。


「……えっと、これが被害者の通常業務の記録ですね」


ルカはページをめくる。確率師の業務記録は、日付・取引対象・観測値・証人の署名という四列で構成されている。被害者は取引所の確率師で、専門は商品取引の確率観測だったらしい。記録は三年分。


「きれいな記録ですね」


ドウが茶を飲む音がした。


「そうですね、たぶん」


ルカはページをめくり続ける。確かにきれいだった。日付の書き方が毎回同じ大きさ、数値の位置が毎回同じ場所、証人の署名欄に余白を残したことが一度もない。几帳面な人だったのだろう。


三年分の記録を斜め読みするのに、十五分かかった。


特筆すべきことは何もなかった。良くも悪くもない、平均的な確率師の業務記録。観測値の精度は標準的で、証人との齟齬も少ない。ただ几帳面に、毎日の仕事をこなしていた人の記録。


ルカは次のページに移った。


事件当日の記録だ。


書き方が変わっていた。


日付の文字が、前のページより少し大きい。力が入っていたのか、それとも急いでいたのか。数値の列は途中で止まっており、最後まで書かれていない。証人の署名欄は空白だ。


そして、最後のページの端に、走り書きがあった。


他のページとは明らかに違う筆跡。早く書いたような、崩れた文字。


*観測値が整合しすぎている——自然な誤差がない*


ルカはその文字を声に出して読んだ。


「観測値が整合しすぎている——自然な誤差がない、か」


ページをめくる手が、一瞬だけ止まった。


自然な観測には必ず誤差が生じる。それは確率師として当然知っていることだ。観測者バイアスが存在する以上、完全に整合した観測値というのは——


「几帳面な人だったんですね」


ルカは呟いて、次のページへ移った。


業務記録の最後は、事件当日の未完の記録で終わっていた。そこから先は何もない。


「……被害者の周辺人物への聞き込みリストも確認しておきましょう」


ルカは別の書類を手に取った。ギルドが事前にまとめてくれた、被害者の同僚・取引相手・証人の一覧だ。


「次は誰に当たりますか?」


「同僚の確率師から順番に。事件当日の被害者の様子を知っている人間が一番情報を持っているはずです」


「そうですね、たぶん」


ルカは書類を手に取ったまま、立ち上がろうとした。


——そこで、ふと気づいた。


走り書きのページを、もう一度見た。


*観測値が整合しすぎている——自然な誤差がない*


紙の表面に、微妙な凹みがある。他のページより、少しだけ深い。強い筆圧で書いたのだろう。急いで、あるいは、何かに追い立てられるように。


几帳面な人が、几帳面でない字で書いた走り書き。


「……几帳面な人だったんですね」


もう一度、同じことを言っていた。


ルカは走り書きのページを閉じて、書類を手に取った。


「行きましょう、ドウさん」


「はい」


ドウが茶を飲み干す音がして、椅子が引かれる音がした。


ルカは先に廊下へ出た。


廊下は薄暗かった。


閲覧室の白い光と比べると、廊下の照明は一段落ちる。石造りの壁に沿って、確率値がいくつか浮遊している。取引所ほど多くないが、ゼロではない。ギルドの廊下にも、人の行き来がある限り確率値は発生する。


