確率大陸「ヴェロシア」の物語
床が、また濡れていた。
誰かが飲み物をこぼした跡。今朝だけで三か所目だ。確率値が急に動いて驚いた人間が、手元のカップを取り落とす——それがこの取引所の日常だった。零花ルカは足元を一瞥してから、視線を正面に戻した。
天井から床まで、無数の数字がぷかぷかと浮いている。
乳白色に霞んだ大広間。確率値の光が重なり合って、視界全体がうっすらと発光しているように見える。「83」「47」「91」「12」——どれも他人の数字だ。ルカは毎朝ここに来るたびに同じことを思う。他人の数字は、よく見える。
「零花さん」
カウンターの向こうから、中年の男が声をかけてきた。額に汗をかいている。目が泳いでいる。手に持った書類が、微妙に震えている。
「今日の取引なんですが、確率値が——その、どうも数値が安定しなくて」
「見せてください」
ルカは書類を受け取った。男の周囲に浮いている確率値を、横目で確認する。「67」。悪くない。ただし、この数値は男が今この瞬間、書類を差し出すという行為の確率を示している。取引そのものの確率ではない。
「対象は何ですか」
「南市場の穀物取引です。今日の午後、大口の買い注文を入れようとしているんですが、確率値が読めなくて。証人を頼もうにも、今日は予約が取れなくて——」
男は取引所の奥の方をちらりと見た。証人席が並んでいる区画だ。確かに今日は混んでいる。
ルカは書類を一枚めくった。
「今、南市場の穀物取引に関わっている他の確率師の数は」
「え? え、と……たぶん、五、六人は」
「全員の確率値を観測すれば、傾向が見えます。一人の数値が不安定でも、五人の平均を取れば信頼性が上がる。それに——」
ルカは視線を上げた。大広間の北側、穀物取引の区画の方向に、いくつかの確率値が密集して浮いているのが見える。
「今日の午前中、南市場の買い注文に関わる確率値が全体的に上振れしています。他の誰かが同じ方向で動こうとしている。あなたが迷っている間に、先手を打たれますよ」
男の顔色が変わった。
「え、もう分かったんですか」
「確率的には、今動いた方がいいです」
短く言って、書類を返す。男は三秒ほど固まってから、「あ、ありがとうございます」と言い残して走っていった。走りながら飲みかけのカップを傾けて、床に少し零した。四か所目。
ルカは小さくため息をついた。
「早いですね」
隣から声がした。
算太ドウが、茶を一口飲んでいた。どこで淹れてきたのか、陶器のカップを両手で包むようにして持っている。眠そうな顔をしている——いつも眠そうな顔をしている——が、目は開いている。
「あの方、午後の取引、うまくいくといいですね、たぶん」
「あなたはさっきから何を観測していたんですか」
「いろいろ、ですよ」
ドウはまた茶を飲んだ。
ルカは視線を大広間に戻した。喧騒が続いている。口論の声、取引の確認を叫ぶ声、誰かが「ちょっと待ってください、確率が——」と言いかけて止まる声。確率値がぷかぷかと浮遊し続けている。
これが日常だ。確率取引所「ザ・オッズ」の午前十時。
「次の方、どうぞ」
ルカは次の依頼人に声をかけた。
今度は若い女性だった。二十代前半、目元が赤い。泣いていたのか、あるいは寝不足か。周囲に浮く確率値は「34」。
「あの、残高のことで相談したくて」
「残高ですか」
「最近、高確率の行動ばかりしていたら、残高がどんどん減っていて。このままだとフラット状態になりそうで——」
フラット状態。運勢残高がゼロになると、確率値が常に50%に固定される。何も特別には起きない。何も特別には起きない、ということが、この世界では緩やかな死として扱われていた。
「今の残高はどのくらいですか」
「証人さんに見てもらったら、あと——あと少しで」
女性の声が震えた。
ルカは少し考えた。残高の問題は確率師の専門というより、残高管理士の領域だ。ただ——
「一つ聞いていいですか。最近、高確率の行動ばかりしていたというのは、意識的にそうしていたんですか」
「は、はい。なるべく失敗したくなくて、確率の高い選択ばかりしてきました」
