女子高生幽霊・2
神代との話を終え、橘平は自分の部屋へと戻ってきた。
古びた廊下を歩き、見慣れ始めた二〇五号室の前で足を止める。
上着のポケットから鍵を取り出し、鍵穴へ差し込む。カチャリ、と小さな金属音が響いた。
「ただいまー」
扉を開けた瞬間、橘平はピタリと固まった。
「……ん?」
今、俺は何を言った?
扉を開けた先に「ただいま」と言っても、誰も待っているわけではないのに。
一人暮らしを始めたのはつい昨日のことで、この部屋に帰ってきて「ただいま」なんて言ったことは一度もない。
なのに、何故か自然と口から漏れていた。
「……俺、なんでただいまって言ったんだ?」
自分で自分に呆れながら、靴を脱いで部屋の中に入る。
古い床板はギシギシと軋んで、変わらずいつか抜けるんじゃないかとヒヤヒヤする。
「…………」
何の変哲もない五・五畳の殺風景な部屋が広がっているだけ。
実家を飛び出して逃げ込んだオンボロアパートらしい質素な部屋だ。
カーテンはないはずなのに電気をつけても薄暗い辺り、陰鬱な空気が漂っている。
――ただ。
「……あれ?」
静かなだけで何らおかしな部分があるわけではないのに、何かが足りない気がする。
橘平は部屋中へ視線を走らせ、その違和感の正体を探そうとした。
畳の上。
窓際。
狭い台所。
「いない」
しんと静まり返った室内を見渡して、思わず呟いていた。
別に、探す義務なんてない。相手は幽霊だ。好きな時に消えて、好きな時に現れるのだろう。
第一、出会ったのは昨日だ。初対面でもなければ知り合いでもなく、何故か入居した部屋に住み着いていて、何故か同居するしかなくなっただけ。
なのに――。
「何処行ったんだよ」
気がつけば、自然と足が動いていた。
部屋の隅を覗き込み、冷蔵庫やらレンジの中まで確認する。
「おーい」
部屋中隈無く探して声を掛けても、返事はない。
ぎこちなく喉から絞り出されるノイズ混じりのあの短い声すらない。
本当に、この部屋には自分一人しかいないのだという錯覚が起き始めた。
「…………」
胸の奥が、なんだか妙にざわつく。
「いやいや。何心配してんだ俺」
幽霊なんだから、今更事故に遭うわけでも迷子になるわけでもない。
と言うより、幽霊なんて言う存在は摩訶不思議なもので、自分が見た幻覚かもしれない。存在を証明できないくらい曖昧なのだ。
だから、どれだけ探したとて幻覚であれば何処にもいない、そう自分に言い聞かせながら振り返る。
そして――。
「……あ」
視線が、部屋の隅の押し入れで止まった。
昨日、初めて彼女を見つけた場所。襖が、指一本分だけ開いている。
まさか。
半信半疑に思いながらも橘平は足音を殺してゆっくり近づき、襖に手を掛けた。
「いるかー?」
すっと開けると、籠もっていた木の匂いが鼻腔を擽る。
薄暗い押し入れの中は、布団も何も入っていない空っぽの空間だ。
しかし、目を凝らせば、その奥には――。
「…………」
小さく膝を抱えるようにして座り込んでいる、少女の姿があった。
「あ、いた」
押し入れの奥で小さくなっていた少女がゆっくりと顔を上げる。
薄っすらと涙を浮かべ、何かに怯えた様子の彼女の目と目が合った。
「う……」
「何してんの?」
押し入れの中を覗き込むようにして口にした橘平の問いに、蹲ったままの少女は何も答えない。
ただ、少しだけ気まずそうに、申し訳なさそうに視線を逸らした。
橘平はそんな彼女の様子を見て、思わず肩の力を抜いて苦笑する。
「もしかして、ここがお気に入りなのか?」
「う」
「そっか」
昨日までなら、「幽霊が押し入れに潜んでいる」という事実にただ怯えていただけだったはずだ。