ルカは廊下に出て、閲覧室の扉の前で立ち止まった。


ドウがまだ出てこない。


書類を片付けているのだろう、とルカは思った。ドウはいつも几帳面に後片付けをする。記録を元の位置に戻して、椅子を引いて、茶碗を——


閲覧室の中で、紙をめくる音がした。


ルカは廊下の壁に背を預けて待った。遠くから、誰かの口論の声が反響してくる。ギルドはいつも誰かが口論している。確率値を巡る議論は終わらない。


しばらくして、扉が開いた。


ドウが廊下に出てきた。


「……なるほど」


ルカは振り返った。


「なるほど、何ですか?」


ドウは少し驚いたような顔をした。ほんの一瞬だけ、目が合った。


「え、言いましたっけ」


「言いました。はっきり」


「そうですか」


ドウは閲覧室の扉を閉めながら、視線を扉のほうに向けた。


「毎回言って毎回なんでもないって、どういうことですか」


「口癖みたいなものですよ、たぶん」


「口癖で『なるほど』って言う人、初めて見ました」


「そうですかね」


ドウは扉から手を離して、廊下を歩き始めた。ルカはその隣に並ぶ。遠くの口論の声が、少し大きくなった。


「ドウさん、今の『なるほど』は何に対してですか」


「なんでもないですよ、たぶん」


「なんでもないなら言わないでください。気になるじゃないですか」


「そうですね、たぶん」


ルカは少し間を置いた。


ドウの『なるほど』は、確かに毎回そうだ。何かを見て、何かに気づいて、『なるほど』と言う。そして何も続けない。ルカが問い返すと、『なんでもないですよ』と流す。


今日が初めてではない。


でも今日は——何を見ていたのだろう。


閲覧室の中で、紙をめくる音がしていた。ルカはすでに廊下に出ていたから、ドウが何をしていたか見ていない。書類の後片付けをしていたとばかり思っていたが。


「ドウさん、さっき閲覧室で何かのページを見ていましたか」


ドウは歩きながら答えた。


「後片付けですよ」


「後片付けで『なるほど』は言いませんよね、普通」


「言う人もいるかもしれませんよ、たぶん」


「ドウさん」


「はい」


「本当に何でもないんですか」


ドウが少しだけ歩みを緩めた。廊下の確率値が一つ、ゆっくりと動いた。


「なんでもないですよ」


同じ言葉だった。でも今回は、わずかに間があった。


ルカは廊下を歩きながら、その間のことを考えた。ドウが間を置くのは珍しい。たいていは即座に、穏やかに、断定を避ける語尾で答える。今の間は——何だったのだろう。


「次の聞き込みの段取りを確認しましょうか」


ドウが言った。


「……そうですね」


ルカは書類を手に持ち直した。被害者の同僚リスト。事件当日の様子を知っている人間たちの名前が並んでいる。


「同僚の確率師から順番に当たります。証人も含めて、事件当日の被害者の状態を把握したい」


「そうですね、たぶん」


ドウはいつもの口調に戻っていた。穏やかで、断定を避けて、少し眠そうな声。廊下の先に、取引所の方向へと続く出口が見える。


ルカは歩きながら、走り書きのことを思い出した。


*観測値が整合しすぎている——自然な誤差がない*


几帳面な人の、几帳面でない字。


「几帳面な人だったんですね、あの被害者の方は」


「そうですね、たぶん」


ドウの声は変わらなかった。


ルカは廊下を歩き続けた。遠くの口論が、また少し大きくなった。誰かが確率値の解釈を巡って怒鳴っている。ギルドではよくあることだ。


「ドウさん」


「はい」


「さっきの『なるほど』、本当に何でもないですか」


廊下の先で、確率値が一つ浮遊していた。ゆっくりと、右から左へ流れていく。


「なんでもないですよ、たぶん」


三度目の同じ答えだった。


ルカはため息をついた。


「……また雑談で誤魔化してる」


「そんなことないですよ、たぶん」


「『たぶん』をつけないでください」


「そうですね、たぶん」


ルカは歩きながら、小さく笑った。ドウの返答はいつも同じ構造をしている。断定を避けて、穏やかで、最後に『たぶん』がつく。何を聞いても、何を言っても、このリズムが崩れない。


崩れない、ということは——ドウにとってこのリズムが自然なのだ。


まあ、そういう人なのだろう。


「次の聞き込み、同僚の確率師から始めましょう。証人の方は後回しでいいですか」


「いいと思いますよ、たぶん」


「では行きましょう」


二人は廊下を歩いた。遠くの口論が、石の壁に反響しながら続いていた。


休憩スペースの窓から、大広間が見えた。


昨日の立入禁止ロープはまだ張られたままで、北西エリアの確率値だけが今も不自然に静止している。五十パーセント固定。フラット状態の被害者たちの数値が、均一な光として漂っている。動かない確率値というのは、見慣れると不気味というより、むしろ悲しい。