「それが残高を減らしている原因です」
女性が顔を上げた。
「高確率の行動は確実に成功しますが、残高の消費も大きい。逆に低確率の行動を成功させると、残高は爆発的に増える。あなたはずっと安全な道ばかり選んできた。だから残高が細った」
「じゃあ、どうすれば」
「一度、失敗してもいい選択をしてみることです。確率的には、そっちの方が長期的な残高は増えます」
女性は黙った。
「……失敗してもいい選択、ですか」
「確率的には、そういうことになります」
ルカは書類を一枚渡した。残高管理士の紹介状だ。詳しい計算は専門家に任せた方がいい。
女性は「ありがとうございます」と言って、今度は走らずに歩いていった。その背中を見ながら、ルカはふと思った。失敗してもいい選択。自分はそれを、どれだけしてきただろうか。
その考えは、すぐに消えた。次の依頼人が近づいてきていた。
「ルカさん」
ドウが、また声をかけてきた。
「さっきの方、よかったですね」
「どっちの方ですか」
「両方、たぶん」
ドウは茶を飲んだ。その動作の途中で、ほんの一瞬だけ、ルカの方向に視線を向けた。何かを確認するような動きだった。すぐに茶を飲む動作に戻った。
ルカは気づかなかった。次の依頼人が目の前に立っていたから。
大広間の喧騒は続く。確率値が乱舞する。床がまた濡れた。誰かが「え、もう分かったんですか」と言う声が聞こえた。
いつもの朝だった。
依頼人が三人続いた後、しばらく途切れた。
ルカは背もたれに少し体重をかけた。大広間の喧騒は続いているが、東側カウンターのこの一角だけは、相対的に静かだった。遠くで誰かが「確率値が——」と言いかけて止まる声が聞こえる。また誰かが驚いた。
「お疲れ様です」
ドウが、新しい茶を淹れていた。小さな棚の上に置いたポットから、細く湯気が立ち上っている。陶器のカップを二つ出して、一つをルカの方に滑らせた。
「ありがとうございます」
ルカはカップを受け取った。温かかった。取引所の中は、確率値の光のせいで視覚的には明るいが、温度は低い。カップの熱が手のひらに染みた。
「今日は早いですね、依頼が」
「月初めですから。みんな今月の取引計画を立てたくて来るんです」
「なるほど、たぶん」
ドウは自分のカップを両手で包んで、茶を一口飲んだ。
ルカも飲んだ。茶の香りが、確率値の光と混ざり合う奇妙な感覚がある。この取引所で働き始めた頃は、その感覚が不思議で仕方なかった。今は慣れた。慣れすぎたかもしれない。
「ルカさん」
ドウが言った。
声のトーンは変わらない。いつもの、穏やかで眠そうな声だ。
「ルカさんは、自分の確率を見たことがありますか」
ルカはカップを置いた。
「証人の仕事は私の確率を読むことではないですよ」
返答が出た。自分でも分かるくらい、速かった。
咳払いをした。
「それに、確率師が自分の確率を他者に読んでもらうというのは、証人の業務範囲の話であって——」
「そうですね、たぶん」
ドウは相槌を打った。
ルカは止まった。
「……今の私の返答、変でしたか」
「変ではないですよ」
「でも、なんか言いましたね、今」
「『そうですね、たぶん』と言いました」
「それは同意ですか、それとも——」
「どちらでもないですよ、たぶん」
ドウは茶を飲んだ。
ルカはドウを見た。ドウは大広間の方を向いていた。眠そうな顔のまま、確率値が乱舞する視界を眺めている。何を観測しているのか、あるいは何も観測していないのか、外からは分からない。
ルカは小さく息を吐いた。
「証人の仕事は、依頼人の確率を観測して証言することです。私の確率を読むことは業務に含まれていない」
「そうですね」
「ですから、その質問には意味がない」
「なるほど、たぶん」
「……なるほど、たぶん、というのは何に対してですか」
「いろいろ、です」
ドウは茶を飲み終えた。カップを棚に戻して、また新しいカップを出した。二杯目を淹れ始めている。この人は本当によく茶を飲む。
ルカはカップを持ち直した。
証人の仕事は、他者の確率を読むことだ。自分の確率は見えない——それはこの世界の法則であり、確率師も証人も例外ではない。自分の確率を知りたければ、証人に頼むしかない。それがこの世界のルールだ。
