女子高生幽霊・1
「ごめんくださーいっ」
翌日の朝八時。
橘平が向かったのは、正式に今日から入居することになったアパート、「よいまち荘」の大家の部屋だった。
オンボロアパートの風貌に負けないほど、大家の部屋からは禍々しい空気が漂っている。
昨日、何故か部屋に住み着いてる女子高生の幽霊とコミュニケーションを取る方法を模索し、その後に手土産を買いに行くというハードスケジュールを過ごした。
部屋の前で昨日買った手土産を握り締め、インターホンを押す。
「はーいはいはい。⋯⋯ちょいと待ってやー」
中からそんな間の抜けた声が聞こえたかと思えば、勢いよく扉が開く。
「おわぁっ!」
「おっと、すまんすまん」
中から出てきたのは、想像していたよりもずっと若い男だった。二十代半ばか、三十代くらいで片目を隠す長い前髪が印象的だ。
男は橘平を見るなり陰鬱な表情を一変させた。
「おおっ! 君か! 新しく越してきた子って!」
「あ、はい、どうも⋯⋯長谷川です。あの、これつまらないものですが⋯」
「えーーー! 別に気ぃ使わんで良かったのに。まあ、せっかくやから有り難くいただきますー」
誰かに手土産など用意したことがないから、適当に菓子折りにしてみたが。
なんだか喜んでくれている、らしい。
「いやぁ、顔合わせんの遅なってもうなぁ。ボクは大家の神代いいますー。よろしゅうなぁ、長谷ちゃん」
「え、あっはい! よろしくお願いしますっ!」
長谷ちゃんという呼び方は少し気になったが、そこには触れないでおく。
しかし、大家というともっと年寄りをイメージしていたが、この神代という男は若く見える。
明らかにワケアリなのが透けて見えて橘平は不安に思った。
「せっかく来てくれたんやし、ちょっと話そーや。ほら、上がって上がって」
「い、いや流石に⋯」
「なんや遠慮してー。長谷ちゃん春から大学生なんやろ? 若もんはちょっと図々しいくらいがちょうどええねん」
「で、で、ででもぉ⋯⋯」
謎理論を展開されて、橘平は断る日間もなく部屋の中に連れ込まれてしまった。
「お邪魔します⋯」
「おう。汚い部屋で悪ぃな、そこら辺座ってー」
部屋の間取りは橘平が入居することになった部屋と大差ない。恐らく、このアパートの部屋は全て同じ作りなのだろう。
それでも家具の種類や配置で全く別の部屋に見える。
(俺も家具用意しねぇとなぁ)
前の入居者が残して行ったのか、それとも元々あるものなのかは分からないが、現状、橘平の部屋に家具といった家具はない。
ダイニングテーブルと椅子はあるから食事も書き物もできる。
しかし、布団がなく昨晩は畳に直接寝転がって寝る羽目になった。その間も、あの女子高生の幽霊が顔を覗き込んできて気が気でなかったし。
「ほい、どーぞ」
「あ、わざわざすみません。ありがとうございます」
湯飲みを持ってきた神代は、ちゃぶ台を挟んで橘平と向かい合うように座った。
「とまあ、なんでまた君みたいな若い子がこんなオンボロアパートに引っ越してきたん?」
「実は、いろいろとありまして⋯⋯」
つい先日、第一志望の大学に落ち、親から見限られて実家を飛び出し、幼馴染の家に転がり込んだ後にこのアパートを見つけた旨を神代に説明する。
始めの頃は真剣な面持ちで話を聞いていた神代だが、あの不動産屋の店主と何件も物件を回った話をし出した頃から笑い始めた。
不審げな目を橘平が向ければ、神代は笑い涙を拭いながら茶を一口啜った。
「はは、ははは! よりにもよってあん野郎のとこ転がり込むなんてなぁ」
「あ、あん野郎⋯⋯?」
「あの不動産のじじぃ店主、明石とは昔から贔屓にしてもろてるんよ。このアパートの入居者、皆あそこ仲介して入ってるし」
「その割に、全然隣から人が住んでる雰囲気感じないんすけど⋯」
昨日、采地のバイクに乗ってこのアパートにやってきたのが午前十時頃。
そこから今に至るまでずっと二◯五号室にいたが、一度だって隣の部屋から物音の一つだって聞こえなかった。
問いながら橘平は背筋が凍るのを感じて、温かいお茶を一気に飲み干した。
「んー、ここの入居者皆自由人ばっかやから、タイミング合わんかっただけちゃうかなぁ」
「ほぼ一日帰って来ないのがタイミングスか⋯」
「まあまあ、そういうこともあるって」
神代は何でもないことのように笑いながら、湯呑みを傾ける。
「それに、この“よいまち荘”の入居者って、昔から変わった人が多いんよ」
「変わった人?」
「せや。生活リズムが普通とちゃうかったり、ふらっと何処かへ出て行ったりな」
「……それ、ちゃんと人住んでるんですよね?」
「失礼やなぁ」
神代はけらけらと笑って、ちゃぶ台に頬杖を着いた。
彼の視線は橘平から向かって左側の壁に向いている。これまでの話が本当なら、その方向には隣人がいる部屋があるのだが。
「ちゃんと住んどるよ」
「ならいいんですけど……」
ほんの少しだけ声音が下がったことを橘平は敢えて気にしないことにした。気にすれば絶対に面倒なことになると思って。
(あの子も何か関係があるのか⋯⋯?)
