分かれは必然・2
陽がすっかり高く登り、大学のキャンパスは講義に向かう学生達の賑やかな声に包まれていた。
橘平は周囲の喧騒から逃れるように、図書館の地下にある暗い資料室へと足を向けた。ひんやりとした空気が漂う室内には、過去の新聞記事やローカル誌がマイクロフィルムや電子アーカイブとして収められている。
検索用のパソコンの前に座り、橘平は静かにキーボードを叩いた。
『よいまち荘』『事故』『雨』『女性』――。
カタカタと乾いたタイピング音が、誰もいない資料室に虚しく響く。
画面をスクロールしていく内に、橘平の手がピタリと止まった。今から四年前の十月に発行された、地元のローカル紙の社会面だ。
小さな見出しにはこう書かれていた。
『アパート近くの市道で女性跳ねられ重体――雨で見通し悪く? 運転手はそのまま逃走』
「ひき逃げ……?」
橘平は食い入るように画面を見つめ、本文を目で追った。
被害者の女性は三十代前半。雨の夜、よいまち荘から徒歩三分ほどの交差点で倒れているところを通行人に発見された。病院に搬送されたものの意識不明の重体。
「よいまち荘のすぐ近くじゃないか⋯!」
橘平の胸が強く波打った。間違いなく絢子の事故の記事だ。
しかし、記事を読み進める内に、猛烈な違和感が橘平の頭を殴りつけた。
『警察の発表によると、現場の状況から通りかかった車両によるひき逃げ事件とみて捜査。なお、被害者の足元には室内用のスリッパが残されていた――』
「スリッパ……!?」
橘平は画面の小さな事故現場写真を凝視した。
警察の検証テープが張られた雨の交差点。そこに残された血痕。
土砂降りの雨の夜だ。傘もささず、外履きに履き替える余裕すらなく部屋を飛び出した――あるいは、『誰かに追われて外へ逃げ出した』としか思えない状況ではないか。
それに、この記事以降『犯人逮捕』や『情報提供を求める』といった続報が一切存在しない。単なる雨の夜の不運な交通事故として、処理すら曖昧なまま闇に葬られているのだ。
『雨が降っていて……誰かが……扉を……』
消える直前の絢子の苦悶の表情。
ヨイが十円玉で示した『悪意』と『男』。
(絢子さんは、ただ旦那さんのために買い物へ出て事故に遭ったんじゃない。あの日、二〇三号室の扉を叩いた『誰か』の悪意から逃げるために雨の中へ飛び出して……!)
パズルのピースが、恐ろしい音を立ててハマっていく。
だが、まだ肝心な部分が足りない。何故その「男」は二〇三号室に現れたのか。そして、何故家族写真の「夫の顔」だけが破かれていたのか。
「ここで待ってちゃ駄目だ。俺が行かないと」
橘平はパソコンをシャットダウンすると、バッグを担いで資料室を飛び出した。
一刻も早く、絢子の生前の二〇三号室に何があったのか、当時の入居者データやトラブルの記録を自分の目で見確かめなければならなかった。
橘平は大学の坂道を一気に駆け下り、不動産明石の店舗へと向かって足早に走り出した。
*
大学から走ること十数分。橘平は街の外れにある小さな不動産屋のガラガラと鳴る引き戸を強く押し開けた。
「 明石さん! 今いいですか!?」
パイプ椅子に深々と腰掛け、スポーツ紙を広げていた店主の明石は、肩を跳ねさせて咥えていた煙草を落とした。
「うおっ!? 心臓に悪いだろうが! ⋯⋯急にどうしたんだ、そんな息切らせて」
「明石さん、頼みます! 四年前の二〇三号室のこと……あの事故の日のこと、もっと詳しく教えてください!」
カウンターに両手を叩きつけ、身を乗り出す橘平に、明石は露骨に嫌そうな顔をして眉を顰めて。
「おいおい、勘弁してくれよ。 管理会社が変わっててデータも不完全だし、そもそも昔の入居者の詳細なんて個人情報の塊だ。ただでさえ訳ありのアパートなんだから、これ以上首突っ込まない方がいい」
「違います! 単なる興味や噂話じゃないんです!」
橘平は真剣そのものの瞳で、真っ直ぐに明石を見つめ返した。
「あの部屋にいた絢子さんは、ただの不運な事故で亡くなったんじゃないかもしれません。雨の中、履物も履き替えずに誰かから逃げるみたいにして部屋を飛び出していたんです。……あのアパートで、当時一体何が起きていたのかを知らないと、俺……ううん、あの部屋の時間が、永遠に止まったままなんです!」
必死の訴えに、店内を重い沈黙が包み込む。
明石は広げていた新聞をゆっくりと閉じると、パイプ椅子に背をもたれかけ、深く溜息を吐いた。吸いかけの煙草を灰皿に揉み消しながら、橘平の表情をじっと品定めするように見つめる。
「……たく、最近の若いもんは熱心なんだか無鉄砲なんだか……」
明石は頭をガリガリと掻き回すと、観念したように立ち上がり、店の奥にある鍵付きの古いスチール製書庫へと向かった。
「しゃあねぇ、口外厳禁だからな。親御さんにも店潰されるような真似すんなって怒られちまう」
「……っ! ありがとうございます!」
ガチャリと金属音が響き、書庫から取り出されたのは、黄ばんだ紙ファイルが一冊。明石はそれをカウンターの上に放り投げるように置いた。
「これ、四年前のトラブル履歴と、管理会社引き継ぎの時の特記事項メモだ。……正直、警察もろくに調べちゃいなかったがな。あの頃の二〇三号室には、ちょっと不気味な噂があったんだよ」
「不気味な、噂……?」
