第3話
ルカは立ち上がった。ギルドからの連絡。確率値の偽造という事案が発生した場合、ギルドは確率師に正式な調査を依頼する権限を持っている。つまりこれは、仕事になる。
個人的な問題としてではなく、職業的な問題として処理する。それでいい。
「ドウさん」
「はい」
「同行をお願いできますか」
「そのつもりでしたよ、たぶん」
ドウが茶を飲み干した。
立ち上がる前に、一瞬だけルカの方向に視線を向けた。ほんの一瞬、目を細めるような動作をした。それからすぐに茶碗を棚に置いて、立ち上がった。
ルカはすでに歩き始めていた。
「急いだほうがいいですよ」
「分かっています」
「確率的には、早いほうが」
「分かっています、確率的には」
取引所の喧騒が、二人の後ろで続いていた。確率値が乱舞し、誰かが驚いて飲み物をこぼし、床が濡れる音がした。
いつもの日常だった。
ただ、北西エリアの三つのカウンターだけが、均一な静止の中にあった。
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ギルドのスタッフを探し当てるまでに、五分かかった。
「零花さん、よかった」
若いスタッフが、東側カウンターの近くで待っていた。手に書類を持っている。
「ギルドから正式な調査依頼が来ています。確率値の偽造事案として処理したいとのことで」
「分かりました」
「引き受けていただけますか」
ルカは一拍置いた。
置く必要はなかった。答えは決まっていた。確率師として、確率の偽造を放置することはできない。職業倫理として、当然引き受けるべき案件だ。
*自分が読んできた確率値も——*
ルカは咳払いをした。
「引き受けます。確率的には当然の範囲です」
「ありがとうございます」
スタッフが書類を差し出した。ルカは受け取りながら、内容を確認した。被害者の名前、取引の内容、誤読が確認された時刻。
「被害者への聞き込みは今日から始められますか」
「始めます」
「では、北側の休憩スペースに被害者の方々をお連れしています。ご都合のいい時に」
「今すぐ向かいます」
スタッフが頭を下げて去った。
ルカは書類を手に持ったまま、少し立ち止まった。
大広間の喧騒が続いている。確率値が乱舞している。誰かが口論をしている。誰かが取引に成功して歓声を上げている。いつもの取引所だ。
ただ、北西エリアだけが違う。
「行きますか」
ドウが横に立っていた。
「行きます」
ルカは歩き始めた。
「聞き込みで何か分かりますかね」
「分かることがあれば分かります」
「そうですね、たぶん」
ドウが隣を歩いた。茶を持っていなかった。飲み干してきたらしい。
「ドウさん」
「はい」
「さっきの、ルカさんの場合は特に、というのは」
「ああ」
「なんでもないですよ、たぶん」
ルカは前を向いたまま、息を吐いた。
ドウはいつもこうだった。何かを言いかけて、何も言わない。重要なことほど雑談のように差し込んで、聞き返すと「なんでもない」と流す。
*大事なことほど本当のことを言う人ですよ、笑いながら——*
違う、それはゴンの話だ。ドウは笑いながら言っているわけではない。ただ、飄々としているだけだ。
北側の休憩スペースへ向かう廊下に入った。確率値の密度が少し下がり、視界が明るくなった。
「調査、うまくいくといいですね」
ドウが言った。
「うまくいかせます」
「そうですね、たぶん」
「たぶん、ではなく確実に」
「確率的には」
ルカは答えなかった。
廊下の先に、被害者たちが待っているはずの休憩スペースがある。聞き込みをすれば、何かが分かる。誤読パターンの歪みの原因が分かれば、犯行の手法が見えてくる。手法が分かれば、犯人に近づける。
それが仕事だ。個人的な恐怖は、引き出しの中にしまっておく。
「ドウさん」
「はい」
「もし調査の途中で、私の確率値に何か気になることがあれば」
ルカは少し間を置いた。
「教えてください」
ドウが一拍置いた。
「そうですね」
「そうですね、ではなく」
「教えますよ、たぶん」
「たぶん、ではなく確実に」
「確率的には」
ルカは前を向いたまま、もう一度息を吐いた。