なのに、今は――彼女がここにいてくれたことに、何処か少しだけ安堵している自分がいた。
橘平は押し入れの中に座り込んでいる少女へ、そっと手を差し出す。
「ほら、出ておいで」
「……う?」
「いつまでもそんな狭いところにいたら、窮屈だろ」
少女は差し出された手を見つめる。けれど、触れることはできない。
代わりに、ふわりと身体を浮遊させるようにして、押し入れからすり抜けてきた。
「便利だな、それ」
「う」
「いや、褒めてんだよ」
少女は何処か得意げに、少しだけ目を細める。
昨日と同じように、二人で畳の上に向かい合って座った。
橘平はノートを広げ、ペラペラとページを捲る。少女はその動きを興味深げに眺めていた。
やがて開いたページを少女に見えるように畳の上に置く。そこには昨日作った五十音の文字盤と、「はい」「いいえ」の文字。
橘平はその中央に財布から取り出した十円玉を置いた。
「じゃあ、改めて確認な」
橘平は少女の目を真っ直ぐ見て、そっと囁くように問うた。
「君は、この部屋に住んでる幽霊ってことでいいんだな?」
「…………」
少女は十円玉へ視線を落とし、それから薄く目を閉じた。
その様子を横目で見ながら橘平が指先を添えると――十円玉がゆっくりと畳の上を滑り始める。
すぅ……。
十円玉は、「はい」と書かれた場所でぴたりと止まった。
「……おお」
昨日は偶然かと思っていたが、こうして見せられるとやっぱり間違いない。
「本当に幽霊なんだな……」
「う」
「そこはあっさり認めるのか」
何もおかしなことは言っていない。そう言いたげな少女は、少しだけ首を傾げた。
橘平はそんな彼女を見つめながら、ふと思う。
「……でもさ」
「う?」
「いつまでも『君』とか『お前』って呼ぶのも、なんか味気ないよな」
名前を知らないのだから当然なのだが、昨日からずっと呼び方に困っていた。
それに、これから一緒に暮らしていくのだとしたら――。
「名前がないと、何かと不便だし」
「…………」
「名前、分かるか?」
少女は少し考えるように首を傾げる。しかし、予想通り彼女の頭の上には「?」がくっきりと浮かんだ。
「じゃあ……自分の名前、覚えてる?」
その問いを口にすると、長い前髪に隠れた少女の表情が、ほんの少し陰ったような気がした。
それから指を添えたままにしていた十円玉が、ゆっくりと動き出す。
橘平は息を呑んで、その行き先を見つめた。
「……?」
けれど、十円玉は「はい」にも「いいえ」にも向かわない。
文字盤の中央付近で立ち尽くすように止まり――ほんの少しだけ、震えた。
「覚えてないのか?」
少女は答えず、何処か寂しそうに伏し目がちになっていた。
「そっか」
橘平はそれ以上、追及しようもなく押し黙った。
代わりに、頭を掻きながら笑ってみせる。
「じゃあさ、俺が名前を付けてもいい?」
十円玉から指を離しながら何気なく呟いてみると、少女がパッと顔を上げた。
想像以上に少女が反応を見せるものだから、橘平は大袈裟に身を仰け反らせる。
それから、少し照れくさそうに鼻の下を指で擦った。
「ずっと『君』なんて呼ぶのも距離があるしさ。せっかく同じ部屋で暮らすんだから」
そう言って、橘平は腕を組んだ。
「うーん」
しかし、いざ名前をつけるとなると、これが想像以上に難しい。
相手は幽霊。だが犬や猫ではなく、一応は人の姿をしているのだから、安易に名前をつけるわけにはいかない。
「名前……名前なぁ」
少女は膝を抱えたまま、じっと橘平の顔を見つめている。
その目に希望と喜びが滲んでいることなど、考え込む橘平が気づくことはない。
「何か希望とかある?」
「う?」