橘平は神代の横顔を眺めながら、昨日のことを思い出していた。
古びたアパート。
人の気配がほとんどない廊下。
そして――自分の部屋にいた、あの女子高生の幽霊。
(いやいや、まさかな。寝る時は目が合ったりしたけど、今朝は姿見えなかったし)
もしかしたら大学受験に失敗したショックと、一日中物件探しをした次の日だったこともあって、身体が疲れて見た幻覚だったかもしれない。
いや、もはやそうであってくれ。
「……ちなみに、変わった人って?」
「ん?」
「どんな人が住んでるんですか?」
「そうやなぁ……」
頬杖を着いていた神代は、身体を起こして顎に手を当てて考え込む。
右目を隠していた前髪がさらっと揺れた。
「夜中にふらふら歩き回る奴とか」
「…………」
「昼間はずっと寝とる奴とか」
「…………」
「あと、誰も飼ってへんはずなのに、何故か猫が一匹ずっと住み着いとったり」
「……猫?」
「せや」
橘平の興味を引けたことが面白いのか、神代は不敵な笑みを浮かべた。
「でもな」
「?」
「その猫が、もし人間の言葉喋ったららどう思う?」
あまりにも突拍子のない言葉に、橘平は口を開けたまま固まった。
期待通りの反応を得られた神代は満足げに声を上げて笑う。
「…………え?」
「人の言葉を話す猫なんて、普通のアパートに住み着くと思うか?」
橘平は神代の顔を睨みつけながらじっと探った。
神代は変わらず楽しそうに笑っているだけ。今の話は冗談なのか、それとも――。
「……住み着かないと思いますけど」
「やろ?」
パッと頬を包んでいた手を離して、それまで漂わせていた不穏な空気を一瞬にして消し去る。
空になった橘平の湯呑を手にすると、立ち上がって台所に向かいながら続けた。
「まあ、そういう変わった奴もおるっちゅう話や」
「いや、それもう変わった人の範疇超えてません?」
「ははは!」
神代の爆笑が台所から部屋に響く。
橘平は呆れながらも、曖昧に笑い返すしかなかった。
――まさか。
自分の部屋にも、そんな「変わった奴」がいるなんて。そんなことは、まだ口に出せるはずもなかった。
「まあ、そんな感じや。何か困ったことがあったら、遠慮なく言いや」
「はい。ありがとうございます」
「古いアパートやからな。水道とか電気とか、何か不具合があったらすぐ連絡してや。放っといたら余計ややこしくなるから」
「分かりました」
「あと――」
神代が、ふと思い出したように人差し指を立ててニヤリと笑う。
台所と橘平がいるリビング(?)の間のダイニングテーブルにもたれ掛かりながら、神代は言った。
「夜中に変な音がしても、あんまり気にせんこと」
「……変な音?」
「ほら、築五十年以上してるし? 壁も床も年季入っとるからな。風が吹いただけでも、ギシギシ鳴るんよ」
「……なるほど」
「まあ、どうしても気になるんやったら、ボクんとこ来たらええ」
「分かりました」
そう答えながらも、橘平の中には不安という不安が浮かんでは渦を成していく。
現に、夢であってほしいが幽霊の少女とコミュニケーションを取る方法を考えたりしたし。
何より、夢にしてはその時の会話の内容や光景が鮮明に思い出せる。
そして決定的だったのは、右手の手刀部分についたマーカーの跡。明らかに昨日何かを書いた後だ。
「……じゃあ、そろそろ戻ります」
「おう。荷解きもあるやろしな」
「う⋯⋯」
荷解き以前に、リュック一つで入居してきたことは黙っておこう。
橘平が立ち上がると、神代もダイニングテーブルから離れて玄関先に来た。
「これ、持ってき」
そう言って、神代が差し出したのは一本の鍵だった。
「……鍵?」
「スペアキー。昨日渡されたやつとは別に、もう一本持っといた方がええやろ」
「あ、ありがとうございます」
橘平は受け取った鍵を財布にしまう。
一連の流れを眺めていた神代は、またも不敵な笑みを浮かべた。
「絶対失くすなよ?」
「子供じゃないんですから」
「いやぁ、最近の若い子は信用ならんからなぁ」
「神代さん、俺のこと何だと思ってるんですか」
「家出してきた大学生」
にっかりと笑った神代に痛いところを突かれ、橘平は「うぐっ⋯⋯」と苦しい声を上げた。
「まあ、何かあったらいつでも来てや」
「はい」
橘平は玄関先で一礼して、神代の部屋を後にする。
扉が閉まる直前――。
「――ああ、そうそう」
「?」
呼び止められて振り返ると、神代はいつもの調子で、にこりと笑っていた。
「よいまち荘、気に入ってくれるとええな」
「? はい」
呼び止められて何事かと思えば、彼から告げられたのはそれだけだった。
橘平はもう一度軽く頭を下げ、今度こそ廊下を歩き出す。そして二階に続く階段を登っていった。
そんな橘平の背後で扉が静かに閉まる。
「…………」
神代は一人になった部屋の中で、しばらく閉じた扉を見つめていた。
「⋯⋯さて」
小さく呟いて、シンクの中に入れていた湯呑みを片付ける。
その表情からは、先ほどまでの軽薄そうな笑みが消えていた。
「今回は、どうなるんやろなぁ」
その言葉を聞く者は、誰もいなかった。