ドウはいつもこうだった。
そして、それがルカには——少しだけ、心強かった。
休憩スペースの窓から、大広間が見えた。
いつもなら無数の確率値が乱舞するその空間が、今日だけは少し静かだった。黄色いロープの内側に、誰も近づかない。床に飲み物をこぼした跡が三か所。誰かが数値を見て、驚いて、手を滑らせた跡。
ルカは視線を室内に戻した。
北側の休憩スペースに、被害を受けた確率師たちが集められていた。全部で六人。そのうち二人が、残高消失によるフラット状態に陥っている。ルカは入室してすぐ、その二人の周囲の確率値が異様に静止していることに気づいた。五十パーセント固定。動かない数値。揺れない光。まるで時間だけが止まったような、均一な静けさだった。
ドウが隣に立って、茶を飲んでいる。
「では、お一人ずつ確認させてください」
ルカは手帳を開いた。
最初の証言者は、四十代の男性確率師だった。ソレス・ベン、と名乗った。取引所に十五年勤めているベテランで、今日の事件が信じられないという顔をしていた。
「事件当日の朝、何時頃に観測を開始しましたか」
「九時です。いつも通り」
「対象の確率値は、最初どう見えましたか」
「六十二でした。安定した数値だと思いました。前日も同じくらいでしたから」
「それが変化したのはいつですか」
「十時半頃です。気づいたら四十一になっていた。でも、そういうことはあります。観測者によって数値は変わりますから」
ルカはその言葉を書き留めながら、少し考えた。
観測者によって変わる。そうだ、それが世界のルールだ。誰かが見るたびに、確率値は揺れる。それ自体は異常ではない。
「あなたが四十一を観測した時、他の確率師は何を観測していましたか」
「聞いてみたら、ヤリン師が五十七と言っていました。マスク師は四十八と」
「同じ対象に、三者が別々の数値を観測した」
「それも、珍しいことではありません。観測者バイアスですから」
ルカはペンを走らせる手を一瞬止めた。
観測者バイアス。そうだ、それが説明になる。なるはずだ。同じ対象を見ても、見る人間によって数値は変わる。自分の感情状態、体調、その日の集中力、あらゆるものが数値の読み取りに影響する。だから三者が三様の数値を観測しても、それ自体は——
「でも」とソレス・ベンが続けた。「なんか、感触が違ったんです」
ルカは顔を上げた。
「感触?」
「うまく言えないんですが。数値を読んだ時に、いつもと違う感じがして。なんというか、数値が……滑らかすぎるというか」
ルカはその言葉を書き留めた。「観測者バイアスによる主観的な感覚の歪みですね」と言いながら、次の質問に移った。
ドウが、茶を一口飲んだ。
二人目は、二十代の女性証人だった。カリン・ヴォ。証人歴三年。フラット状態に陥っていない方の被害者で、残高は半分以下に減っているが、まだ数値は動いている。
「事件当日、あなたは誰かに観測を依頼されましたか」
「はい。ソレス師から、取引対象の確率値を確認してほしいと言われました」
「観測結果は?」
「五十三でした。でも——」カリン・ヴォは少し言葉を止めた。「ソレス師が言った数値と、かなり違っていました」
「どのくらい違いましたか」
「師は四十一と言っていましたが、私は五十三でした。十二ポイントの差です」
「それは珍しいことですか」
「珍しくはないです。でも……」
また言葉が止まる。ルカは待った。
「なんというか、私が観測した時に、数値の輪郭がはっきりしすぎていた気がして。普通の数値って、少しぼやけているというか、揺れているというか。でも、あの時の数値は、妙に……くっきりしていたんです」
ルカはその言葉も書き留めた。「観測者バイアスによる視覚的な歪みですね」と言いながら。
ドウが、また茶を飲んだ。
三人目。四人目。五人目。
ルカは証言を積み重ねながら、手帳の中に数値を並べていった。各証言者が観測した数値を、時系列で整理する。
九時から十一時の間に、同一の取引対象に対して、六人の確率師・証人が合計十四回の観測を行っていた。その数値を並べると——
ルカのペンが止まった。