「だよな。喋れないもんな」
「う……」
「いや、責めてないって!」
幽霊のネーミングライツを獲得するなんて、人生で一度もない経験だ。
世界中の何処を探しても、幽霊に名前をつけようとしているのは橘平くらい。
まずまず、幽霊が見えている時点で摩訶不思議な状況だが、その事が橘平の頭の中からすっかり抜け落ちていた。
「女の子らしくて、呼びやすい名前……」
そう呟きながら、橘平はシャープペンを握り直し、ノートの余白に思いついた名前を書き連ねていく。
「うーん『花子』はベタすぎるし、『幽子』は失礼だしな」
あれやこれや思いつく限り書き殴っていると、少女がノートを覗き込んできた。
見るからに元は学生だったようだから文字は読めるはずだが、ノートに並ぶ文字を見る目からは何の感情も感じられない。
その代わり、畳の上に広がる長い長い髪が時折ふわりと舞い上がったり、垂れ下がったりと動く。
まるで犬が感情の起伏に合わせて尻尾を振るようだ。
「さて、どうしたもんかな」
しばらく、橘平はノートと睨めっこを続けていた。
「……さくら、ゆき、あかり……」
思いついた名前をいくつか書いては、しっくり来ずに首を捻る。
橘平が首を捻れば、少女もまた真似て首を捻った。
「なんかどれも違うんだよなぁ」
少女は隣からノートを覗き込み、紙面に並んでいく文字を眺めている。
「そもそも、俺が勝手につけていいのか?」
「う?」
「いや、君が覚えてないって言うからさ」
少女は首を傾げ、何度目か分からない「?」を頭の上に浮かべた。
橘平はシャープペンを指先でくるくる回しながら、ふと部屋を見渡す。
古びた畳。
年季の入った柱。
少し黄ばんだ襖。
そして、足元に転がった部屋の鍵。
「…………あ」
そこで、橘平は何かを思いついたように顔を上げた。
「そうだ」
「う?」
突然ペンを放り投げて上げた橘平の声に、少女はビクリと身体を震わせる。
当の橘平は、足元に転がしていたこの部屋の鍵を手に取った。
そこには、部屋番号の「二◯五」という数字と共に、掠れた文字が書かれている。
『よいまち荘』
今だ隣人と顔を合わせておらず、何故か幽霊が住み着いている不思議なアパート。
橘平はノートの端に、その文字をサラサラと書き走らせた。
「……よいまち」
名前からして怪しいアパートの名前を改めて口の中で転がす。
「宵の街……宵……」
そこで、ふと少女へ視線を戻した。
顔全体を前髪で隠していて何を考えているのか分からない。だが、ずっと彼女からの視線を感じていた。
「『ヨイ』ってのは、どうだ?」
「……?」
「このアパートの名前から取っただけだけどさ。ほら、語感も可愛いし、二文字で呼びやすいだろ」
なんとも安直な理由だった。
我ながら、もう少し捻ったネーミングはなかったのかとも思う。
「嫌なら別の考えるけど」
そう言って、橘平はノートの十円玉へ指を添えた。
「『ヨイ』でいいなら、『はい』のところまで動かしてくれ」
少女はしばらく十円玉をじっと見つめた。
やがて――。
すぅ……。
十円玉が、ゆっくりと滑り出す。橘平は固唾を呑んで、その行方を見守った。
そして、十円玉は、「はい」の文字の上でぴたりと止まった。
真っ直ぐとそこまで動くものだから、橘平は思わず十円玉から指を離してしまった。
「えっ、本当にこれでいいのか?」
「う!」
少女が嬉しそうに、小さく跳ねるように頷く。
長い髪の毛がフワフワと空中を漂っていて、何故か腕やら足やらに絡まっていているが気づかないふりをしておこう。
「そっか。じゃあ、決まりだな」
ノートの余白に、今度は大きく、ハッキリと書く。
『ヨイ』
「今日からお前の名前は、ヨイだ。よろしくな、ヨイ」
