第2話
「それは良かった。ザ・オッズの零が動くなら心強い。正直、あの件は私には手に余る。誤読パターンの歪み方が——」
「ええ、系統的すぎますね」
「そうなんです。観測者バイアスの自然な発生ではない。あれは」
リュウが声を落とした。廊下の奥から別の確率師が歩いてきたからだ。
「——まあ、お任せします。零花さんが見落とすものはないでしょうから」
リュウは軽く頭を下げて、書庫の中へ戻っていった。
ルカは歩き続けた。
ドウが後ろから、穏やかに言う。
「信頼されてますね、たぶん」
「そうですね、確率的には」
自分でも少し可笑しかった。確率的には、という言葉を使ったが、他者の信頼を確率で測れるわけがない。口癖というのは恐ろしい。考えなしに出てくる。
廊下を折れ、少し広くなった区画に入ると、今度は三人のギルド員が立ち話をしていた。ルカが通り過ぎようとした時、その会話の断片が耳に入った。
「——だから記録室でしょう、最近また」
「ヴィオさんが?」
「ええ。先週も三日続けて。あの部屋、過去の観測データしか置いていないのに」
ルカの足が、一拍だけ遅くなった。
ほんの少しの遅れだ。意識してのことではない。ただ、何かが引っかかった。記録室。過去の観測データ。ヴィオ、という名前。
——ヴィオ。
奏確ヴィオ。ギルドの中でも特に実績のある確率師だ。ルカ自身は面識がない。名前を知っている程度。それでも、廊下を歩くギルド員たちの会話の中に、その名前が出てくることは珍しくない。実力者の名前は自然に広まる。
だが、記録室に通っている、というのは。
「——零花さん」
別の声がした。ギルドの担当者、ミナト・ソウという初老の男性が、廊下の先から手を振っている。
「少しよろしいですか。昨日の件の確認を」
ルカは歩みを再開した。
記録室のことは、すぐに頭の端に押しやられた。過去の観測データに何の用があるのか、という疑問は浮かんだが、浮かんだままどこかへ流れていった。几帳面な研究者が資料を漁っているのだろう、という程度の解釈が、疑問の上に薄く重なった。
ドウが隣に並んだ。
「記録室、ですか」
ドウが言った。
ルカは振り返らなかった。
「聞こえていたんですか」
「廊下は響きますから、たぶん」
「そうですね。——まあ、調査とは関係ないでしょう」
「そうですかね」
ドウが言う。
「たぶん」
その「たぶん」が、いつものドウの語尾なのか、それとも何か別の意味を持っているのか、ルカには判断できなかった。判断しようとも思わなかった。担当者が待っている。
ルカは廊下を進んだ。
ドウの足音が、半歩後ろでついてくる。
廊下の突き当たり、担当者が待つ小部屋の前で、ルカは一度立ち止まった。扉の取っ手に手をかけようとして、ふと視線が廊下の奥へ向いた。
記録室の扉は、廊下の一番奥にある。
今は閉まっている。閉まっているのが当然だ。朝の九時に誰かが中にいるわけがない。
ルカは扉を開けた。
「失礼します」
担当者との打ち合わせは、十五分で終わった。
確認事項は少なかった。昨日の取引所での初期調査の内容、被害者リストの照合、ギルドとしての公式見解の確認。いずれも手短に済んだ。ミナト・ソウは几帳面な人物で、会話の無駄を好まない。ルカはそれを気に入っていた。
打ち合わせが終わり、担当者が退室した後、ルカは小部屋に残った。
茶室と呼ばれているが、実際には密談用の小部屋だ。四畳半程度の広さに、テーブルと椅子が二脚。窓が一つ、外の中庭に面している。確率値の表示はここでも機能しているが、部屋が小さいために浮遊する値の数が少なく、ルカとドウの間に数個だけが静かに漂っている。
取引所の乳白色の霞とは違う。ここの確率値は、ゆっくりと動く。
ドウは部屋の隅の椅子に座り、新しい茶を淹れていた。湯気が細く立ち上っている。
ルカは書類を整理しながら、次の行動を頭の中で組み立てていた。被害者への二度目の聞き込みは午後にする。その前に、昨日の証言を再度照合して、観測者バイアスの発生パターンを——
扉が、ノックなしに開いた。
「あ、いた」