数値を見つめる。もう一度、見つめる。
「ドウさん」
「はい」
「この数値の並びを見てください」
ドウが茶を置いて、手帳を覗き込んだ。
「九時から十時の間の観測値は、全員が五十台から六十台です。それが十時以降、全員が四十台に落ちている。落ち方のタイミングが、観測者ごとに少しずつずれている」
「そうですね」
「観測者バイアスによる自然な変動なら、数値の散らばり方はもっとランダムになるはずです。あるいは、観測者の感情状態や集中力によって、上にも下にも振れるはずです。でも、この十四回の観測を見ると——」
ルカは手帳の数値を指でなぞった。
「全員が、同じ方向に、ほぼ同じ幅でずれている」
室内が、少し静かになった気がした。
「九時台は全員が五十から六十五の範囲。十時以降は全員が三十八から四十九の範囲。方向が揃っている。幅が揃っている。観測者バイアスでこれが起きるには——」
「起きないですね、普通は」とドウが言った。穏やかな声で。「観測者バイアスは個人差が出るものですから、これだけ方向が揃うのは」
「揃いすぎています」
ルカは窓の外を見た。大広間の黄色いロープ。動かない確率値。フラット状態の二人の証言者の周囲の、均一な光。
「これは事故ではありません」
声に出して言うと、確信が固まった。
「誰かが意図的に、確率値を操作した。特定の時刻以降、特定の方向に、特定の幅で。全員が同じ方向に誘導されるように」
六人目の証言者が、まだ待っている。ルカは手帳を持ち直した。
六人目は、フラット状態に陥った確率師の一人だった。ケン・マスク。残高がゼロになって、今は五十パーセント固定。窓際の椅子に座って、外を見ていた。ルカが声をかけると、ゆっくり振り向いた。
フラット状態の人間の目は、独特だ。穏やかで、落ち着いていて、何かを諦めたような、あるいは諦めを超えた先にある静けさのような。
「ケン・マスクさん、いくつか確認させてください」
「どうぞ」
声も穏やかだった。
「事件当日、あなたはどの時点で数値の異常に気づきましたか」
「気づかなかったです。ただ、観測を続けるうちに、数値がどんどん下がっていって。私の残高も一緒に減っていって。気づいたら、ゼロになっていました」
「数値が下がっていく時、何か感じましたか」
「感触が、変でした」
また、その言葉だ。
「具体的に教えてもらえますか」
「数値が……自分のものじゃない感じがして。観測しているのに、観測できていない感じ。なんというか、数値を見ているのに、数値の本当の意味が見えていない感じがしました」
ルカはその言葉を書き留めながら、何かが引っかかった。
自分のものじゃない感じ。観測できていない感じ。
「事件当日、見慣れない確率師を見かけませんでしたか」
ケン・マスクが少し考えた。
「……いたかもしれません。記録室の前で、誰かとすれ違った気がします。確率師の格好をしていましたが、顔は覚えていません」
「特徴は?」
「覚えていないです。ごめんなさい。観測者バイアスで、記憶が歪んでいるかもしれません」
ルカは書き留めた。記録室。その言葉が、一瞬、頭の中で光った気がした。でも、すぐに次の質問に移った。
「ありがとうございました」
ケン・マスクは窓の外に視線を戻した。大広間の確率値が、ゆっくりと漂っているのが見えた。ケン・マスクには、もうそれが見えない。
ルカは手帳を閉じた。
ドウが立ち上がって、窓の外を見た。
「六人全員の証言に、共通点がありましたね」
「二つあります」ルカは手帳を開き直した。「一つ目、全員が観測時に『感触が違った』と言っている。数値がくっきりしすぎていた、滑らかすぎた、自分のものじゃない感じがした。表現は違うが、全員が同じ種類の違和感を感じている」
「二つ目は?」
「全員が、事件当日に見慣れない確率師を見かけた可能性がある。ただし、その人物の特徴が証言ごとに微妙に異なる。観測者バイアスで記憶が歪んでいる可能性が高い」
「なるほど」とドウが言った。
ルカはドウを見た。ドウは窓の外を見ている。大広間の方向を。確率値が乱舞する方向を。
