第66話:失われた舌、酸味の覚醒 ――味蕾の夜明け、黒き毒を洗う――
北京の廃墟に、夜が訪れた。
黒曜が去った後、蓮たちは瓦礫を集め、即席の竈を組んでいた。
一ヶ月後に行われる、皇太后の御前での「満漢全席」勝負。だが、相手の舌は黒曜の毒によって麻痺している。どんな山海の珍味を並べても、味が分からなければ意味がない。
「……黒曜の言っていた毒、おそらく神経を麻痺させる重金属系の薬物だ」
乾が、砂漠で培った毒物の知識を総動員して呟いた。
「……舌の表面に、膜を張るようにして味覚を遮断している。ただ甘い、美味い、では突破できない」
「……だったら、無理やりその膜を引っぺがすしかないな」
燕が腕を組み、不敵に笑う。
「……四川の辣(辛味)じゃ刺激が強すぎる。必要なのは、酸――つまり、酸味だ。それも、ただ酸っぱいだけじゃない、胃袋を内側から掴むような、猛烈な酸味」
「……酸味か。……お酢(黒酢)だな」
蓮が、腰の鉄片を抜き、月明かりに翳した。
「……でも蓮、普通のお酢じゃ、黒曜の毒には勝てないよ」
リンが、暗闇の中で鼻をひくつかせる。
「……もっと、鼻の奥がツンとして、涙が出るくらい濃くて……でも、お砂糖みたいに甘い匂いが必要」
蓮は静かに目を閉じた。
かつて山西で、泥にまみれた鉄片を手にした時の感覚。四川で、火を恐れずに唐辛子を焼き、香りを爆発させた時の感覚。そして砂漠で、干し牡蠣の命を砕いた時の感覚。
それら旅の記憶すべてが、蓮の脳裏で一つの答えへと収束していく。
「……よし。……黒酢を、鉄片で煮詰める」
「……何ッ!? お酢を煮詰めるのか?」
乾が驚きの声を上げた。
「……ああ。……普通に火にかければ、お酢の酸味(揮発成分)は飛んでしまう。……だが、熱した鉄片を直接、黒酢の中に叩き込めばどうなる」
蓮は、竈の強火で山西の鉄片を限界まで熱した。
鉄が、赤黒い熱を帯び、闇の中で脈打つように光る。
蓮は、それを一滴の水も加えない、純粋な中国黒酢の入った小さな鉄鍋の中に、一気に叩き込んだ。
凄まじい蒸気が立ち昇り、廃墟全体に、鼻を突くような、しかしどこか芳醇な黒酢の香気が充満した。
「……くっ、目が、鼻が痛い……!」
燕が顔を背ける。
「……いや、待て! 鼻の奥が……開いていく!」
乾が目を見開いた。
蓮がやったのは、酢の水分だけを一瞬で蒸発させ、酸味のアミノ酸と糖分を、焦がす寸前で「凝縮」させる荒技。
ドロリとした、漆黒の液体。
蓮はそこに、リンが市場の片隅で見つけてきた「野生の山査子」の実を潰して投入した。
『黒酢と山査子の覚醒液』。
蓮はそれを、小皿に一滴垂らし、仲間たちの前に差し出した。
「……毒は食っていないが、旅の疲れで鈍っているお前たちの舌で、試してみてくれ」
燕が、恐る恐るその漆黒の液体を舌に乗せた。
乗せた瞬間、彼女の身体がビクリと跳ねた。
「……ッ!? ぁ、酸っぱい! ……なのに、甘い! ……なんだこれ、唾液が、止まらない……!」
燕の喉が、猛烈に鳴った。
強烈な酸味が、舌の細胞を強引に拡張させ、山査子の果実味が、後から押し寄せる唾液と混ざり合い、強烈な「飢え」を誘発させる。
「……これなら、いける。……どんな毒の膜も、この酸が焼き切る!」
乾が、興奮を隠せずに叫んだ。
蓮は、手元の黒酢のソースを見つめた。
(……よし。……舌の夜明け(リブート)は、これでいける。……あとは、この後に続く『満漢全席』の本体だ)
一ヶ月後。
紫禁城、満漢全席の御前試合。
黒曜の「毒の支配」を、蓮たちの「酸味の夜明け」が、力ずくでこじ開ける準備が整いつつあった。




