分かれは必然・1
橘平は二〇三号室の扉ノブに手を掛け、ゆっくりと押し開けた。
暗闇の中、ちゃぶ台の向こうで静かに肩を寄せ合う二人がいる。
男の手元で微かに揺れていた赤い糸の光が、ゆらゆらと弱まり始めている。神代の言っていた「数時間」の終わりが、容赦なく近づいていた。
「……すみません、少し良いですか」
橘平の控えめな声に、二人が顔を上げた。男の顔には満ち足りたような、けれど別れを予感した切ない表情が浮かんでいる。
「絢子さん。最後にもう一つだけ、聞かせてほしいことがあります」
「なんでしょう」
橘平は二人を交互に見つめ、慎重に言葉を選んだ。
「あなたが……その、亡くなる直前のことについて、何か覚えていることはありませんか? どうしてこの二〇三号室にいたのか。どんな風に、あの写真を破ったのか」
その問いが空気中に落ちた瞬間、絢子の柔らかな表情がピキリと凍りついた。
「え……?」
絢子の瞳の奥に、急速に深い闇のような困惑が広がる。
「私……私、あの日は……確か、あなたに……暖かいご飯を……作ろうとしていて……」
突然、絢子は喉を詰まらせるように言葉を途切らせ、激しく胸元を押さえた。その透き通るような肌の奥から、脈打つように禍々しい黒い影が透けて見え、息を吸うことすら苦しそうに肩を上下させる。
「でも……雨が降っていて……誰かが……違う、私は……どうして……っ」
「絢子? どうしたんだい!?」
男が狼狽えて絢子の肩を抱き締めた。
絢子の胸元を押さえる手が激しく震え、彼女の身体の輪郭が、まるで蜃気楼のように青白くブレ始めた。
思い出そうとすればするほど、彼女の存在を繋ぎ止めている「記憶」そのものが拒絶反応を起こしているかのように。
「あ……頭が……痛い……。誰かが……扉を……」
「絢子! もういい、思い出さなくていいんだ!」
男が叫ぶ。だが、それと同時に――手鏡の上の赤い糸が、プツリと静かな音を立てて断ち切れた。
「……あ」
途端に、絢子の身体が足元から、まるで水に溶け出す絵の具のように急速に透明感を増していく。
畳を踏みしめていたはずの確かな実体が、光の粒子となってハラハラと空間へと解けていき、彼女をこの現世に引き留めていた最後の重みが、一瞬の内に失われていった。
「絢子……? 嫌だ……絢子! 行くな! 行かないでくれ!!」
男はなりふり構わず絢子を強く強く抱き締めようとした。
けれど、ぎゅっと力を込めた男の両腕は、何もない虚空を強く抱き締めるだけ。
温もりも、肉体の重みも、衣服の感触すらも。
あまりにも呆気なく、まるで最初から何もなかったかのように消え去っていた。
「あ……あ……絢子っ!」
闇に包まれた二〇三号室に、男の悲痛な絶叫だけが空しく響き渡る。
足元には、切れた赤い糸と、冷たく冷え切った土鍋だけが残されていた。
*
すっかり日が昇り、二〇三号室にはカーテンの隙間から眩しい朝光が差し込んでいた。
男は魂が抜けたような顔でちゃぶ台の前に座り込み、橘平の手配で迎えに来た不動産屋の明石に促され、力なく立ち上がった。
「長谷川君……ありがとう。一瞬でも……彼女に会わせてくれて」
「いえ⋯⋯」
「私は、もう一度、あの日の事故のことを調べてみるつもりだ。彼女が何を言おうとしていたのか。私自身も、何も知らなさすぎたのかもしれない」
明石に付き添われ、憔悴した背中でよいまち荘を去っていく男の後ろ姿を、橘平は見送った。
残された二〇三号室の畳の上。
橘平は静かにしゃがみ込み、神代の借りた手鏡と、半分破られた家族写真を見つめた。
――『誰かが……扉を……』
消える直前、絢子が漏らしたあの途切れ途切れの言葉。
単なる不慮の交通事故死では説明のつかない、重く冷たい違和感が胸の奥に澱のように溜まっていく。
「雨の日……誰か……扉……」
橘平は写真を手に取り、力強く握り締めた。
畳の上で写真を握りしめたまま佇む橘平の背後に、足音もなく気配が立ち現れた。
「……随分と、不穏な顔をしとるな」
振り向くと、部屋の敷居に神代が立っていた。
腕を組み、いつもと変わらぬ飄々とした佇まいでありながら、その眼光だけは鋭く二〇三号室の静寂を見抜いている。
「神代さん。絢子さん、消える間際に言ったんです。『誰かが扉を』って。それに、雨が降っていたことも……」
橘平は立ち上がり、握り締めていた写真と手鏡を神代に見せた。