「つまり」ルカは続けた。「犯行の手口は、確率値を特定の方向に誘導することだった。全員が同じ方向にずれるように、操作した。でも、どうやって?」
「どうやって、ですか」
「確率値は、観測者が見た瞬間に変動します。見られることで変わる。だから、誰かが見ている状態で確率値を操作しようとすれば、その操作自体が観測されて、数値が変わってしまう。誰にも見られずに操作するには——」
ルカは手帳を閉じた。
「観測されない角度から、動く必要があります」
室内が静かになった。
フラット状態の二人の確率値が、五十パーセントのまま、静止している。動かない。揺れない。均一な光。
定位置に戻ると、確率値の密度が少し落ち着いていた。
夕方に向かう取引所は、昼のピーク時と比べて喧騒の質が変わる。口論の声が減って、代わりに疲れた話し声が増える。床の濡れた跡が少し乾いて、靴底に伝わる感触が変わる。確率値の光も、午後の斜めの光に混じって、少し橙色がかって見える。
ドウが三杯目の茶を淹れていた。
湯気が細く立ち上がる。ルカは椅子を引いて座り、手帳を開いた。六人分の証言。十四回の観測記録。方向が揃いすぎた数値の並び。
「整理します」
ルカは手帳に線を引きながら言った。独り言でもあり、ドウへの報告でもある。
「確率値の偽造は、観測者全員が同じ方向に誘導されるように設計されていた。九時台は五十から六十五の範囲に、十時以降は三十八から四十九の範囲に。この二段階の変化を、六人の観測者全員が経験している」
ドウが茶を持って隣に来た。立ったまま、手帳を覗き込む。
「方向が揃っているということは、偶然の誤作動ではないということです。観測者バイアスによる自然な変動なら、数値は上にも下にも、ランダムに散らばるはずですから。でも全員が同じ方向にずれている。これは、誰かが意図的に操作した証拠です」
「そうですね、たぶん」とドウが言った。
「問題は手口です」ルカはペンを走らせながら続けた。「確率値は、観測された瞬間に変動します。見られることで変わる。だから、誰かが観測している状態では、確率値を特定の方向に固定することは難しい。観測のたびに揺れてしまうから」
「確かに」
「でも今回は、六人の観測者が全員、同じ方向に誘導されている。これは、観測者が見ている間に操作が行われたのではなく——」
ルカは手帳の数値を指でなぞった。
「観測者が見ていない角度から、確率値に何らかの処置が施されたということです。見られる前に、あるいは見られない位置から、確率値の基底となる何かを書き換えた。だから観測者が見た時には、すでに誘導された数値しか見えなかった」
「観測されない角度から、ですか」
ドウが繰り返した。
穏やかな声だった。いつもの、断定を避ける声のトーン。ルカはドウを見た。ドウは手帳を見ている。いや、手帳の少し先を見ている。取引所の大広間の方向を。
「そうです。観測されない角度から確率値を書き換えるには、特殊な技術が必要です。確率値の可視化は空間全体に広がっていますから、完全に観測されない角度を確保するのは——」
「難しいですね」
「難しい。でも、不可能ではない。取引所の構造を熟知していれば、死角を作ることはできるかもしれない。あるいは、観測者の注意を別の方向に向けることができれば——」
ルカはペンを止めた。
「犯人は、確率値の偽造技術と、観測者の視線を制御する技術の両方を持っている。それができる人間は、確率師の中でもかなり限られます」
ドウが茶を一口飲んだ。
それだけだった。何も続けない。
ルカはドウを見た。ドウは取引所の中央通路の方向に目を向けていた。人の流れ。確率値の光。いつもの喧騒。特に注目すべきものは何もない。
「どうかしましたか」
「いえ」とドウが言った。「なんでもないですよ、たぶん」
ルカは手帳に視線を戻した。
「明日、ギルドへの正式な依頼受理に行きます。この調査を正式に引き受けるかどうかの判断をしなければなりません」
「そうですね」
「引き受けるべきですね、確率的には」
ルカは自分でそう言いながら、少しだけ止まった。確率的には、という言葉が、今日だけ少し重く感じた。確率的には。確率的には、自分の判断は正しいはずだ。確率的には、この調査を続けることが正しい。確率的には——