ルカはそのルールを、特に不満に思ったことはない。
——と、思っていた。
「ドウさん」
「はい」
「今の質問、なぜしたんですか」
ドウは少し間を置いた。一秒か、二秒か。
「なんとなく、ですよ。たぶん」
「なんとなく」
「確率師の方って、みなさん他者の確率を読むのが仕事じゃないですか。で、自分の確率はどうしてるんだろうって、ふと思いまして」
「そういう疑問なら、ギルドで聞いてください」
「ギルドで聞いたら、業務的な回答が返ってきそうで」
「私の回答も業務的でしたが」
「そうですね、たぶん」
ドウはまた「そうですね、たぶん」と言った。今度はどういう意味なのか。同意なのか、否定なのか、それとも別の何かなのか。
ルカはドウのことを、証人として雇って二年になる。優秀な証人だ。観測精度が高く、感情的なバイアスが少なく、依頼人への対応も丁寧だ。ただ、何を考えているのかが分からない。いつも飄々としていて、重要なことを雑談のように言う。
「次の依頼の準備をしましょう」
ルカは言った。
「午後に三件入っています。一件目は残高管理の相談で、二件目は——」
「ルカさん」
ドウが、また遮った。
「はい」
「さっきの依頼人、二人目の方ですが」
「残高が減っていた方ですか」
「はい。あの方に、失敗してもいい選択をしてみてください、と言いましたよね」
「確率的にはそれが正しいので」
「そうですね」
ドウは少し間を置いた。
「ルカさんは、失敗してもいい選択を、最近しましたか」
ルカは答えた。
「業務に失敗は許されません」
「業務の話ではなくて」
「確率的には——」
「確率的には、という話でもなくて」
ドウは静かに言った。
ルカは口を閉じた。
大広間の喧騒が、遠くから聞こえてくる。誰かが確率値を見て「え、こんなに?」と声を上げた。別の誰かが「だから言ったじゃないですか」と言い返している。確率値がぷかぷかと浮いている。他人の数字が、よく見える。
自分の数字は、見えない。
「……次の依頼の準備をしましょう」
ルカは繰り返した。今度は少し早口になった気がした。気のせいかもしれない。
「そうですね、たぶん」
ドウは茶を飲んだ。
その時、遠くのカウンターの方から、足音が近づいてきた。次の依頼人だ。ルカは姿勢を正した。
仕事に戻る。それが一番、分かりやすかった。
ドウは何も言わなかった。茶を飲みながら、大広間の方を向いていた。その視線がどこに向いているのか、ルカは確認しなかった。
「いらっしゃいませ」
ルカは次の依頼人に声をかけた。
午前十時十五分。ザ・オッズの東側カウンターで、いつもの仕事が続いていた。
「嬢ちゃん!」
声が来た方向を見る前に、確率値が三つ同時に揺れた。
ルカが振り返ると、中央通路の西端の柱の陰から、がっしりした体格の男が手を振りながら近づいてくるところだった。五十絡みの年齢で、首に下げた残高計測器は傷だらけ、革のベストの内ポケットには確率師組合の会員証らしきものが半分はみ出している。顔は日焼けして、笑い皺が目尻に深く刻まれていた。
博打屋ゴン。取引所の常連で、残高荒稼ぎ師として界隈では知らない者のいない人物だ。
ルカは即座に溜め息をついた。
「嬢ちゃんと呼ぶな、と何度言えば」
「いやあ、今日も仕事してるなあ」ゴンは全く聞いていなかった。「さっきの依頼人の件、遠くから見てたで。あれは鮮やかやったな。確率値をあの角度から読んだら、そう出るんか。なるほどなあ」
「あなたが感心する必要はありません」
「ほんまに冷たいなあ」ゴンは笑いながらルカとドウの隣に立った。ドウは茶を飲みながら軽く会釈した。「ドウさんも相変わらず飄々としてますな。こんな嬢ちゃんの隣でよう務まりますわ」
「そうですかね、たぶん」
「そうですかね、たぶん、て。ええなあその言い方。俺も使いたいわ」
ゴンは柱に背中を預けて、取引所の大広間を見渡した。天井から床まで確率値がぷかぷかと浮遊し、人々がその間を縫うように行き来している。誰かが数値を見て「あっ」と声を上げ、飲み物が床にこぼれた。いつもの光景だった。
