分かれは必然・3
よいまち荘へ戻った橘平は、真っ先に二〇五号室の扉を開けた。
「ただいま」
「う!」
すぐに押し入れからヨイが顔を出す。
「ヨイ。これで最後にしよう」
橘平は靴を脱ぎながら、今日あったことを一つずつ話した。
大学の資料室で見つけた、四年前の新聞記事。
雨の夜、よいまち荘近くの交差点で起きたひき逃げ事故。
そして明石から聞いた、絢子が生前に不審な男につきまとわれていたらしいこと。
事故の直前、二〇三号室から男女の言い争う声が聞こえていたこと。
さらに、事故の後、二〇三号室のポストへ差出人不明の封筒が投函され、その中には破られた家族写真の切れ端が入っていたこと。
そこまで話すと、ヨイの表情が曇った。
「……う」
「やっぱり、お前が前に言ってた『悪意』と『男』って、絢子さんのことだったのかもしれない」
実際にその光景を見ていなかったとしても、ヨイであればいい愛する男女の声を聞いているかもしれない。
だが、いつからかの記憶を失っているヨイからは、その真相を聞き出すことはできない。
「俺、もう一度二〇三号室を調べてみる」
ならば、もう一度調べればいいだけ。
以前では気づけなかった何かに気づけるかもしれない。それがこの謎を解く手掛かりにすらなり得るのだ。
帰ったばかりとは言え出かける準備をする橘平の背後で、ヨイが二〇三号室の方を指差す。
「そう。でも、お前は一緒には来れないからな」
「う?」
「なんだよ、忘れたわけじゃないだろ」
「……う」
「大丈夫。一人で行ってくる」
橘平はそう言って立ち上がりかけたが、ふと思いついたように視線を下げ、戸惑うヨイの頭へぽんと手を置くふりをした。
「それに……お前には、ここにいてほしいんだ」
「……?」
「もし何かあった時、戻ってこられる場所がなくなったら困るだろ」
その言葉の意味を噛みしめるように、ヨイはパチパチと何度か瞬きをした。
やがて自分の「役割」を理解したように、不安げだった表情がふっと和らぎ、胸を小さく張って力強く頷く。
「う」
「じゃあ、行ってくる」
ひらひらと手を振りながら扉を開けると、振り返ること無く閉じた。
*
二〇三号室の扉を開けると、ひやりとした空気が頬を撫でた。
以前とは違う。あれほど濃かった気配は、もう残っていない。
絢子は、もうここにはいない。
それなのに、部屋の中には彼女が暮らしていた生活の痕跡だけが冷たく取り残されていた。
「……絢子さん」
小さく名前を呼ぶが返事はない。当然だ。
橘平は深く息を吐き、部屋の中を見回した。
「写真のもう半分があるはずなんだけどなぁ」
明石の話によれば、事故の後に『誰か』が二〇三号室へ切り端を送りつけた。
ならば、切り取られる前の「元の写真」や、彼女が生前に残した痕跡が部屋の何処かにあってもおかしくない。
橘平はちゃぶ台の周辺、引き出し、古いアルバムを片端から調べた。
続いて台所の食器棚や流し台の下。何度も確認するが、手掛かりはない。
「……ないか」
橘平が腰を伸ばしたその時、ふと視線が止まった。
壁際に置かれた古い棚。その隙間の裏側――埃の溜まった床の隅に、薄い紙の角が僅かに覗いていた。
「……?」
橘平はしゃがみ込み、奥へ指を伸ばした。
引き出したのは、埃にまみれた一冊の古い薄型ファイルだった。
万が一の事態に備えて隠されたかのように、棚の裏に押し込まれていたものだ。
ファイルを開くと、真っ先に落ちてきたのは一枚の古びた写真だった。
四隅の一つが大きく破れている。
「これ」
写っているのは、カメラに向かって優しく微笑む一人の男。試しに持っていた写真と重ね合わせると、破れた断面がぴたりと一致した。若い頃の絢子の肩に男の腕が回され、仲睦まじい家族が写っている。
だが、橘平の表情がすぐに強張った。
以前の写真にはなかった「端の部分」が、ここには残っていたのだ。
家族の輪から少し離れた不自然な位置に、一人の男が立っている。
「誰だ?」
男は四十代ほどで、暗い色の服を着ていた。
笑うでもなく、カメラを見るでもなく、ただ離れた場所から静かに絢子達を見つめている。
写真の裏には、鉛筆で何度も消されたような文字の跡が残っていた。
『この人……』
そこから先は乱雑に塗り潰され、読めない。
さらにファイルを調べると、折り畳まれた一枚のメモと、夫の研究室の古い名簿、そして小さな切り抜きが挟まれていた。
絢子の几帳面な字で書かれたメモには、短い日付と記録が並んでいた。
『六月三日 夜、またインターホン』
『六月八日 帰宅すると玄関前に立っていた』
『六月十二日 夫の帰宅時間を聞かれた』
『六月十五日 写真の端に写っていた人』
橘平は息を呑み、呼吸することすら忘れてメモを読み続ける。
絢子は偶然写り込んだ不審な男に気づき、一人で恐怖に震えていたのだ。
メモの最後には、震える文字でこう残されていた。
『夫には言えない。これ以上心配をかけたくない。でも、怖い。もし私に何かあったら、この人を調べて』
『高槻、修一』
一緒に挟まれていた研究室の名簿。そこに、その名前があった。
夫の教授と同じ研究室に在籍していた元研究生、高槻修一。
「同じ名前だ……!」
橘平の背筋を冷たい寒気が駆け抜ける。
高槻は夫と同じ研究室にいたからこそ、夫の出張予定も、帰宅時間も、絢子が二〇三号室で一人になるタイミングも全て把握できていたのだ。何度もインターホンを鳴らし、扉を叩き、彼女を追い詰めていった。
さらにファイルから出てきた新聞記事の切り抜き。
四年前のひき逃げ事故の目撃情報を募る記事の余白に、絢子の手書きで小さな文字が添えられていた。
『高槻さんの車と同じ色』
「…………」
橘平は完全に言葉を失った。
あの日――雨の夜。
高槻が二〇三号室の扉を叩いた。
耐えきれなくなった絢子は、傘もささずスリッパのまま外へ逃げ出した。
それを追った高槻の車が、暗い交差点で――。
「絢子さんを……追い詰めたのは、この男だ」
橘平が呟いたその瞬間、背後でカタンと小さな音が響いた。
「……っ!?」
橘平は弾かれたように振り返る。
誰もいない。ただ冷たく静まり返った二〇三号室があるだけだ。
だが、床の上にさっきまで机の上に置いてあったはずの写真が一枚、風もないのに畳の上に落ちていた。
橘平はゆっくりと拾い上げる。
写真の中の高槻の暗い目が、じっと絢子の横顔を見つめている。
もう疑う余地はなかった。
絢子を狂わせ、この部屋に縛り付ける原因となった『男』の正体は、高槻修一。
橘平はスマートフォンを握り締めると、素早く立ち上がる。
高槻は四年前に研究室を去っている。ならば今、何処にいるのか。
暗い沈黙だけが、二〇三号室の中に重く残されていた。




