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終章 繋がる家族写真




 橘平は大学の研究棟、その奥にある『岡田研究室』の前で足を止めていた。

 手には、二〇三号室の棚の裏で見つけた写真と、絢子が遺した惨痛な記録。

 写真の端に写っていた男の名前も、すでに判明している。


 ――高槻修一。


 だが、判明したのは名前だけだ。

 高槻が執拗に絢子を追い詰めていたこと。

 絢子が彼を心の底から恐れていたこと。

 そして、高槻がかつて岡田教授の研究室にいた元研究生だったこと。

 分かるのはそれだけで、事件の核心となる部分は依然として暗闇の中にあった。


 あの雨の夜、二〇三号室の扉を叩いたのは本当に高槻だったのか。

 絢子が裸足同然で飛び出した原因は彼なのか。

 そして、あのひき逃げ事故に高槻自身が関与していたのか――。

 確実な証拠は何一つない。


 だからこそ、橘平は夫である岡田に直接話すことを選んだ。

 息を整え、重い扉を三度ノックする。


「どうぞ」


 奥から聞き慣れた声が返ってきた。


「失礼します」


 扉を開けると、デスクに向かっていた岡田がゆっくりと顔を上げた。その目元には、昨日二〇三号室で見せた涙の跡がまだ微かに残っているように見えた。


「……橘平君か」

「これ、二〇三号室で見つけました」


 橘平は向かいの椅子に腰を下ろし、持ってきた封筒を机の上へ置いた。


「絢子さんが残していたものです」


 岡田の手が僅かに震え、ゆっくりと封筒が開かれた。

 中から滑り出たのは、つぎはぎの家族写真。

 幼い子供を抱く絢子。その隣に立つ岡田。そして、写真の端に立つ見知らぬ男。


「……」


 岡田の視線が、その男の顔でピタリと止まった。


「この人、覚えていますか?」


 静まり返った研究室に、時計の針の音だけが刻まれる。長い沈黙の後、岡田は絞り出すように息を吐いた。


「高槻修一。私の研究室にいた研究生だ。数年前に離れていったが……」


 橘平は静かに頷き、もう一枚のメモを差し出した。

『また来た』という文字と、夜中に鳴らされるインターホン、玄関前に立つ男影、そして――『夫の帰宅時間』を聞かれたという悲惨な記録。

 岡田は一枚一枚、食い入るように目を通していった。その手が、皺が寄るほど紙を強く握り締める。


「……私は、何も知らなかった」

「絢子さんは、先生に余計な心配をかけまいと黙っていたみたいです」

「そうか。絢子の周りを、高槻がうろついていたなんて……」


 岡田の瞳に苦悶の色が浮かぶ。だが、彼は深く目を閉じ、噛み締めるように言った。


「……だが。それだけで、彼が事故の犯人だと断定することはできない」


 確証のない推測で誰かを追い詰めることはできないという、研究者らしい冷徹なまでの冷静さ。だがその裏に滲む悔しさに、橘平の胸がキュッと締め付けられた。


「俺も、そう思っています」


 証拠がないのだ。高槻の執拗な嫌がらせは事実だとしても、事故の瞬間に彼がハンドルを握っていたという証明にはならない。


「だから、俺が今日これを持ってきたのは、『犯人を見つけた』という報告じゃありません。ただ、絢子さんが最期に何を恐れ、何と戦っていたのかを、先生に知ってほしかったんです」