顔を出したのは、確率師のイヅミ・カナという女性だった。三十代後半、ルカより少し年上で、ギルドでは古参の一人だ。ルカとは何度か同じ案件を担当したことがある。
「失礼します、少しいいですか」
「どうぞ」
イヅミは入ってきて、空いている椅子には座らず、テーブルの端に手を置いた。
「昨日の件、正式に受けたって聞きました」
「ええ」
「大変ですね。あれ、偽造でしょう」
「まだ確定ではありませんが、その可能性が高い」
「確率的には?」
ルカは少し考えた。
「七十パーセント以上、確率的には。ただし証拠がまだ足りない」
「なるほど」
イヅミが頷いた。それからドウの方を見て、軽く会釈した。ドウが茶から顔を上げて、穏やかに頭を下げる。
「ドウさんも一緒に?」
「証人として」
「そうですか。——ところで、零花さん」
イヅミの声のトーンが、わずかに変わった。
ルカは書類から顔を上げた。
「あなた、自分の確率を誰に読んでもらっているんですか」
ルカは答えた。
「証人の仕事は、私の確率を読むことではないですよ」
自分でも、少し速かったと思った。
イヅミが笑った。悪意のない笑いだ。
「そうじゃなくて。調査中に自分の確率を確認したい時、誰に頼んでいるのかって。ドウさんは証人として同行しているでしょうけど、それはあくまで依頼人や証言者の確率を観測するためですよね。あなた自身の確率は——」
「調査に必要な時は、適宜対処します」
「それって、誰かに頼んでいるってこと?」
「そういう意味ではなく」
ルカは書類に視線を戻した。
「確率師は、自分の確率が見えないという前提で仕事をします。それは私に限ったことではない。自分の確率を誰かに読んでもらうことが常に必要なわけではありません」
「まあ、そうですけど」
イヅミは少し考えるような顔をした。
「でも今回の案件は複雑でしょう。確率値の偽造が絡んでいるなら、あなた自身の確率も操作されている可能性があるわけで——」
「その点は、調査の中で対処します」
「具体的には?」
「具体的には、まだ検討中です」
ルカは書類をまとめた。それを机の端に揃えて置く動作は、話題を変えるためのものではなかった。そのつもりではなかった。ただ、書類を整理する必要があった。
「——ところで、昨日の被害者リストに、イヅミさんの知り合いはいましたか」
「えっと、一人だけ。ヤマモト・リンさん。同期なんです」
「その方の証言は昨日聞きました。今日も話を伺えますか」
「聞いてみます」
イヅミが少し安堵したような顔をした。話題が変わったことへの安堵か、それとも知人の件が調査に含まれているという安堵か、ルカには判断できなかった。
「では、午後に連絡します」
「お願いします」
イヅミが立ち上がった。扉に向かいながら、振り返った。
「——零花さん、無理しないでくださいね。あなたが倒れたら困る人が多い」
「倒れる確率は低いです、確率的には」
イヅミが笑って、出ていった。
扉が閉まった。
小部屋に静けさが戻った。中庭の光が窓から斜めに差し込んでいる。浮遊する確率値が、その光の中でゆっくりと動いている。
ルカは書類を手に持ったまま、しばらく動かなかった。
——自分の確率を誰に読んでもらっているのか。
問いは、もう消えていた。頭の中から。正確には、消えたというより、どこか別の場所に移動した。考えないようにしているわけではない。ただ、今は調査のことを考えなければならない。
「零花さん」
ドウが言った。
ルカは顔を上げた。
ドウは茶を持ったまま、部屋の隅から、いつもの眠そうな顔でこちらを見ていた。
「次の依頼の準備、確認しますか」
「そうですね」
ルカは書類を手に取った。
「午後の聞き込みの前に、昨日の証言を再照合します。観測者バイアスの発生パターンを整理して——」
「はい」
ドウが茶を一口飲んだ。
部屋の隅で、確率値が一つだけ、わずかに動いた。
ルカは気づかなかった。
書類の中に、次の調査の手順が並んでいる。被害者への聞き込みの順序、確認すべき証言の矛盾点、観測されない角度という仮説の検証方法。それらを頭の中で整理しながら、ルカは立ち上がった。
