オンボロアパート・5
それから数十分。くるりと少女に背を向けた橘平の耳元には、ピッタリとスマホが当たっていた。
プルル──プルルルルル⋯⋯。
『なんだ、なんだ。またどうし──』
「出たんですけどぉ!?」
五・五畳の部屋に橘平の叫び声が木霊する。
電話の向こう側にいる不動産屋の店主は、耳を塞ぎながらも橘平の叫びを聞いた。
『……おい、大丈夫か?』
「大丈夫なわけねぇよ!? 家賃が破格なのは、事故物件なんてレベルじゃないからですか!?」
『いやぁ、だから昨日「ちょっとクセがある」って言ったろうが』
「クセの次元が違いすぎるだろ!」
大声を出した瞬間、少女が再びびくりと身体を硬直させて押し入れの中に身を隠す。
橘平は慌てて口元を手で覆った。
「……あ、すまん。大きな声出して」
「…………」
少女は天井裏の影から、くりくりとした瞳でこちらの様子を窺っている。怯えてはいるが、逃げ出す風でもない。
受話器からは、店主の呑気な声が漏れていた。
『まあまあ、害がないなら実質タダ同然の良物件だろ?』
「タダ同然でも同居人が幽霊なのは聞いてないですって!」
『気に入らねぇなら鍵返してくれてもいいぞ。……まあ、他にあの予算で住める部屋はねぇがな』
「……っ!」
橘平の弱みを掴みきった店主の指摘に言葉が詰まる。
昨日、何件も回って突きつけられた厳しい現実。自分の力だけで払っていけるのは、この部屋しかないのだ。
『ま、仲良くやってみろって。案外悪くない同居人かもしれんぞ? あと、もう入居するもんだと思って大家に話し通してるから』
店主はそこまで勝手なことを言った後、電話は一方的に切れてしまった。
無機質なツートン音だけが耳元に響く。
「……はあ」
深く溜息を吐き、電源を消すとスマートフォンを足元に置く。
そして、意を決して押し入れの方へと向き直った。
少女は相変わらず、ひょっこりと顔を出したまま橘平を凝視している。
「あのさ……俺、今日からここに住むことになった長谷川橘平。……よろしく?」
ぎこちなく頭を下げてみる。
少女はぱちぱちと幾度か瞬きを繰り返すと、意を決したように小さく息を呑んだ。
そして、天井裏からすうっと降りてきて――畳の上にそっと着地する。
相変わらず身体は薄っすらと透けているが、その表情からは先ほどまでの強い警戒心が少しだけ薄れていた。
「……う」
「う、じゃなくて……名前とか、あるのか?」
問いかけると、少女は静かに首を横に振った。
部屋の外では、春風が古びたアパートの窓枠をカタカタと揺らしている。
大学不合格。家出。格安の訳あり部屋。
人生最大のどん底から始まるはずだった一人暮らしは、思わぬ「同居人」と共に、怪しくも賑やかな第一歩を踏み出そうとしていた。
「てか、さっきから「う」しか聞いてないけど、喋れねぇの?」
「う!」
「マジか⋯⋯」
人ならざる存在である上に、コミュニケーションは不可ときた。
なんとか一言発する度に怯えられることは無くなったが、変わらず微妙な距離がある。
畳の上で正座した橘平は、目の前にいる薄っすら身体が透けた少女の姿を改めて観察した。
(セーラー服⋯⋯やけに古い雰囲気のある制服を着ているんだな)
このアパートの近辺にも、実家の近辺にもセーラー服が指定制服の学校はない。
何処か別の地域の学校の生徒だったのだろうか。しかし、服装といい髪型といい、今どきの女子高校生には見えない。
「なぁ⋯やっぱり、君は幽霊⋯⋯なんだよな?」
「う、うう!」
「イエスかノーなら答えられるのか。なるほど、なるほど⋯⋯」
橘平は腕を組み、深く何度も頷いた。
「じゃあ、質問の仕方を工夫すれば、ある程度の意思疎通はできるってわけだ」
「う……?」
「例えば……腹、減ってるか?」
長い前髪から顔を覗かせた少女は、橘平の問に小さく首を傾げた。
彼女が身動きする度に床に付いても尚広がる長い黒髪が揺れる。まるで貞子を連想させる姿だ。服装はセーラー服だが。
「じゃあ、腹は減ってない?」
「…………?」
「どっちでもない?」
「う」
「なるほど」
またしても腕を組み、納得したように大きく頷く。
言葉として答えを求めるのは難しいが、イエスかノーで首を振る程度の返事はできるらしい。