「う!」
元気よく返ってきた声に、橘平は少しだけ目を細める。
「なんか、不思議な感じだな」
「う?」
「昨日まで名前すら分からなかったのに、今日から名前で呼ぶんだからさ」
ヨイは嬉しそうに、もう一度だけ大きく頷いてみせた。
これだけ無邪気な反応を見せられると、これ以上深く考えることも馬鹿馬鹿しくなる。
「……まあ、いっか」
橘平はシャープペンをノートの上に置き、大きく身体を伸ばす。
こうして――名前すら失っていた幽霊の少女に、新しい名前が与えられた。
ヨイ。
それは、彼女が留まり続けていた場所から取っただけの、何処か素朴で温かい名前だった。
「ヨイ」という名前が決まったことで、なんとなく場を包んでいた緊張感が解けた。
橘平はノートをパタンと閉じ、改めて部屋の中を見渡した。
「……さて」
「う?」
「これからどうするか、だな」
五・五畳の畳の上には何もない。昨日から使っているリュックと、最低限の着替えが入った袋が転がっているだけだ。
「まず、布団がない」
「う」
「あと、カーテンもない」
「う……」
「テーブルはあるけどちゃぶ台くらいはここに欲しいな。食器もないし、冷蔵庫はあるけど中身は完全に空っぽ」
「うぅ」
指折り数えていくと現実が重く伸し掛かってきて、思わず深く溜息を吐いた。
「家具どころか、まともに生活できる状態じゃねぇな」
ヨイは部屋をキョロキョロと見回したあと、何処か気まずそうに橘平を見上げた。
やはり何処となく拾ってきた子犬を彷彿とさせる。あんまり切なげな顔を向けられると、そんなつもりはなくても虐めているようで居た堪れない。
「いや、お前のせいじゃないっての」
「う」
「だからそんな申し訳なさそうな顔すんなって」
どうやら彼女は、自分が居座っていた部屋の惨状に責任を感じているらしい。幽霊の割に、妙なところで律儀だ。
「まあ、俺も最初から豪華に揃えるつもりはなかったしな」
財布を開き、中身を確認する。
扉という扉は閉め切っているはずなのに、隙間風が橘平の身体を冷やした。
「……いや、買えないが正解か」
大学入学を控え、ただでさえ資金繰りはカツカツだ。だからこそ、この格安の事故物件アパートを選んだのだから。
「とりあえず、今日のところは布団とカーテンだな」
「う?」
「俺が寝る場所と、外からの目隠し」
橘平が自分を指差してから、ふとヨイを見る。彼女は幽霊だ。そもそも眠る必要があるのだろうか。
「お前って、夜寝るの?」
何気なく思って問うてみると、相変わらずヨイは理解しているのいないのか首を傾げる。
つられて橘平も首を傾げた。
「寝ないのか?」
「う」
「便利だな、幽霊」
「う……!」
「だから褒めてるって」
ヨイが不満そうに少し頬を膨らませる。
慌てて弁解して、開けっ放しの財布を閉じるとリュックを引っ掴んだ。
その場から立ち上がってリュックを背負うと、ヨイの方へと振り返る。
「とりあえず、俺は買い出しに行ってくる。その間、ヨイは――」
そこで橘平は言葉を詰まらせた。
ヨイは畳の上にちょこんと座り、じっと橘平を見上げている。
「……留守番、できるか?」
「う!」
「じゃあ、行ってくる」
「う」
靴を履き、部屋を出ようとしたところで、橘平はふと足を止めて振り返った。
「……ヨイ」
「?」
「その……」
昨日までなら、誰もいない部屋に声をかけることなんてなかった。
実家にいた頃も、学校から帰れば母にすら声をかけずに自室に籠もっていたから。
今になって思えば、本当につまらなくて寂しい日々だった。
「留守番、頼んだ」
「う!」
今度は、少し嬉しそうに弾んだ声が返ってきた。




