第二十二話 不意打ち
一週間は何事もなく平穏な時間が流れた。
秋水の女将が振る舞う鶏の刺し身と香ばしい炙り焼きに火鍼は目を輝かせ、さゆみは相変わらず菫の無防備な仕草に視線を泳がせ、砌は露天風呂を存分に満喫した。
沼地への立ち入り禁止令は徹底され、菫と砌の手によって重厚な結界も張り巡らされた。村全体を覆う二重の守りは盤石に見え、一行の警戒心も少しずつ緩んでいく。
そして、滞在最終日の朝。
「いやあ、結局何も起きなくてよかったっすね!」
さゆみが旅の荷物を背負い直し、すっきりと晴れ渡った空を見上げて笑う。
「ああ。氷鬼の奴も、あの怪我じゃそう簡単に動けねえはずだからな」
砌が肩を竦め、一行は村長や女将に見送られながら村の入口へと歩みを進めた。
「鶏料理も美味しかったし、温泉も最高でした! さあ、次の目的地へ出発ですね!」
火鍼が満足げに頷き、先頭を切って歩き出す。そのすぐ後ろを菫が穏やかな笑顔で続いていた。
まさに、村を離れようと一歩を踏み出したその時だった。
気配も、風の揺らぎすらもなく。
砌の察知結界も、菫の魔防結界も、何一つ反応しなかった。
「危ない危ない、入れ違いになるところだったよ」
耳元で囁かれた艶やかな声に、全員の背筋が凍りつく。
気付けば菫のすぐ背後に、妖艶な雰囲気を纏った一人の女が立っていた。菫の細い首筋には、ひんやりとした冷気を放つ刃がすっと這わされている。
「なっ……!?」
火鍼とさゆみが咄嗟に武器へ手を伸ばそうとした瞬間、女は言葉を発することなく、ただその濡れたような瞳で二人を射抜いた。
“動くな”
雄弁すぎるほどの眼光と、僅かに菫の首皮を撫でる刃の圧迫感。少しでも動けば命はないと、その場にいる全員へ無言の圧力が叩きつけられた。
「菫……!」
砌の目が険しく光る。結界を完全にすり抜けて背後をとるほどの手練れ。色香を漂わせるその女は、薄く笑みを浮かべたまま一行を優越感に満ちた視線で見つめていた。
「……ていうのは冗談だよ。本気にしないでおくれ。くふふふ……」
そう言って女は得物を鞘へと納め、菫を解放した。
さゆみが前に出て盾となり、火鍼が菫の肩を抱くようにして受け止める。
「あたいは鷹鬼っていうさね。高い所から見下ろして、標的を瞬殺するのが大得意。以後お見知りおきを」
「その鷹鬼さんが何用なんだ?氷鬼を痛めつけた仕返しってわけじゃあないんだよな?」
砌がめずらしくどすを効かせた声で訊ねる。
「ええ。氷鬼さんが癇癪を起こして凍らせた妖精さんなんやけど、解凍するのに時間がかかってねえ……五体満足ありのままの姿で元の場所に返しましたよって伝えたかったんです」
妙に色気のある声音と仕草に、砌以外の三人娘たちは圧倒されていた。
「み、砌さんは渡しませんよ!」
「そ、そうです!私だって負けてないんだから!」
「さゆみはこれからっす!」
「……お前ら何か別のことで張り合ってないか?」
緊張感のない三人娘に呆れた砌は、見るからに敵対心のない相手に警戒するのがアホらしくなってしまった。
「それで、何か頼み事でもあるのかい?」
「いやいや、なんもないよ。本当に顔見知りになっておきたかっただけさね。……強いてゆえば、初代影鬼の人柄を知りたかったってところかね。くふふふ」
花魁風の衣装を肩をはだけて着流して、左の御御足を大胆に見せるように立つ高鬼は妖しく笑い、御暇しようと砌たちに背を向ける。
「用はすんだので、あたいは帰るさね。……氷鬼の件はすまなかったね」
鷹鬼は振り向き前を向いた瞬間、目で追えぬほどの跳躍で空高く飛び上がって、視界から消えていった。
四人は鷹鬼の気配が完全に消えたのを待って息を吐いた。
「びっくりしたあ〜」
さゆみは完全に気が抜けて、ぺたんとその場にへたり込んだ。
「菫、ほんとにどこもケガしてないですか?」
「うん、確認したから大丈夫」
魔法に探知されない物もあるかもしれないからと、火鍼が念入りに服の中を確認している。
「ああも簡単に察知を掻い潜られるとは不覚の極み……菫に何もなくてよかった」
砌の言葉に耳まで赤くする菫を見て、火鍼とさゆみはからかいはじめる。
「へえ、砌さんに心配されたことがうれしいんだあ〜」
「じつに不謹慎ですねえ〜」
「な、なによ、仲間として心配してもらえることは嬉しいことなんだから、普通よ! そう、普通!」
菫はからかわれるのに慣れていないようで、仲間として当然の反応をされただけと、めいいっぱい照れたことへの弁明にはならなかった。
「まずは鷹鬼の話が本当か沼地に行ってみなきゃなあ。それで、本当だった場合は村長に報告に戻るってことでいいかい?」
「はい、そうするっす!」
「妖精さんのお姿を拝める日が来ようとは! 期待大ですよこれは!」
「また菫の変態思考が始まりました……とほほです」
「ふふっ、菫お姉ちゃんは可愛いものに目がないっす」
「そうだよー。だから、さゆみちゃんに抱きついちゃうのです! すーはーすーはー! うーーん!」
「ふぎゅ! うぷぷ、た、たすけ……」
さゆみを正面から抱きかかえて「ただいま可愛いを補充中!」と言ってさゆみの匂いをかぎまくる始末。そんなご乱心な菫が、さゆみを圧迫死させないか不安しかない砌と火鍼は、さゆみの救出に時間を取られたのだった