「……って、いやいやいや!」
そこでようやく我に返る。畳に手を着いて後ろを向いた橘平は、重い頭を抱えた。
「なんで俺、ごく普通に幽霊と会話成立させようとしてんだよ!?」
「う?」
「しかも『なるほど』じゃねぇよ! 何がどう『なるほど』なんだよ俺!」
一人で悶々と考え込む橘平を見る少女は、変わらず頭の上に「?」を浮かべている。
橘平はガシガシと頭を抱え込み、強く目を瞑った。
ついさっきまで、目の前に幽霊がいるという現実だけで腰を抜かしかけていたはずだ。
それが今や、すっかり意思疎通の手段を模索するモードに入ってしまっている。
「……おかしいだろ、俺の適応能力」
「う」
「君もそう思う、よな?」
「…………?」
「そこは『?』じゃなくて頷くところじゃね」
「う……?」
「いや……幽霊にそこまで求めるのも筋違いか」
再び前を向いて少女に向き直った橘平は、気まずく思いながらも目を合わせた。
目の前の少女も、コロコロと表情を変える橘平を不思議そうに見つめている。
「…………」
「…………」
なんとも言えない気まずい沈黙が、畳の上に落ちる。
狭い五・五畳間で、幽霊と二人きり。
しかも会話らしい会話はまったく成立しないという絶望的な状況。
「……どうすんだよ、これ」
橘平が途方に暮れて呟くと、少女はすっと少しだけ身体を揺らした。
「う」
「……ん?」
「う……」
懸命に何かを伝えようとしている。けれど、その意味までは汲み取れない。
「んん⋯⋯!」
「すまん。もう一回言って?」
身を乗り出して何かを伝えようとする少女につられて、橘平も前のめりになる。
しかし、彼女は長い黒髪を揺らめかせながら、身振り手振り何かを訴えるが、橘平には何も伝わらない。
「……う」
「…………参ったな」
しばらく彼女の仕草や声音で訴えていることを考えてみたが、やはり何を伝えようとしているのか分からない。
橘平は意思疎通ができない絶望さに、手で額を押さえた。
「⋯⋯前途多難すぎるだろ」
すると少女は、不満そうに少しだけ頬を膨らませた。
「う……!」
「え、何? 怒ってんの!?」
「う!」
「ご、ごめんって!」
怒っている理由が何か分からないのに、何故か慌てて謝ってしまう橘平。
そんな情けない彼の姿を見て、少女は何処か可笑しそうに、ほんの少しだけ目を細めたのだった。
しかし、会話が途切れるのはあっという間だ。しばらくの間、奇妙な沈黙が続く。
橘平は腕を組んだまま、目の前の少女をじっと見つめた。
彼女は何かを伝えようとしている。それだけは、なんとなく伝わってきた。
けれど――。
「……『う』だけじゃ、流石に分かんねぇよなぁ」
「う……」
「いや、別に責めてるわけじゃないけど」
申し訳なさそうに、少女がまた少しだけ俯く。
感情の起伏に合わせて髪の毛も萎れているから、見ているだけでそんなつもりはなくても責めているような気になる。
「あー……」
元はと言えば、自身よりも年下の女の子と関わった試しがない。ましてや話せない幽霊相手などどうすればいいのか分かるはずもなかった。
橘平は居た堪れなさを誤魔化すように、ガシガシと頭を掻いた。
相手は幽霊。しかも言葉が話せない。だったら、別の方法で意思疎通を図るしかない。
「……待てよ?」
ふと思い立ち、橘平はリュックの中から筆記用具を取り出した。
家で全ての筆記用具をリュックから出したつもりだったが、一冊だけノートが引っ掛かっていたらしい。
使いさしのノートは受験期を思い出すから気分は良くない。
が、今はこのノートがあるおかげで彼女と意思疎通ができるかもしれなかった。
「これならどうだ?」
適当なページを開いたノートを畳みの上に置き、ペンで大きく文字を書いた。
【YES 】
【NO】
見開き一枚ずつを使って大きく書いた文字を少女の方に向け、様子を伺う。
「これ、意味分かるか?」
「…?」
すすすと畳の上を移動し、少女は首をひねりながら紙を覗き込む。
いつの間にか間近に近づいても逃げられなくなっていたが、二人がそれに気づくことはない。
「『はい』ならこっち。『いいえ』ならこっち」
橘平がそれぞれの文字を指差してみせる。その動きに合わせて目を動かしながら、少女は紙へさらに顔を近づけた。