ルカは手元の聞き込みノートに目を落とした。


「では、もう少し詳しく聞かせてもらえますか」


向かいに座っているのは、被害者の一人——取引所の南側カウンターを担当していた確率師だ。名前はリウ・エン。三十代半ば、几帳面な印象の人物で、昨日より表情が落ち着いている。ただし、周囲に浮かぶ確率値はまだ不安定に揺れていた。残高が消失した後の、感情の余震のようなもの。


「事件当日のことを、最初から」


リウ・エンは少し間を置いてから、口を開いた。


「午前中は普通でした。いつもと変わらない取引が続いていて」


「数値の動きに異常は?」


「それが……」リウ・エンが眉を寄せた。「今思えば、少しだけ変だったかもしれません。でも、あの時は気づかなかった」


「どんな風に変でしたか」


「数値が、なんというか」リウ・エンは言葉を探すように天井を見た。「滑らかすぎた気がして。普通、取引の確率値って、見る人によって少しずつズレるじゃないですか。でもあの日は、なんか……みんなが同じものを見ているみたいな感じがした」


ルカはノートに書き込んだ。


*滑らかすぎる。均一性。*


「それ以外に気になったことは?」


「あと、見慣れない確率師がいました」


ルカの手が止まった。


「見慣れない、というのは?」


「取引所の常連じゃない人、ということです。顔を覚えていないんですが——ギルドの制服を着ていたから確率師だとは分かって。北西エリアの方にいたと思います」


「背格好は?」


「背が高かったような……いや、普通だったかな」リウ・エンが首を振った。「すみません、よく覚えていなくて。観測者バイアスがかかってるのかもしれません」


「気にしないでください」ルカは穏やかに言った。「他に何か覚えていることは?」


「その確率師に観測されたんです。私の確率を」


ルカはノートから目を上げた。


「観測された、というのは確かですか」


「ええ。観測されると分かるじゃないですか、なんとなく。視線の向き方が違う。あの人は私の確率を読んでいた。でも、別に不審だとは思わなかった。取引所では普通のことだから」


「その後、何か変化は?」


リウ・エンが少し考えてから言った。


「感触が違った気がしました」


「感触?」


「確率値の感触、です。自分の取引の確率を読んでもらった時の——なんていうか、手応えみたいなもの。いつもと少し違った気がしたんですが」リウ・エンが苦笑した。「うまく説明できなくて。主観的な話ですよね」


「いえ」ルカはノートに書き込みながら言った。「参考になります」


*感触の違い。観測者バイアスによる主観的な感覚の歪みか。*


ルカは次の被害者のところへ移動した。


---


二人目は若い証人だった。名前はカイ・ソウ。二十代前半で、事件当日は北西エリアの取引の証人として立ち会っていた。


「覚えていることを教えてください」


「はい」カイ・ソウは真剣な顔で答えた。「取引の途中で確率値がおかしいと気づいたんですが、最初は自分の観測がずれてるのかと思って」


「どんな風におかしかったですか」


「数値が、ちょっと整いすぎてた。証人として観測する時って、自分なりの誤差が出るんですよ。でもあの時は誤差がなくて、むしろ出すぎないように意識しなきゃいけないくらいきれいな数値が見えた。それが逆に変で」


ルカはノートに書き込んだ。


*整いすぎ。誤差の欠如。リウ・エンの「滑らかすぎる」と同じ方向性。*


「その時、見慣れない確率師はいましたか」


カイ・ソウが少し考えた。


「いたかもしれません。でも、北西エリアは人が多かったから、よく覚えていなくて」


「背格好は?」


「細身だったような気がします。でも自信ない」


リウ・エンの証言では「背が高かったような、普通だったかな」だった。カイ・ソウは「細身」。同じ人物を見ていても、これだけ印象が変わる。観測者バイアスの典型的な発現だ。