「やっぱり、ただの事故じゃないですよね。絢子さんが自分の名前すら忘れていたのは、死の直前に受けた強いトラウマのせいなんじゃないですか?」
「さてな。ボクらに分かるんは、あの女の記憶に『蓋』がされていたということだけや」
神代は部屋の中へと足を踏み入れ、ちゃぶ台の上に残された冷たい土鍋に視線を落とした。
「事故死した霊が、自分の死を思い出せんで彷徨うことは珍しくない。だが、思い出そうとした途端に存在そのものが拒絶を起こして消えかけた……。あれは忘れてもうたんやない。『思い出さないように隠された』んや」
「隠された……?」
「自分の心が身を守るために閉ざしたんか、あるいは……」
神代は言葉を一度切り、ゆっくりと橘平の目を見つめ返した。
「他人の悪意が、無理やりに閉ざさせたんか」
部屋の中に冷ややかな沈黙が降り立つ。朝の陽光が差し込んでいるはずの二〇三号室が、一瞬で底冷えするような暗闇の気配を取り戻したかのように感じられた。
「旦那は事故やと思い込んどる。警察の処理もそうやったんやろう。……だが、あの女がこの部屋に残り続け、料理を作り続けていた本当の理由は、旦那に会いたいという純粋な未練だけやないかもしれん」
「それって……」
「あいつ自身も気づいとらん『最後の記憶』があるはずや。あの日、この二〇三号室の扉を叩いた『誰か』と、破られた写真の秘密にな」
橘平はゴクリと生唾を呑み込んだ。胸の奥で、ただの怪異への恐怖とは違う、ざらついた使命感が湧き上がってくる。
「……調べます。何があったのか、俺が絶対に突き止めます」
「威勢がええな」
神代は小さく口角を上げると、橘平の手から手鏡と赤い糸の切れ端をさっと取り上げた。
「なら、まずは『過去』の掘り起こしや。あいつらが住んでいた当時の記録、事故の新聞記事、それからあの明石が知っとる『この部屋の隠し事』な」
神代は翻り、廊下へと向かいながら肩越しに言った。
「覚悟しとき。ここから先は、ただの綺麗な感動話や済まへんぞ」
*
二〇三号室に残された道具を抱え、橘平は重い足取りで二〇五号室の扉を開けた。
畳の匂いと仄かな香の香りが漂う室内では、ヨイが静かに座布団の上にちょこんと座っていた。橘平の姿を認めると、その大きな瞳を少しだけ丸くし、小さく首を傾げる。
「ただいま、ヨイ」
「……う」
ヨイはパタパタと駆け寄ってくると、橘平の顔を心配そうに覗く。
沈む気分を悟られないように小さく笑みを見せると、触れられもしないのにヨイの頭を撫でる仕草を見せる。
橘平は畳みに腰を下ろすと、抱えてきた道具の中から、手鏡と破れた家族写真を慎重に並べた。そして、適当に置かれていたノートを広げ、財布から十円玉を取り出す。
「ヨイ、少し力を貸してほしいんだ。二〇三号室の絢子さんのことなんだけど」
「ん」
ヨイは無言で頷くと、すっと膝を進め、畳の上に座り直す。
橘平とヨイは、互いの人差し指を十円玉の表面にそっと重ねた。金属のひんやりとした感触が指先に伝わる。
「さっき、旦那さんと絢子さんは無事に会えたんだ。……でも、絢子さんが亡くなった時のことを思い出そうとした途端、記憶が拒絶を起こして、そのまま消えちゃったんだよ」
橘平の言葉を聞きながら、ヨイは真剣な眼差しで写真を見つめている。
「消える直前、絢子さんは『雨が降っていた』『誰かが扉を』って言っていた。ただの事故死じゃないかもしれない。ヨイ……もし仮に君がずっと前からここにいるとして、俺が来る前の絢子さんが生きていた時のことを何か知らない?」
話を聞いていると、絢子は数年前からずっと二◯三号室で誰かの帰りを待っていた。つまり、その頃に亡くなってから今まであの部屋に留まっているということだ。
仮に、ヨイがこの二◯五号室に何年と住み着いているとすれば、生前の絢子達のことを何か知っているかもしれない。
そう考えた橘平が問いかけると、指の下の十円玉が、ぬうっと吸い付くように滑り始めた。
すぅーっ、と滑らかな軌を描き、文字の上を跳ねていく。
『つ』『め』『た』『い』
「冷たい……? 絢子さんの雰囲気が、ってこと?」
「ん」
ヨイは短く喉を鳴らして小さく頷くと、黒目を勝ち誇らせた瞳でじっと紙面を見つめた。
再び指先に力を込めると、ちゃぶ台に置かれた十円玉が、まるで意志を持った生き物のように滑らかな軌を描き始める。
橘平の指を引っ張るようにして、ひんやりとした金属が吸い付くように紙の上を滑っていった。