「で、嬢ちゃん。今日は何の仕事してんの」
「調査の合間に通常業務です」
「調査?」ゴンは片眉を上げた。「また難しい依頼か。嬢ちゃんのとこに来る依頼って、なんでいつも面倒くさそうなやつばっかりなんやろ」
「面倒くさい依頼ほど確率師の腕が試されるので」
「かっこええな。俺には真似できんわ」ゴンは笑った。「俺の仕事はシンプルや。確率が低いとこに飛び込んで、生き残って、残高を増やす。それだけや」
「それだけ、とは言いますが、実際には相当な技術が要るでしょう」
「まあな」ゴンは少し胸を張った。「俺もな、ここまで来るのに色々あったんやで。最初の頃は残高がゼロになりかけて、本気でフラット状態になるかと思ったこともある」
「それは大変でしたね」
「大変やったで!」ゴンは急に声を大きくした。周囲の常連客が一瞬こちらを見て、すぐに自分の取引に戻った。「あのな、残高荒稼ぎで一番大事なのはな、嬢ちゃん——」
ルカは心の中で構えた。また始まる。
「タイミングや。確率が最も低いタイミングを見極めて、そこに全部ぶち込む。それだけで残高が一気に跳ね上がる。俺はこれで何度も危機を乗り越えてきたんや」
「なるほど」
「それだけやないで」ゴンは続けた。「場所も大事や。同じ行動でも、どこでやるかで確率値が変わる。取引所の中でも、エリアによって確率値の流れが違うやろ。あそこの北西エリアとか——」
ゴンの視線が一瞬、大広間の北西の方向へ向いた。
ほんの一瞬だった。すぐに戻ってきた。
「——あのエリアは確率値の流れが特殊でな、うまく使えば普通なら成立しない取引も通ることがある。俺はそういうのを体で覚えてきたんや」
「それは経験知として価値がありますね」
「やろ?」ゴンは満足そうに頷いた。「まあ、一番大事なのはな、嬢ちゃん——」
また一段声のトーンが上がった。
「誰も見てへん時に動くことやねん」
ルカは相槌を打とうとして、止まった。
「見られた瞬間に確率が変わるやろ。観測した人間の目が、確率値に影響を与える。せやから俺はいっつも、誰も見てへん角度から仕掛けんねん。これが俺の必勝法や」
「それ犯罪の説明では?」
ゴンは一瞬きょとんとして、それから大声で笑い出した。
「犯罪ちゃうわ! 合法的な残高荒稼ぎや! 嬢ちゃんは頭固いなあ!」
「誰も見ていない角度から仕掛ける、というのは、それ自体が不正の定義に近いと思いますが」
「細かいなあ!」ゴンはまだ笑っている。「要するに、確率値の死角を利用するってことや。合法的な範囲で、な。俺はルールの中でやってるで」
「ルールの中で、というのは信じますが」
「信じてくれるんか。ありがとう」
「ただ、あなたのルールの解釈が他者のルールの解釈と一致しているかどうかは、別の問題です」
「嬢ちゃん、それ怖いこと言うてるで」
ゴンは笑いながら、革のベストのポケットを叩いた。何かを確認するような動作だった。
「まあ、ええわ。俺の自慢話はこのくらいにして——」
そう言いながら、ゴンは少し声を落とした。
笑いのトーンが、ほんの少しだけ変わった。
「嬢ちゃん、一個だけ聞いていいか」
「何ですか」
「確率が全部見えてる世界で、一番怖いのはなんやと思う?」
ルカは答えようとして、止まった。
ゴンの顔が、笑い皺のまま、少しだけ真顔に近づいていた。目の奥が、いつもの豪快さとは違う光を持っていた。
「確率が見えないことでしょう」ルカは答えた。「不確実性は——」
「ちゃうわ」
ゴンは静かに、しかし確かに遮った。
「見えてるのに間違えることや」
沈黙が、一拍だけあった。
取引所の喧騒が遠くなるような、奇妙な一拍だった。
ゴンの目が、何かを見ているようで、何も見ていないような色をしていた。
それから、ゴンは笑い皺を全開にして、大声で笑った。
「まあ、俺には関係ないけどな! 俺はいつも正しい判断してるから! 知らんけど!」
「……今の発言、前半と後半で矛盾していますよ」
「細かいなあ!」
ゴンは笑いながら、また手を振った。
「ほな、俺はそっちの方に用があるから。また何かあったら声かけてや、嬢ちゃん」
「嬢ちゃんと呼ぶな」