橘平は喉をゴクリと鳴らし、目の前に置かれた黄色く変色したファイルを見つめた。明石は煙草を咥えたまま、低い声で言葉を続ける。
「あの夫妻が入居した直後のことだ。旦那さんは大学の研究やら出張やらで、家を空けることが多かったんだ」
「てことは、絢子さんはほとんど一人で部屋に?」
「そうだ。で、奥さんが一人で留守番をしている夜、不審な男が二〇三号室の周りをウロウロしているって近所から警察に通報があったんだよ」
橘平の背筋に、サーッと冷たいものが走った。
「ストーカー……ですか?」
「当時は『訪問販売のしつこい営業』だの『空き巣の下見』だのと言われて処理されたがな。だが、近隣トラブルをまとめたメモをよく読んでみろ」
明石に促され、橘平は焦る手つきでファイルを捲った。
そこには手書きの乱雑な字で、当時の管理人が残したと思われるメモが挟まれていた。
『〇月〇日 二〇三号室奥様より相談。夜間にインターホンを何度も鳴らされるとのこと。防犯カメラ設置を要望されるも、予算の都合で却下』
『〇月〇日 隣室(二〇二号)より騒音苦情。二〇三号室のドアを強く叩く音が夜中に響いていると連絡あり』
「ドアを……強く叩く音……」
消える直前、絢子が漏らした『誰かが……扉を……』という苦悶の言葉が、橘平の脳裏で鮮明に蘇る。
「さらに変なのはここからだ」
明石がファイルのページを一枚捲り、赤ペンで囲まれた部分を指差しした。
「事故が起きたあの日、旦那さんは学会で東京に出張中だった。つまり、奥さんは完全に一人だったはずなんだ。なのに、事故の直前に『二〇三号室から男女が激しく言い争う声を聞いた』っていう住民の目撃証言がひっそり残ってる」
「男女の言い争い……! じゃあ、やっぱりあの夜、絢子さん以外に誰かが部屋の中にいたってことですか!?」
「警察も最初は事件性を疑ったらしい。だがな、部屋に荒らされた形跡も連れ去られた形跡もなかった。ドアも鍵が掛かってねぇで、ただ土鍋がひっくり返っていただけ。おまけに、事故現場の交差点には目撃者もおらず、防犯カメラの死角だった。結局『一人でパニックになって飛び出し、運悪く車にはねられた不慮の事故』ってことで片付けられちまったんだ」
明石は溜息を吐きながら、カウンターに肘をついた。
「だが、お前さんの話を聞いて納得がいったよ。傘もささず、スリッパのまま雨の中に飛び出したってのは……その『男』からなりふり構わず逃げ出すためだったんだろう。部屋の中に侵入されたか、ドアを破られそうになったかしてな」
「その男の正体は、入居者リストや防犯の記録に載っていないんですか?」
「残念ながら、当時のアパートには防犯カメラなんてなかったし、怪しい男の目撃情報も『トレンチコートを着た男』ってくらいで、顔も名前もさっぱりだ。ただ……」
明石は一瞬だけ言葉を詰まらせると、気まずそうに目線を泳がせた。
そして、周囲に誰かが潜んでいないか確かめるように狭い店内にサッと視線を走らせる。カウンター越しに橘平へぐっと顔を近づけ、さらにトーンを落とした掠れ声で言った。
「一つだけ、気味の悪い特記事項がある。事故の後、旦那さんが部屋を引き払うまでの数日間、二〇三号室のポストに、差出人不明の封筒が投函されていたらしい」
「封筒? 中身は何だったんですか?」
「管理会社が不審に思って警察に届け出たらしいが……中に入っていたのは、破かれた『家族写真の切り端』だったそうだ」
「っ……!」
橘平は喉の奥が引き攣るのを感じ、呼吸することすら忘れて呆然と立ち尽くした。
脳裏に過ったのは、二〇三号室の暗闇の中、あの冷え切った畳の上に残されていた一枚の家族写真だ。
絢子の優しい笑顔の隣にあったはずの、夫の存在。そこだけがまるで爪を立てて引き千切られたかのように、不自然に毟り取られていたあの惨痛な痕跡。
橘平はこれまで、あれを事故の混乱や未練の深さゆえに、錯乱した絢子自身が破いてしまったものだと思い込もうとしていた。
だが、違ったのだ。
あれは絢子が破ったものでも、夫婦のすれ違いが生んだ悲劇の痕跡でもない。
彼女の平穏な日常を容赦なく踏み躙り、土砂降りの雨の中へと追い詰めて死に至らしめたあの正体不明の『男』が、絶望と粘着質な悪意を込めてポストに投げつけていった凶器そのものだったのだ。
「そんな……じゃあ、あの写真は……」
拳を強く握り締めると、爪が掌に食い込み、ジワリとした痛みが走る。
愛する夫と過ごした思い出の品にまで、死後なお他人の狂気がへばりついていたという事実に、橘平の背筋を吐き気すら伴う猛烈な寒気が駆け抜けていった。
「雨の日に扉を叩いた男」
「逃走の末のひき逃げ事故」
「切り取られた夫の顔」
全ての点が、急速に一つへと繋がり始めていた。
「……言っておくが、これは四年前の終わった話だ。相手が誰であれ、警察だって手出しできなかったんだぞ。これ以上調べるのは、本当に危険だ」
明石の懸念が籠もった視線を受け止めながら、橘平はファイルをしっかりと閉じ、深く頭を下げた。
「明石さん、本当にありがとうございました。……俺、よいまち荘に戻ります」
「おい、待て!」
明石の制止を背に受けながら、橘平は店を飛び出した。
手に入れた新たな真実の欠片を握り締め、二〇五号室で待つヨイの元へ向かって、橘平は夕暮れ立ち込める街を走り出した。