「…………」
(じーっ)
「…………」
(じーっ)
「……⋯?」
何度も文字を見比べてはみるが、これと言った反応は見せない。
むしろ、見比べれば見比べるほど少女は理解に苦しんでいる様子だった。
「意味、分かんない?」
「…………」
顔を覗きながら橘平が助け舟を出すと、少女は小さく首を傾げる。
「だから……『YES』はこっち」
もう一度指差す。
「『NO』はこっち」
すると少女は、しばらく考えた末――そっとノートへ手を伸ばした。
「おっ」
これならいける。そう確信した次の瞬間。
(すっ)
「…………」
「…………」
少女の指先が、何のスレ違いもなくノートをすり抜けた。ノートだけでなく、その下の畳すらも貫通している。
想像していたものと違う結果が返ってきて、二人ともがぐっと奥歯を噛み締めた。
「……あ」
そうだった。この子、幽霊だった。
「いや、そうじゃん!」
バシッと自身の膝を叩いては頭を抱える。
どうしてこんなにも重要で分かりやすいことを忘れていたのか。
押し入れの壁やら天井やらをすり抜けていたのだから分かりきっていたはずなのに。
「触れねぇじゃん! なんで俺、普通に紙指差して渡せると思ってんだよ!」
「う……」
「いや、君に怒ってるんじゃないから!」
少女は少し困ったような表情で橘平を見つめている。
何処か怯えていて、けれど心配しているような瞳で見つめられ、橘平の中では再び彼女を責めているような気がして罪悪感が湧き上がる。
「……はあ。指差しも無理か」
橘平は虚しくノートを拾い上げ、深く溜息を吐いた。
文字を書く方法なら意思疎通できると思ったが、そもそも物理的に物に触れられないのではどうしようもない。
「えーっと……触れない、喋れない……なら、文字は読める?」
長い前髪で顔を隠した彼女は、橘平の問に答えようとしない。
小刻みに身体を震わせたままで真っ直ぐと橘平を見ている。気がする。
「『はい』なら『う』」
「う」
「『いいえ』なら『うーうー』」
少女は少し考え込む素振りを見せて、もう一度橘平に向き直った。そして――。
「う……」
「……はい?」
返ってきたのは、あまりにも微妙すぎる一言(?)だった。
「分かんねぇ!」
「うぅっ!」
同時に頭を抱えて、うーんと唸る。
かれこれ二時間はこんなことを続けていた。逆に考えれば、二時間でよくもまあここまで打ち解けたものだ。
「じゃあ、どうすりゃいいんだよ……」
畳の上に身を投げ出し、天井を仰ぐ。
突然寝転がった橘平を心配したのか、少女はあわあわと上から覗いたり、身体に触れようとしたりしていた。当然触れられはしないが。
そんな彼女の様子を見ながらしばらく考え込んでいると、ふと昔の記憶が脳裏を過った。
「……あ」
小学生の頃、放課後に友達とやった怪しげな遊び。
紙に文字を書いて、十円玉を置いて――。
「……コックリさんだ」
「う?」
「いや、こっちの話」
橘平はガバッと起き上がると、財布から十円玉を一枚取り出した。
「これなら……」
畳の上にコインを置き、近くにあったノートを広げて五十音をササッと書き連ねていく。
あ、い、う、え、お……。
「…………」
「これなら、君が直接触れなくても『念』で動かせるかもしれない」
五十音を書き並べていく様を少女は不思議そうに覗き込んでいる。それから橘平がノートの上に置いた十円玉を見て、興味津々の様子で見つめた。
「試してみようぜ」
橘平は十円玉の上に軽く指を添えた。
「……動かしてみて」
「…………」
少女は集中するように、じっと十円玉を見つめる。
やがて――。
「……う」
「ん?」
(すっ)
「…………お」
十円玉が、ほんの僅かに五十音を書き並べたノートの上を滑った。
「動いた……!?」
「う!」
少女がパッと表情を輝かせ、嬉しそうに声を上げた。
畳の上に落ち広がっていた髪も、心做しか艶めいてボリュームが増している。
「マジかよ……!」
今度こそ、いける。
これなら、この幽霊とちゃんと話ができるかもしれない。
橘平は思わず身を乗り出して、少女の前に十円玉を差し出した。
「よし! やろう!」
「ん!」
こうして二人の、十円玉を使った奇妙で滑稽な意思疎通が始まったのだった。