「では、始めましょう」
「そうですね、たぶん」
ドウが立ち上がる。空の茶器を棚に置いて、書類を一枚手に取る。その動作の中で、一瞬だけ、ドウの視線がルカの方向に向いた。
ほんの一瞬だ。
ルカはすでに扉に向かって歩いていた。
確率値が、消えていく。
一枚ずつ、剥がれるように。
路地の角を曲がるたびに、空中に浮いていた数字が薄くなる。87、43、92——それまで視界の端でせわしなく明滅していた光の粒が、ここへ来るほどに輪郭を失い、霞み、やがて完全に消える。確率値のない空気は、不思議なほど澄んでいた。看板の文字が鮮明に見えた。石畳の目地の形が、くっきりと見えた。取引所の大広間では確率値の光に遮られて気づかなかったものが、ここではすべて剥き出しになっている。
不便だな、とルカは思った。
「ここが盲区の境界ですね」
ルカは立ち止まり、視界の端を確認した。確率値がゼロ。完全に、どこにも、何も浮かんでいない。依頼人の確率も、通行人の確率も、自分の——いや、自分のはどこにいても見えないのだが——何も見えない。空白の視野が、奇妙な重さを持っていた。
「そうですね」
背後でドウの声がした。いつもと同じ、穏やかで少し眠そうな声だった。ただ。
ルカは振り返らなかった。振り返る必要もなかった。ドウはすぐ後ろを歩いているはずだ。いつもそうだ。証人は依頼人の斜め後ろを歩く。観測しやすい位置を、自然に選ぶ。
ただ、何かが、少し違った。
ドウの足音が、一歩だけ遅れた。境界を越えた瞬間に、わずかに——本当にわずかに——間があった。ルカは気づかなかった。気づかなかったというより、気にしなかった。石畳が少し段差になっていたのかもしれない。路地は古い。整備が行き届いていない場所は、取引所の中心部とは違う。
路地の奥から、食べ物の匂いが流れてきた。
何かを焼いている匂い。油と、香辛料と、少しだけ焦げた何か。取引所の周辺では嗅いだことのない匂いだった。確率値の光が視界を満たしている場所では、こういう匂いに気づく余裕がないのかもしれない。あるいは、確率値の光そのものが、何か別の感覚を塞いでいるのかもしれない。
「確率がないと、人はどうやって判断するんでしょうね」
ルカは路地の奥を見ながら、独り言のように言った。問いかけというより、考えが口から出た感じだった。
確率値のない世界で、人は何を根拠に動くのか。取引所では、すべての行動の前に数字がある。87%なら進む、23%なら止まる。誰もがそうやって動いている。でもここでは、その数字がない。飲食店の客たちは、何を見て今日の料理を選んだのか。何を信じて、ここに来たのか。
「直感、じゃないですかね」
ドウが答えた。「たぶん」という語尾が、いつものように後ろにくっついていた。
「直感」
ルカは繰り返した。あまり納得のいく答えではなかった。直感というのは結局、過去の経験の集積だ。何度も同じ状況に置かれた人間が、意識せずに最適解を選ぶ。それは確率的な判断を無意識に行っているだけで、確率がないとは言えない。
でも、それを今ここで言っても仕方がない。
ルカは路地をゆっくりと歩き始めた。盲区の内部に完全に入ったわけではなく、境界の手前を沿うように進んでいる。今日の目的地はもう少し先だ。盲区を通り抜けるルートが、最短距離だった。
路地の両側に、店が並んでいる。飲食店が多い。窓の向こうで、人々が黙々と食事をしていた。話している人もいるが、取引所の喧騒とは違う。静かだった。笑い声が、時々聞こえた。確率値の重さのない笑い声は、少し軽かった。
「あの人たち、確率が見えなくて不安じゃないんでしょうか」
ルカはまた独り言のように言った。
「どうでしょうね」とドウが言った。「不安かどうかは、見ればわかりますよ、たぶん。ただ、見えないですけど」
「確率が見えないから、見えない」
「そうですね」
「……それは当たり前のことを言っていますね」
「そうですね、たぶん」
ドウの声は変わらなかった。穏やかで、少し眠そうで、何かを考えているのか考えていないのかわからない声。ルカはため息をついた。