『あ』『く』『い』
「悪意……?」
橘平は背筋に冷たいものが走るのを感じた。
「事故の恐怖や未練じゃなくて、誰かの悪意がそこにあったってこと? 絢子さんは、誰かに襲われたり、事件に巻き込まれたりしたってことなのか……!?」
静まり返った部屋の中で、紙と金属が擦れ合うかすかな音を立てて、十円玉が滑るように再び動き出した。
『お』『と』『こ』
「男? 事故の日の『誰か』が男だったのか、それとも……」
そこまで文字を辿ったところで、十円玉がぴたりと動きを止めた。
ヨイは十円玉から指を離すと、じっと橘平の顔を見つめ、破れた写真の「切り取られた夫の顔」の部分を小さな指先でぽんと叩いた。
「この、破れた写真。半分破れていたのも、その『男』の悪意と関係があるのかな」
「……う」
ヨイは短く返事をし、悲しげに眉を下げた。言葉を発することはできなくても、彼女の霊的な感性は、二〇三号室に漂っていた残滓の中に凄惨な「真実の欠片」を感じ取っていたようだった。
「雨の日。扉を叩いた男。破られた写真……」
橘平は紙に書き留めた言葉を見つめ、固く拳を握り締めた。
温かな再会の裏に隠されていた暗い闇。教室内や大学の資料、あるいは不動産屋の明石から、当時の事件や事故の記録を本格的に洗う必要があると、橘平は確信していた。
「あのさ、ヨイ」
橘平はそっと十円玉に指を戻し、ヨイの顔を見つめた。ヨイも察したように、細い人差し指を硬貨の端に添え直す。
「その『男』って旦那さんじゃないよね?」
橘平の指の下で、十円玉が僅かに震えた。
そして、迷いのない素早い動きで紙の上を横滑りしていく。
『い』『い』『え』
「そっか。やっぱり」
橘平は胸を撫で下ろすと同時に、より深い謎の泥沼にはまり込んでいく感覚を覚えた。
昨夜、妻の名前を叫び、あの細い赤い糸を泣き出しそうな顔で握り締めていた男の姿。あれが演技だとはどうしても思えなかった。彼は本当に妻を愛し、死の真相も知らぬまま何年間も探し続けていたのだ。
「じゃあ、旦那さんじゃない『別の男』が、あの雨の日に二〇三号室の扉を叩いたのか」
ヨイはこっくりと頷くと、十円玉からすっと指を離した。
そして、何やら思い出したようにぽてぽてと部屋の隅へ歩いていくと、押入れの影から一冊の古びた文庫本を持ち出してきた。
「ん」
差し出された本を受け取ると、それはよいまち荘の周辺地域に関する古い伝承や歴史が記されたローカルな郷土誌だった。
ヨイは小さな指先で、本の一ページをぽんぽんと叩く。そこには、数年前の夕待ち荘周辺の地図と、当時の近隣住民達の暮らしについての小さなコラムが載っていた。
「これ、よいまち荘が建った頃の記録?」
「う」
「ヨイは、あの部屋に誰が出入りしていたかまでは分からないんだよな」
「ん……」
ヨイは申し訳なさそうに少し眉を下げ、首を横に振った。
座敷童子のように部屋に憑く霊であるヨイにとって、他人の部屋の細かい事情や『外から来た人間』の生前の詳細までを完璧に把握できるわけではないのだろう。
それでも、残された霊的な気配から「悪意」や「男」といった決定的な手がかりを感じ取り、こうして提示してくれたのだ。それだけでも十分すぎる収穫だった。
「ありがとう、ヨイ。十分だ」
橘平が微笑むと、ヨイの表情がぱっと華やぎ、嬉しそうに「う!」と声を上げた。
橘平はノートを閉じ、ポケットからスマートフォンを取り出した。
画面には、以前連絡先を交換した不動産屋の明石の番号が表示されている。
雨の日。
二〇三号室の扉を叩いた謎の男。
切り取られた写真の半分。
そして、何食わぬ顔で処理された『事故』という結末。
(まずは明石さんに連絡して、当時のよいまち荘の入居者リストと、二◯三号室の過去のトラブルの記録を見せてもらおう)
さらに、大学での講義や資料室を自由に使える立場を生かし、当時の新聞記事や警察の発表データも調べる必要がある。「サークルの調査」と適当な理由をつけて巻き込めば、図書室のマイクロフィルム捜索も捗るはずだ。
「よし……行こう」
橘平は立ち上がり、力強く拳を握り締めた。
二〇三号室で聞いた絢子の悲痛な叫びと、残された男の切ない後ろ姿。ふたりの止まったままの時間を本当の意味で動かすために、橘平は静かな暗雲の立ち込める『過去の真相』へと、一歩を踏み出すのだった。