「はいはい」
ゴンは笑いながら、人混みの中へ消えていった。大きな背中が確率値の光の中に溶け込んで、すぐに見えなくなった。
ルカはその背中を見送りながら、先ほどの一拍のことを考えた。
考えて——すぐに別のことで上書きした。
ゴンはああいう人だ。豪快で口が悪くて、たまに妙なことを言う。それだけだ。
ドウが茶を一口飲んだ。
ゴンが人混みに消えてから、しばらく経った。
取引所の喧騒は続いていたが、中央通路から少し離れた東側カウンターの一角は、相対的に静かだった。誰かが遠くで口論している声が、壁越しに低く届く。確率値が数個、ルカとドウの間でゆっくりと浮遊していた。
ドウが二杯目の茶を淹れていた。
湯気が小さく立ち上がる。茶の香りが、取引所の喧騒の匂い——汗と書類と、誰かがこぼした飲み物の匂い——の中に、細い筋のように混じった。
「ゴンさんの話、どこまで本当なんでしょうね」
ルカは、特に深い意味もなく言った。
ドウは茶を淹れる手を止めなかった。
「全部、じゃないですかね。たぶん」
「全部?」
ルカは少し驚いて振り返った。ドウは茶碗に湯を注ぎながら、相変わらず眠そうな顔をしていた。
「あの人、大言壮語が多いですが」
「そうですね」
「タイミングがどうとか、角度がどうとか。証拠もなく自慢するのが得意で」
「ええ」
「だから、話半分で聞いておくのが正解だと思いますが」
ドウは茶碗を持ち上げて、一口飲んだ。
それから、少し間を置いた。
「大事なことほど本当のことを言う人ですよ、あの人は」
ルカは、その言葉を聞いて、少し考えた。
「笑いながら、ですか」
「笑いながら」
ドウは取引所の中央通路の方向に、ゆっくりと視線を向けた。ゴンが消えていった方向だった。確率値が数個、その視線の先でぷかぷかと浮遊していた。特に注目すべきものは何もなかった。
「大事なことほど、軽い口調で言う人がいますよね。笑いながら、雑談みたいに」ドウは言った。「そういう人の話は、笑いで流すより、後でゆっくり思い返した方がいいことが多い気がします。たぶん」
「……それは、ゴンさんの話を真剣に受け取れ、ということですか」
「どうでしょうね」
ドウの視線が、中央通路から戻ってきた。茶碗をテーブルに置く。
「ゴンさんが笑いながら言ってたこと、いくつか覚えてますか」
「大体は」
「どれが一番、印象に残りましたか」
ルカは少し考えた。
「見えてるのに間違えることが一番怖い、という発言でしょうか。珍しく真顔になっていたので」
「そうですね」ドウは静かに言った。「あれは本当のことだと思いますよ、たぶん」
「ゴンさんが実際にそういう経験をしたことがある、という意味ですか」
「さあ」
ドウは答えなかった。
ルカは少し待ったが、ドウはそれ以上続けなかった。
「ドウさん、あなたは時々、核心に触れそうなことを言いかけて止まりますね」
「そうですか」
「そうです。今もそうです」
「気のせいじゃないですかね、たぶん」
「気のせいではありません」
ドウは少し笑った。眠そうな顔のまま、目尻だけが少し動いた。
「ルカさんは観察眼がありますね」
「確率師ですから」
「そうですね」
ドウはまた茶を一口飲んだ。
ルカは少しの間、ドウの横顔を見ていた。
ドウという人間は、不思議だと思う。
確率の証人として、ルカの隣でずっと仕事をしている。ルカが別の依頼人の確率を読む時も、ドウはそこにいて、補足の観測をして、穏やかな一言を添える。それが仕事だから。
でも、時々、ドウは何かを言いかけて止まる。
今日も、そうだった。「大事なことほど本当のことを言う人」という言葉の後、ドウは中央通路の方向を見た。その視線の先には何もなかった——少なくとも、ルカには何も見えなかった。
ドウには何かが見えていたのだろうか。
ルカはその考えを、取引所の喧騒と一緒に飲み込んだ。
考えすぎだ。ドウはああいう人なのだ。飄々としていて、核心をつくようで、実は何も言わない。それがドウのスタイルだ。
「明日の調査の段取り、確認しておきましょうか」
ルカは話題を変えた。
「そうですね」ドウは茶碗をテーブルに置いた。「被害者への聞き込みが残っていましたね」