路地が少し広くなった場所で、ルカは足を止めた。盲区の飲食店の一つ、窓際の席に座っている人たちが見えた。三人組だった。年齢はバラバラで、共通点はよくわからない。ただ、全員が、肩の力が抜けた顔をしていた。取引所の周辺では、あまり見ない顔だった。取引所の近くにいる人間は、常にどこかに力が入っている。確率値を確認する目、数字を計算する頭、次の行動を選ぶ緊張感。それが、ここにはなかった。
確率に疲れた人間が、ここに来る。
ルカはそう思った。理解はできる。確率値を見続けることは、疲れる作業だ。特に、数字が自分の望む方向を示さない時。低い確率を前にして、それでも動かなければならない時。あるいは——高い確率があるのに、それが正しいとは思えない時。
確率が見えても、間違える。
ゴンの声が、一瞬だけ頭の中で響いた。昨日の笑い声の中の、あの一瞬だけの真顔。確率が全部見えてる世界で、一番怖いのはなんやと思う。
ルカは首を振った。ゴンの大言壮語だ。いつものやつだ。
「行きましょう」
ルカは歩き出した。目的地はまだ先だ。
「そうですね」
ドウが続いた。
二人は路地を歩いた。確率値のない空気の中を。看板の文字が鮮明で、石畳の目地がくっきりしていて、食べ物の匂いが流れてくる場所を。
ルカは、自分が今、確率値なしで歩いていることに気づいた。当たり前のことだ。自分の確率は、どこにいても見えない。でも取引所にいる時は、周囲の確率値が常に視界にある。依頼人の数字、通行人の数字、取引の数字。何かを見ていれば、何かの数字がある。ここには、何もない。
何もない視界で、足を動かしている。
それが、少しだけ、不思議な感触だった。
「確率がないと、人はどうやって判断するんでしょうね」
ルカはもう一度、同じことを言った。今度は独り言ではなく、ドウに向けて言った。
「さっきも聞きましたよ」とドウが言った。
「さっきは独り言でした」
「そうですか」
「今度は聞いています」
「直感、じゃないですかね」とドウが言った。「たぶん」
「さっきと同じ答えですね」
「そうですね」
ルカは少し考えた。直感。過去の経験の集積。確率的な判断の無意識化。でも——それだけではない気もした。確率値がない場所で、確率値なしに動く人間が、確率値のある場所の人間と根本的に違う何かを持っているとしたら。それは何だろう。
答えは出なかった。
「まあ、確率が見えた方が便利ですよね」
ルカは結論を出した。便利という言葉が、少し空虚に聞こえた。でも他に言葉が見つからなかった。確率が見えることは便利だ。判断が早くなる。失敗が減る。効率が上がる。それは正しい。
正しいはずだ。
「そうですかね、たぶん」
ドウが言った。
いつもの「そうですかね、たぶん」だった。同意なのか疑問なのかわからない、ドウらしい答えだった。ルカはそれ以上追わなかった。
路地が終わり、確率値が少しずつ戻ってきた。薄い光の粒が、空中に浮かび始める。誰かの確率値。何かの確率値。視界が、いつもの霞みを取り戻していく。
「やっぱり確率値があった方が落ち着きますね」
ルカは言った。本心だった。確率値のない視野は鮮明すぎて、少し疲れた。情報が多すぎる。看板の文字も、石畳の目地も、全部が等しく目に入ってくる。確率値がある時は、重要な数字だけが視界に飛び込んでくる。取捨選択が、自動的に行われる。
「そうですかね、たぶん」
ドウがまた言った。
今度は、ルカはドウの方を振り返った。ドウはいつもの穏やかな顔をしていた。少し眠そうで、何かを考えているのかいないのかわからない顔。
ただ、確率値が戻り始めた視界の中で、ドウの周囲の数字が一つだけ、わずかに動いた。
ルカは気づかなかった。
前方の路地の角から、取引所の方向のざわめきが聞こえてきた。遠くで、誰かが大声を上げている。いつもの取引所の喧騒だ。確率値の光が、視界に戻ってくる。
「次の依頼の準備をしましょう」
ルカは言った。歩調を速めた。
「そうですね」
ドウが続いた。
二人は取引所の方向へ歩き始めた。確率値が増えていく視界の中を。数字が乱舞する、いつもの世界へ向かって。
床が、いつもより濡れていた。