「ありがとうございます」


---


三人目は、被害者の中で最も残高消失が大きかった確率師だった。名前はベン・ラン。四十代、がっしりした体格。フラット状態の確率値が周囲に静止している。


「当日のことを話せますか」


「話せます」ベン・ランは淡々と答えた。「もう怒ってないし、混乱もしてない。フラットになるとそういうもんですよ」


確かに、ベン・ランの声には感情の起伏がなかった。五十パーセント固定の確率値と同じように、均一で平坦だった。


「事件当日、見慣れない確率師を見ましたか」


「見ました」ベン・ランは即答した。「ギルドの制服を着た、若い感じの確率師。北西エリアの端の方にいた」


「特徴を覚えていますか」


「背が低かった」


ルカは一瞬、ノートを持つ手を止めた。


リウ・エンは「背が高かったような、普通だったかな」。カイ・ソウは「細身」。ベン・ランは「背が低かった」。


三者三様だ。


「その人に観測されましたか」


「された。でも変だとは思わなかった。取引所だから」ベン・ランが少し間を置いた。「後から考えると、観測された後から確率値の感触が変わった気がするんですが、それが偽造の影響なのか、それとも私の思い込みなのか、今となっては分からない」


「感触が変わった、というのはリウ・エンさんも言っていました」


「そうですか」ベン・ランが静かに言った。「まあ、今は何を感じても五十パーセントですから」


ルカは何も言わなかった。


---


四人目、五人目と聞き込みを続けた。


証言はどれも似ていた。確率値が「整いすぎていた」「滑らかすぎた」「誤差がなかった」。そして全員が、事件当日に「見慣れない確率師」を目撃していた。


ただし、その人物の特徴が証言ごとに微妙に異なっていた。


背が高い。背が低い。細身。がっしりしていた。若い。中年。


同一人物を見ていたとは思えないほど、印象がバラバラだ。


ドウが隣の椅子で茶を飲みながら、聞き込みに同席していた。ルカが証言を整理する間も、ドウは静かに茶を飲んでいる。時々、証言者の確率値に視線を向けて、すぐに戻す。


五人目の証言が終わった後、ルカはノートを閉じた。


「ドウさん、今の証言をどう思いますか」


「どう、というと?」


「見慣れない確率師の特徴が、証言ごとにバラバラです。同一人物を見ていたとしたら、これだけ印象が違うのは観測者バイアスとしては少し大きすぎる気がして」


「そうですね、たぶん」ドウが茶を飲んだ。「でも、北西エリアは人が多い場所ですから。混乱した状況での記憶は歪みやすい」


「それはそうなんですが」


ルカはノートを開き直して、各証言の「見慣れない確率師」の特徴を並べて見た。


背が高い。背が低い。細身。がっしりしていた。若い。中年。


*系統的な……*


ルカは一瞬、その言葉を頭の中で止めた。


*いや、観測者バイアスによる食い違いですね。*


混乱した状況での記憶は歪む。それが確率師であっても証人であっても変わらない。観測者バイアスが証言の食い違いを生んでいる。それだけのことだ。


「もう一度、全員に聞き込みをした方がいいかもしれません」ルカは言った。「今日は初回の聞き込みだったので、明日もう少し詳しく話を聞いて」


「そうですね、たぶん」


窓の外の大広間で、立入禁止ロープが揺れていた。


定位置に戻ると、午後の喧騒が再開していた。


午前中の静けさは消えていて、取引所はいつもの賑やかさを取り戻している。確率値が乱舞し、誰かが口論し、誰かが飲み物をこぼして床が濡れる。北西エリアの立入禁止ロープだけが、日常の中の異物として残っている。