「ルカさん」
ドウが言った。
「何ですか」
「今日の調査、お疲れ様でした」
それだけだった。
ルカは手帳を閉じた。窓の外で、確率値が夕方の光に染まって揺れている。橙色の光の中で、数値がぷかぷかと漂っている。あの数値は全部、本当に未来を示しているのだろうか。それとも——
「行きましょう」
ルカは立ち上がった。
「明日の準備があります」
ドウが茶を飲み干した。
二人は取引所を出た。石畳の廊下を歩く足音が、夕方の静けさに響く。ルカは手帳を鞄にしまいながら、今日の証言を頭の中で反芻した。
観測されない角度。
その言葉が、頭の中に残っていた。
「ドウさん」
「はい」
「犯人は、観測されない角度を知っている人間です。取引所の構造を、確率値の流れを、観測者の視線のパターンを。それだけの知識を持っている人間が、確率師の中にいる」
「そうですね、たぶん」
「明日から、その方向で調査を進めます」
ドウが頷いた。
石畳を歩く。夕方の光が建物の隙間から差し込んで、確率値を橙色に染める。ルカは前を向いて歩きながら、手帳の中の数値を思い返した。方向が揃いすぎた数値。感触が違ったという証言。観測されない角度。
そして、ケン・マスクの言葉。
記録室の前で、誰かとすれ違った。
その断片が、頭の中で一瞬光った。でも、すぐに消えた。
「ドウさん、もう一つ確認したいことがあります」
「何ですか」
「六人の証言者全員が、事件当日に見慣れない確率師を見かけたと言っていました。でも特徴が証言ごとに違う。これは観測者バイアスによる記憶の歪みだと思いますが——」
「そうですね、たぶん」
「——でも、特徴が違うこと自体が、何かを示している可能性もあります。意図的に特徴を変えていたとしたら」
ドウは何も言わなかった。
ルカはドウを見た。ドウは前を向いて歩いている。石畳を見ている。その横顔は、いつもと変わらない。飄々として、眠そうで、何も考えていないようにも、全部考えているようにも見える。
「どう思いますか」
「観測されない角度、ですか」
ドウが繰り返した。また。
ルカは少し止まった。ドウも止まった。二人が取引所の出口の前に立っている。夕方の光が入口から差し込んでいる。確率値が光の中で揺れている。
「それ、さっきも言いましたよね」
「そうですかね、たぶん」
「同じ言葉を繰り返して、何も続けない。何を考えているんですか」
ドウが茶を——今は持っていない。代わりに、取引所の外の方向を見た。中央通路の、その先の方向を。特に何もない場所を。
「なんでもないですよ」とドウが言った。「たぶん」
ルカはため息をついた。
「明日、ギルドに行きます。依頼を正式に受理して、調査を本格化させます。観測されない角度を持つ人間の特定。それが最初の目標です」
「そうですね」
「手伝ってもらえますか」
「もちろんです」
ドウが頷いた。いつもの穏やかな頷き方で。何も変わらない。飄々として、眠そうで。
二人は取引所を出た。夕方の石畳を歩く。確率値が空中に漂っている。橙色の光の中で、数値がゆっくりと動いている。
ルカは前を向いて歩きながら、手帳の中の言葉を思い返した。
観測されない角度。
その言葉が、夕方の光の中に溶けていった。
遠くで、誰かが口論している声が聞こえた。いつもの取引所の喧騒。確率値をめぐる、誰かの怒りの声。
ドウが、また茶を飲みたそうな顔をしていた。
古い紙の匂いが、肺の奥まで入ってくる。
確率師組合「プロバビリスト・ギルド」のギルド長室は、三面が書庫になっていた。天井まで積み重なった確率記録の束が、壁というより崖のように立ちはだかっている。窓はひとつだけ。外の石畳が灰色の光を反射している。
浮遊する確率値が少ない。取引所の乱舞とは対照的に、この部屋の空気は静かで、重い。
ルカは大きなテーブルの向こうに座るギルド担当者——細身の中年男性で、いつも同じ色の上着を着ている——を見ながら、自分の手が膝の上でわずかに固まっているのを感じた。
気づかれていない、はずだ。