東側カウンターから北西エリアへ向かう途中、ルカは靴の裏で水を踏んだ。いつものことだ——誰かが確率値を見て驚き、手の飲み物をこぼす。それがこの取引所の日常だった。ただ今日は、こぼれた量がいつもより多かった。
大広間の喧騒が、途中から変わっていた。
正確に言うなら、喧騒の種類が変わっていた。取引の声、口論の声、誰かが数値に歓声を上げる声——そういう賑やかさではなく、人が固まって囁き合う、あの重い静けさに近い騒音になっていた。確率値の光が乱舞する視界の中で、北西エリアだけが妙な色をしていた。
「ルカさん」
ドウが後ろから声をかけた。茶を持ったまま歩いている。
「立入禁止のロープ、張られてますね」
「見えてます」
黄色いロープが、北西エリアの三つのカウンターを囲んでいた。取引所の運営スタッフが数名、被害を受けた確率師たちの対応に追われている。被害者たちは椅子に座らされており、その周囲の確率値が——
ルカは足を止めた。
浮遊する確率値は、通常、絶えず動く。人の感情に、取引の動向に、周囲の観測行為に反応して、常に揺れ、流れ、変化し続ける。それがこの世界の日常だ。
だが北西エリアの被害者たちの周囲では、確率値が均一に静止していた。
五十パーセント。
すべての数値が、五十パーセントで固定されていた。
フラット状態——運勢残高がゼロになった人間の周囲に現れる、あの均一な静止。何も特別に起きない。何も特別には終わらない。すべてが平均に収束した世界。
「三名、ですか」
ドウが静かに言った。
「残高消失が確認されているのは、今のところ三名みたいですよ」
「今のところ、ね」
ルカは視線を動かした。被害者の一人が、椅子の上で両手を膝に置いたまま、どこも見ていない目をしていた。フラット状態の人間に特有の表情だった——驚きも恐れも悲しみも、すべてが五十パーセントに均された顔。
「取引崩壊の規模は」
「七件、らしいですね。今朝の高額取引が全部」
「全部」
「全部、たぶん」
ルカはロープの外縁に沿って歩き始めた。被害者の周囲の確率値を観測しながら、頭の中で数値を並べていく。七件の取引崩壊。三名の残高消失。そして——
「誤読パターンを見ましたか」
「ちらっと」
「どう思いました」
ドウが一拍置いた。
「ルカさんはどう思いましたか、まず」
ルカは立ち止まった。
北西エリアの被害者が集中しているカウンターを、ロープ越しに見る。確率値の光が、そこだけ不規則に明滅していた——いや、正確には明滅ではなく、均一な静止が視界の中で異様に際立って見えるのだ。動かないものは、動くものの中で目立つ。
ルカは誤読パターンを思い出した。事件の第一報を受けた時、スタッフから聞いた数値の報告。複数の確率師と証人が、同一の取引対象を観測して、全員が異なる数値を読んだ。それ自体は珍しくない——観測者バイアスは常に存在する。問題は、その数値の分布だった。
「バイアスの方向が揃いすぎています」
ルカは言った。
「観測者バイアスが自然に発生した場合、誤読の方向はランダムになるはずです。高く読む人間と低く読む人間が、ほぼ同数出る。でも今回の報告を見ると——」
「全員、同じ方向にずれてますね」
「同じ方向に、同じ幅で」
ルカは声を低くした。
「偶然の誤作動では、こうはならない」
周囲の確率師たちが、ルカの声に気づいて視線を向けた。ルカは構わず続けた。
「誰かが意図的に確率値を操作した。特定の方向へ、特定の幅で。被害者たちが読んだ数値は、最初から歪められていた」
静寂が、北西エリアに広がった。
違う——正確には、静寂が広がったのではなく、周囲の喧騒がルカの言葉を飲み込んで、一瞬だけ密度を増した。確率取引所「ザ・オッズ」の大広間で、何百もの確率値がぷかぷかと浮遊したまま、この一角だけが静止したように感じられた。
運営スタッフの一人が、ルカを見た。
「……確率値の、偽造、ですか」
「確率的には、そういうことです」
ルカは静かに言った。
「これは事故ではありません。誰かが意図的に確率値を操作した——偽造です」
喧騒が、戻ってきた。