「ええ。午前中に三人、午後に二人。記録も確認したいので、ギルドにも寄る必要があります」
「なかなか忙しいですね」
「確率の偽造は、放置できません」
「そうですね」
ドウは頷いた。それから、何かを確認するように、ルカの方向へ一瞬だけ視線を向けた。
ほんの一瞬だった。
すぐに茶碗に視線を戻した。
ルカは、その視線の動きに気づかなかった。明日の調査の段取りを頭の中で整理していたから。
「ドウさんは、確率の偽造がどこまで広がっているとお思いですか」
「さあ」ドウは言った。「俺には分かりません。たぶん」
「分からない、ですか」
「俺は証人ですから。観測はできますが、推論はルカさんの方が得意です」
「謙遜しすぎです」
「そうでしょうか」
ドウはまた、少し笑った。
取引所の喧騒が、少しだけ高まった。どこかで誰かが大きな取引を成立させたらしく、歓声が上がった。確率値が一斉に揺れて、視界がしばらく霞んだ。
ルカはその霞の中で、ゴンの言葉をもう一度思い返した。
見えてるのに間違えることが一番怖い。
確率師として、その言葉の意味は分かった。確率値が見えていても、それを読み違えることはある。観測者バイアスがあるから。感情が判断を歪めるから。確率値は正確でも、それを受け取る人間が不正確だから。
ゴンは、経験からそれを知っている。だから怖いと言った。
それだけのことだ。
ルカは、その結論に満足した。
「では、明日は早めに出発しましょう。ギルドが開く前に、被害者の一人に話を聞けるかもしれません」
「了解です」
ドウは立ち上がった。荷物をまとめる動作をしながら、ふと、また中央通路の方向を見た。
ゴンが消えていった方向。
確率値が数個、その方向でぷかぷかと浮遊していた。
ドウは何も言わなかった。
「では、今日はこれで」
「お疲れ様でした」
二人は東側カウンターを離れた。取引所の喧騒が、背後で続いていた。確率値が乱舞し、誰かがまた飲み物をこぼした。床が濡れる音が、遠くから聞こえた。
いつもの日常だった。
ただ、遠くの方で、取引所の使者が走ってくるのが見えた。
ルカは、その走り方が少し急いでいることに、気づいた。
石造りの廊下は、朝でも薄暗い。
窓の位置が悪いのか、設計者が意図的にそうしたのか、ギルドの内部は常に昼でも夕方のような光の中にある。確率値の光がその代わりを果たしていた——壁に積み重なった書類の隙間から、数個の値がぷかぷかと漂っている。取引所の乳白色の霞とは違う、落ち着いた光だ。
零花ルカは廊下の奥へ向かって歩きながら、その光を横目で追った。
隣を歩く算太ドウは、いつもより半歩後ろにいる。茶を飲み干した後の空の器を片手に持ったまま、眠そうな顔で廊下の天井を見上げている。特に何かを見ているわけではないと、ルカには分かっていた。ドウが天井を見る時は、たいてい何も見ていない。
「今日は報告だけですか」
「そうです。昨日の聞き込みの整理と、調査方針の確認を」
「なるほど」
ドウが言う。何がなるほどなのかは、問い返す気にならなかった。毎回そうだ。ドウの「なるほど」は返事のようで返事ではなく、相槌のようで相槌でもなく、ただそこに置かれる。
ルカは視線を前に戻した。
廊下の先、左右から書庫が迫るように壁を埋め尽くしている区画に差し掛かると、確率師たちの声が聞こえてきた。複数の会話が石の壁に反響して、どれがどの声か判別しにくい。ギルドの朝の風景だ。誰かが常に何かで揉めている。確率値の解釈か、依頼の引き受け拒否か、あるいは先週の計算ミスの責任の所在か。
ルカはその声の流れの中を歩き続けた。
「——零花さん、おはようございます」
廊下の途中、書庫の入口近くに立っていた確率師が声をかけてきた。三十代前半、眼鏡をかけた男性で、ギルドの中堅どころだ。名前はたしか、リュウ・ケンといった。
「おはようございます。今日も早いですね」
「ええ、昨日の案件の後処理が。——ところで、昨日の取引所の件、もう調査に入っているんですか」
「依頼を受けました。まだ初期段階ですが」
リュウが少し安堵したような顔をした。