「零花さん」と担当者が口を開いた。声が石の壁に反響する。「昨日の事件について、ギルドとして正式に対応する必要が生じました」
「はい」
「被害を受けた確率師が五名。運勢残高の消失が三名。取引崩壊による損失は、現時点で算定中です」
担当者が書類を手に取る。確率値がひとつ、書類の角あたりをゆっくり漂った。
「ギルドとして、この件の調査を依頼したい。正式な依頼として」
ルカは頷いた。
「わかりました」
短く、明快に。これが正しい答えだ。確率師として、職業倫理として、当然の選択だ。確率の偽造を放置することは、この社会の基盤そのものへの背信行為に等しい。誰かがやらなければならない。ルカがやるべきだ。
——でも本当にそれだけか。
心の中で、何かがざわりと動いた。ルカはそれを、即座に押し込んだ。
「ただし」と担当者が続けた。一拍だけ、言葉が止まった。
ルカは気づいた。その一拍の長さを。
「調査対象には、確率師ギルドの関係者も含まれる可能性があります」
部屋の空気が、少しだけ変わった気がした。
「わかりました、確率的には当然の範囲です」
——本当に当然か? 自分が読んできた確率値の中に、操作されたものが混じっていたとしたら? ギルドの関係者が犯人だとしたら、これまでの調査で自分が正しいと判断してきた数値は、どこまで信用できるのか。
ルカは咳払いをした。
「具体的な調査の権限と、情報へのアクセス範囲を確認させてください」
「もちろんです」と担当者は言い、書類を広げ始めた。
ルカは書類に目を向けながら、視線の端で部屋の隅を確認した。
算太ドウが、壁際の椅子に座っていた。茶を飲みながら、特に何も見ていないような顔で——しかし、確実に何かを見ている顔で——窓の外に視線を向けていた。
いつもの顔だ。何も考えていないように見えて、おそらく全部考えている顔。
担当者が権限の範囲を説明し始めた。ルカは耳を傾けながら、書類の文字を追いながら、それでも心の中の何かがまだ動いていることを感じていた。
取引所で誤読パターンの歪みを発見した瞬間から、ずっとそこにある何か。
確率の偽造が可能なら、これまで自分が読んできたものは——
「零花さん?」
「失礼しました」ルカは書類に視線を戻した。「続けてください」
担当者が説明を再開する。ルカは今度こそ、完全に集中した。
職業倫理として、引き受ける。個人的な恐怖は、後回しにする。それが確率師としての正しい判断だ。確率的には、それ以外の選択肢はない。
——確率的には。
「以上が調査の権限範囲です。ご質問はありますか」
「ひとつだけ」ルカは顔を上げた。「被害者の記録には、いつからアクセス可能ですか」
「本日の午後から、閲覧室を使用できます」
「わかりました」
ルカは立ち上がり、書類を受け取った。
担当者が何か言いかけた。口が少し開いて——
「では、よろしくお願いします」とルカが先に言った。
担当者は頷いた。
「よろしくお願いします、零花さん」
ドウが椅子から立ち上がる音がした。茶碗を置く、小さな音。
「では、今日はこれで」とドウが言った。
ルカは書類を手に、ドウと共に部屋を出た。
廊下に出ると、石造りの建物特有の冷えた空気が頬に当たった。
「お疲れ様です」とドウが言った。いつもの口調で。「依頼、受けましたね」
「受けました」
「そうですか」
ドウが茶を飲み干した後の小さな音をたてた——いや、茶碗はもう置いてきたはずだ。何の音だったのか。
「ドウさん」
「はい」
「今日の私の確率、どうですか」
ドウが一拍置いた。廊下の確率値がひとつ、ゆっくりと漂った。
「そうですね」とドウは言った。「今日は、なかなか——」
「なかなか、何ですか」
「——複雑な数値ですよ、たぶん」
「複雑」
「ええ」
それ以上、ドウは何も言わなかった。
廊下の先、記録室の方向から、誰かが書類を運ぶ足音が聞こえた。ルカは書類を抱え直し、歩き出した。
ドウが隣を歩く。
複雑な数値。
ルカはその言葉を、頭の中で一度だけ繰り返してから、今日やるべきことのリストの中に押し込んだ。
紙をめくる音だけが、書庫に響いていた。