「……ありがとう」


 岡田は擦り切れた家族写真とメモにそっと愛おしむように指を滑らせ、慈しむような、けれど何処か遠くを見るような瞳でゆっくりと目を閉じた。

 深く、重い吐息が静かな研究室の空気を静かに揺らす。


「四年前、警察からも何度も事情を聞かれた。事故についても、絢子の交友関係についてもな。……だが結局、何も分からないまま処理された」


 岡田の声からは、犯人への怒り以上に、積年の疲れと諦絶が滲み出ていた。


「君が見つけてくれたものは、大きな手掛かりだ。……だが」


 岡田は言葉を切り、ゆっくりと顔を上げた。その瞳には怒りでも怨嗟でもなく、何処か悟りを開いたかのような静けさが宿っていた。

 彼が次に口にするであろう言葉を察した橘平は、思わず息を呑み、拳を強く握り締める。


「私はもう、犯人を追うつもりはないんだ」

「どうしてですか!?」


 思わず声を張り上げた橘平に、岡田は静かに首を振った。


「もう四年だ。証拠もなく、高槻が今何処にいるかも分からない。彼を探し出したところで、あの夜の事故の真実がわかる保証もないんだ」


 岡田は愛おしそうに写真の絢子の顔をなでると、橘平の顔を見上げた。


「それに……昨日、絢子に会えたから」


 そう言った岡田の声が、小さく震えた。

 深く刻まれた目尻から零れ落ちそうになる熱いものを押し留めるように、彼はぐっと口元を結び、愛おしそうに空を仰ぐ。


「彼女が目の前にいてくれた」


 そう呟く岡田の顔から、長年纏っていた頑なな疲労と緊張がすっと消え去っていった。

 溢れそうになる涙を隠すように、彼は右手でゆっくりと顔を覆う。指の隙間から漏れ出る声は、何処までも愛おしさと切なさに満ちていた。


「私には、それだけで十分なんだよ。本当はずっと……もう一度会って、ろくに家に帰れなかったことを謝りたかった。ただそれだけだったんだ」


 橘平は深く俯いた。

 犯人を暴き、罪を償わせたところで、奪われた四年間は戻らない。

 二人が二〇三号室で温かい煮物を囲むような未来は、二度と来ないのだ。


「俺はまだ、少し引っ掛かります。高槻が何をしようとしていたのかも、あの日何があったのかも、全部闇の中なんて」

「そうだろうな。君の優しさには感謝しているよ」


 岡田はそう言って、遠くを見るような瞳でふっと優しく目を細めた。

 事件の謎を追おうとしてくれた青年の熱意と、そこに込められた真摯な哀悼を心から慈しむように。

 やがて彼はゆっくりと立ち上がると、机の上の封筒を丁寧に胸ポケットへ収めた。


「橘平君。一つ、付き合ってくれないか」

「何ですか?」

「……絢子の墓参りだ。今から行こうと思う」


 橘平は岡田の顔を見つめた。そこには事件を追う男の顔ではなく、ただ妻を愛し続けた一人の夫の顔があった。


「……はい。ご一緒させてください」

「ありがとう」


 研究室の窓から差し込む斜陽が、机の上に残された封筒を橙色に染めていた。

 その中には、名前の判明した恐怖の対象、高槻修一の写真が入っている。


 彼がなぜ絢子に固執したのか。

 あの日、二〇三号室で何が起きたのか。

 真実はまだ、暗い霧の向こう側だ。


 けれど、命を奪われた絢子が最後に望んだ「夫との再会」だけは、確かに果たされた。

 橘平は岡田と肩を並べ、静かな研究室を後にする。

 向かう先は、夕暮れの光が落ちる絢子の眠る墓地だった。





 *





 墓地には、静かな風が吹いていた。

 春と呼ぶにはまだ早く、冬の名残を孕んだ少し冷たい風だった。

 橘平は、目の前にある新しい墓石をじっと見つめる。そこに深く刻まれている文字を、何度も何度も目で追った。


 ――岡田 絢子。


 ほんの昨日まで、その名前すら知らなかった。ただ、二〇三号室の暗闇にポツンと残されていた女性。

 温かい料理を作ろうとしていた幽霊。

 愛する家族のために料理を作り、誰かに食べてもらい、誰かに「美味しい」と言ってもらう。ただそれだけの平穏を求めて、この世に留まり続けていた人。

 そして今、その人はもう二〇三号室にはいない。


「……っ」


 橘平は唇を噛み締め、言葉を呑み込んだ。

 こうして墓前に立っているというのに、胸の奥にはやり場のない悔しさと無力感が重く澱んでいる。


 もっと早く気づいていれば。

 もっと早く彼女の名前を見つけ出してあげられていれば。

 あの人が何を求めて二〇三号室で泣いていたのか、最初から分かっていたのなら――。