今度は種類が変わっていた。口論ではなく、囁きが波のように広がっていく音。確率値の偽造——確率師の職業倫理の根幹を揺るがす言葉が、取引所の大広間に放たれた。
ルカは被害者たちの周囲の確率値を、もう一度見た。五十パーセント。均一な静止。これが残高消失の結果だ——誰かが確率値を歪め、被害者たちはその歪んだ数値を信じて取引を行い、残高を失った。
「……確率的には」
心の中のツッコミが、口から漏れかけた。ルカは咳払いをした。
*確率的には、自分が読んできた確率値も操作されていたのでは——*
咳払いをもう一度した。
その考えは、今は必要ない。今は職業的な問題として処理する。確率の偽造という事実が目の前にある。それを調査するのが、確率師の仕事だ。個人的な恐怖は、後で引き出しの中にしまっておけばいい。
「ルカさん」
ドウが、後ろから声をかけた。
茶を一口飲む音がした。
ルカは振り返らなかった。
「何ですか」
「ああ」
ドウが言った。
穏やかな、いつもの声だった。
「これ割と大事になりますね、たぶん」
東側カウンターに戻ると、確率値の密度が少し落ち着いた。
北西エリアから離れるにつれて、大広間の喧騒は通常の種類に戻っていった。口論の声、取引の声、誰かが数値に驚いて飲み物をこぼす音。床の濡れた部分を踏まないよう歩きながら、ルカは定位置の椅子に腰を下ろした。
「お茶、淹れ直しますか」
ドウが棚の前に立っていた。
「いえ、結構です」
「そうですか」
ドウが自分の分だけ淹れた。湯気が細く立ち上がる。
周囲では、事件の話があちこちで始まっていた。確率値の偽造——という言葉が、取引所の空気に溶け込んでいくのをルカは感じた。噂が広がる速さは、確率値の動きよりも速い。
「七件の取引崩壊と、三名の残高消失」
ルカは言った。整理するために、声に出した。
「被害者全員が、同一の取引対象に対して同一方向・同一幅で誤読した。観測者バイアスの自然な発生では説明できない系統的な歪みがある」
「ですね」
「つまり、誰かが確率値を書き換えた」
「たぶん」
ドウが茶を一口飲んだ。
ルカはドウを見た。ドウは取引所の大広間を眺めていた。いつもの眠そうな目で、特に何かを見ているわけでもなく、ただ眺めている。
「あなた、今の発言に全然動揺していませんね」
「そうですか」
「普通、確率値の偽造と聞いたら驚くでしょう」
「驚きましたよ、たぶん」
「全然驚いた顔をしていませんでした」
「そうですか、たぶん」
ルカは息を吐いた。
ドウはこういう人間だった。どんな修羅場でも声のトーンが変わらない。北西エリアで被害者たちのフラット状態の確率値を見ている時も、ルカが「偽造です」と言い放った時も、周囲がざわめいた時も——ドウはただ茶を飲んでいた。
「割と大事になりますね、というのは」
ルカは言った。
「どの程度の『割と』ですか」
「うーん」
ドウが少し考えた。
「確率的には言いにくいんですが」
「確率師の証人が確率的に言いにくいことがあるんですか」
「ありますよ、たぶん。ルカさんの場合は特に」
「私の場合は特に、とはどういう意味ですか」
ドウが茶を飲んだ。
ルカは待った。ドウが何か続けるかと思って待ったが、ドウは取引所の大広間を眺めたまま、何も言わなかった。
「……ドウさん」
「はい」
「今の『ルカさんの場合は特に』というのは、どういう意味ですか」
「ああ」
ドウが振り返った。穏やかな目をしていた。
「なんでもないですよ、たぶん」
「なんでもないなら言わないでください」
「そうですね、たぶん」
ルカは額に手を当てた。この会話のどこかで確実に何かを言いかけて止めているのに、ドウはいつもこうだった。
「とにかく」
ルカは手を下ろした。
「確率値の偽造が事実なら、ギルドに報告する必要があります。そして調査を——」
「ギルドから連絡が来てますよ、たぶん」
ドウが穏やかに言った。
「え」
「さっき、スタッフの方が東側カウンターを探していたので。ルカさんに話があるって」
「なぜ先に言わないんですか」
「今言いましたよ」
「今言った、ではなく——」