ドウが定位置の椅子に座り、茶を淹れていた。湯気が細く立ち上がる。


ルカはノートを広げて、今日の聞き込み結果を並べ直した。


被害者は全部で七名。そのうち五名に直接話を聞いた。残りの二名は明日以降に回す。


「整理します」ルカは言った。「全員の証言に共通点がありました」


「どんな共通点ですか」ドウが茶を一口飲んだ。


「まず、確率値の異常について。全員が『整いすぎていた』『滑らかすぎた』『誤差がなかった』という表現を使っています。言葉は違いますが、同じ異常を指している」


「なるほど」


「次に、全員が事件当日に『見慣れない確率師』を目撃していること。ギルドの制服を着た人物で、北西エリアの周辺にいた。そして全員、その人物に観測されている」


ドウが茶を持ったまま、少し視線を上げた。


「全員が観測されている、というのは確かですか」


「五名中五名。そして全員、観測された後から確率値の感触が変わったと証言しています」


「感触が変わった」ドウが繰り返した。「それは観測者バイアスによる主観的な感覚の歪みでは?」


「そうかもしれません」ルカはノートに線を引いた。「でも全員が同じ表現をしているのは、偶然にしては揃いすぎている」


「そうですね、たぶん」


ルカは証言の特徴の部分を見た。


背が高い。背が低い。細身。がっしりしていた。若い。中年。


「問題は、この人物の特徴が証言ごとにバラバラだということです」ルカは言った。「同一人物を見ていたとしたら、これだけ印象が違うのはおかしい」


「観測者バイアスで説明できませんか」


「できないとは言いません」ルカはノートを閉じた。「でも気になるのは、食い違いの方向性です。背の高低、体格の細太、年齢の若老——これだけ基本的な特徴が全部バラバラというのは、観測者バイアスにしても少し大きすぎる」


ドウが茶を飲んだ。窓の外で確率値が動いた。ドウの視線がそちらに向いて、すぐに戻った。


「でも、北西エリアは人が多い場所ですよ。混乱した状況での記憶は歪みやすい」


「それはそうです」ルカは認めた。「観測者バイアスによる食い違いとして処理するのが自然かもしれません」


ルカはノートを再び開いて、共通点の部分だけを抜き出した。


——全員が事件当日に見慣れない確率師に観測された。

——全員、観測後に確率値の感触が変わったと証言している。

——その人物は北西エリアの周辺にいた。


「つまり」ルカは言った。「見慣れない確率師が、被害者全員の確率を観測した。そして観測後から確率値の異常が始まった。この順序は全員の証言で一致しています」


「なるほど」


「この人物を特定する必要があります。ギルドの制服を着ていたということは、確率師ギルドの関係者か、あるいは制服を借用した誰かか」


「制服の借用は難しいですよ」ドウが言った。「ギルドの制服は個人認証が入っているので」


「だとすれば、確率師ギルドの誰か、ということになります」


ルカはノートに書き込んだ。


*見慣れない確率師。ギルドの制服。北西エリアの周辺。被害者全員を観測。観測後に確率値の感触が変化。*


「ただ」ルカは続けた。「特徴がバラバラなのは気になります。もし意図的に印象を変えていたとしたら——」


「印象を変える?」


「確率師には観測者バイアスを利用する技術があります。見る側の認識に影響を与えることで、自分の印象を曖昧にする」ルカは少し考えた。「ただ、それをやるには相当な技術が必要で、そんな技術を持つ確率師がそうそういるとは思えません」


「そうですね、たぶん」


「まずは、事件当日にギルドの制服を着た確率師が北西エリアにいたという事実を確認することが先決です。ギルドの入退館記録を確認すれば、当日その場所にいた確率師を絞り込める」


ドウが茶を飲み干した。


「明日、ギルドに確認に行きますか」


「そうします」ルカはノートを閉じた。「それと、被害者の残りの二名にも話を聞いておきたい。『見慣れない確率師』の特徴が、もう少し揃えば何か分かるかもしれません」


「揃わないかもしれませんが」


「揃わなくても、それはそれで情報です」

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