 後悔ばかりが胸を突く。結局のところ、絢子が何故死ななければならなかったのか。

 あの日、二〇三号室で何が起きたのか。

 そして高槻修一という男が何をしたのか。何ひとつ、明確な真相は暴けないままだったのだから。


「……悔しいかい?」


 隣に立つ岡田が、静かな声で尋ねた。


「はい」


 橘平は隠すこともできず、素直に吐き出した。


「なんか……俺、何一つ力になれなかった気がして」


 岡田は目を細め、墓石に落ちる影を見つめた。それから、静かに膝を折ると、懐かしむような穏やかな笑みを浮かべる。


「君にも、大切な人がいるんだね」

「え……?」

「その顔を見れば分かるよ。誰かの痛みや無念さを、自分事のように抱え込めるのは、それだけ深く誰かを想ったことがある証拠だ」


 大切な人――その言葉が、胸の奥底に波紋のように広がっていく。

 岡田はそれ以上追及することはせず、コートのポケットからスマートフォンを取り出した。


「……これを見てくれるかい?」

「写真、ですか?」

「ああ」


 提示された画面を覗き込む。そこに映し出されていたのは、一枚の古いデジタル写真だった。

 そこにいるのは、まだ幼い少年だ。屈託のない満面の笑みで、カメラの向こうの撮影者に笑いかけている。

 そして、その少年の目の前の食卓に置かれていたのは――。


「……あ」


 橘平の瞳が、大きく見開かれた。

 白い深皿。その上に盛られた、ゴロッと大きなじゃがいもや人参、玉ねぎ。それ以外の野菜の数々。そして、少し濃いめの出汁が染み込んだ煮物の煮汁。

 見間違えるはずがなかった。二〇三号室で絢子が幻のように作ろうとしていた、あの煮物だ。


「これ」

「ああ」


 岡田は画面の少年を愛おしそうになでながら、優しく目を細めた。


「この子は私と絢子の息子でね。もうすぐ五つになる。絢子が、まだあの子が小さかった頃によく作ってくれたんだ」


 橘平は食い入るように写真を見つめた。

 無邪気に笑う少年と、湯気を立てる温かな煮物。画面の中に絢子自身の姿は写っていない。

 けれど、そのカメラを構え、愛おしそうにレンズを向けている彼女の眼差しと温もりが、確かにそこに存在していた。


「美味しかったんですね」

「ああ。息子も私もだ。ずっとずっと、忘れることのない味だったよ」


 その言葉を聞いた瞬間、橘平の胸の奥から熱いものが一気に込み上げてきた。

 さっきまでの不甲斐なさや悔しさとは違う。寂しさとも違う。もっと大きくて、胸が締め付けられるような、温かい感情だった。


「じゃあ、絢子さんが作ったものは……途切れずに、ちゃんと残ってるんですね」

「ああ」


 岡田はスマートフォンの画面を消し、静かに目を閉じた。


「だから、もういいんだと思う」

「高槻のことや、事件の真相もですか?」

「もちろん、犯人のことは許せないし、絢子を失った悲しみはある。けれど、だからって犯人に復讐したところで絢子が帰ってくるわけでもないだろう?」

「それは、そうですけど⋯⋯」

「それに、私は私で、今の暮らしも愛おしく思っている。絢子はいないが、家に帰れば息子がいるしね」


 岡田はゆっくりと目を開け、墓石へ視線を戻した。


「解き明かせない謎や不条理は、これからも私たちを苦しめるかもしれない。けれど――」


 風が二人の間を吹き抜けていく。


「絢子にもう一度会えた。彼女の想いを知ることができた。私には、それだけで十分すぎるほどの救いだったんだよ」


 橘平は何も言えなくなった。ただ静かに、墓前に向かって深く頭を下げる。


 さようなら、絢子さん。


 心の中で、静かに別れを告げた。

 墓石に刻まれた『岡田絢子』という名前は、もう橘平にとってただの事件の被害者でも、怪異の執着でもなかった。


 誰かを愛し。

 誰かのために腕を振るい。

 大切な人の記憶の中に永遠の温もりを残して。

 そして今も、残された人々の心の中で生き続けている一人の愛おしい女性の名前だった。


「行こうか、橘平君」

「……はい」


 二人は静かに墓地を後にした。

 夕闇の差し始める帰り道を、少しだけ温かさを増した風が、静かに追いかけていた。








これにて第一部完結です。

話の節目ということで、一度完結設定にします。

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