君の味・4
暗闇の中で浮かび上がった絢子の姿に、男は言葉を失っていた。
「……絢子……本当に、絢子なのか……?」
震える声で呟きながら、男は吸い寄せられるように膝をついて手を伸ばした。
先ほどまでは虚空を掻くだけだったその手が、今度はしっかりと、彼女の肩の温もりに触れた。
「あ……」
絢子の目から、温かな涙がボロ粒のように零れ落ちる。
「あなた……」
「絢子……! 絢子……っ!」
男は感情を爆発させ、溢れ出る涙も構わずに彼女の身体を強く抱きしめた。
絢子もまた、愛おしそうに夫の背中に手を回す。すり抜けることのない、確かな重みと存在感。二人を繋ぐ赤い糸が、静かにその手元で優しく弛んでいた。
何年もの間、互いを探し求め、すれ違い続けてきた二人の時間が、今確かに動き出したのだ。
「すまないっ、ずっと探していたんだ! 私が、あの時……もっと早く!」
「いいのよ、あなた。私は、ずっとここにいたわ。あなたが、帰ってくるのを……ずっと待っていたの」
泣きじゃくる夫の髪を、絢子は昔と変わらない優しい手つきで撫でた。
橘平は壁際に佇んだまま、静かに息を潜めていた。
自分がここに立ち会えている奇跡と、切ないほどの温かさに胸が熱くなる。邪魔にならないよう、ゆっくりと二〇三号室の扉を開け、そっと廊下へ出ようとした。
その気配に気づいた絢子が、夫の肩越しに橘平へ視線を向けた。
彼女は涙を浮かべた瞳で、深く、心からの感謝を込めて橘平に頭を下げた。言葉はなくとも、「ありがとう」という声が確かに聴こえた気がした。橘平もまた、静かに微笑んで小さく頷き返し、扉を静かに閉めた。
廊下には、静けさが満ちていた。
橘平は壁に背をもたれかけ、ゆっくりと息を吐き出す。
「……良かった」
ポツリと漏らした言葉は、薄暗い廊下に優しく溶けていった。
部屋の中では、ふたりだけの奇跡のような時間が流れていた。
暗闇の中、ちゃぶ台を挟んで向かい合うふたり。
男は絢子の手を両手で包み込み、まるで夢が覚めてしまうのを恐れるように、何度もその温もりを確かめていた。
「料理、とても美味しかったよ。あの煮物の味だ」
男が涙を拭いながら微笑むと、絢子はくすりと可憐に笑った。
「ふふ、あの男の子に手伝ってもらったのよ。あなたったら、相変わらず料理の名前も覚えていないんだから」
「言い訳できないな。だが、一口食べた瞬間に分かった。君の味だって」
絢子は嬉しそうに目を細め、部屋の中を見渡した。
「この部屋、少し狭いけれど何処か懐かしい匂いがしたの。だから私、ここでずっと、あなたのためにご飯を作っていたのかもしれないわね」
「ああ。君は昔から、一生懸命だったから」
男は目を細め、包み込んだ絢子の細い手首にそっと指先を重ねた。愛おしそうにその温もりを確かめる男の顔には、何年ぶりか分からないほど穏やかな笑みが浮かんでいる。
「寂しい思いをさせて、本当にすまなかった。……君を失ってから、私の時間は止まったままだったんだ」
「ううん。こうしてまた……あなたに『おいしい』って言ってもらえた。それだけで、私の暗かった時間は全部、報われたわ」
二人は、ポツリ、ポツリと言葉を紡ぎ落とすように語り合った。
出会った頃の青く甘やかな思い出。二人で狭いアパートの台所に立ち、笑い転げながら焦がした最初の料理。喧嘩をした次の日の、少し気まずい朝食の風景。
記憶の底に沈んでいた愛おしい日々の欠片を、ひとつひとつ手繰り寄せるたび、暗闇の中に穏やかなぬくもりが満ちていく。まるで、止まっていた時計の針が、静かに音を立てて再び刻み始めたかのようだった。
数年間埋まることのなかった空隙が、言葉と温もりによって、ひとつひとつ愛おしく埋められていく。
束の間の、けれど何物にも代えがたい幸福な時間が、静かに二〇三号室を満たしていた。
男の手元で、赤い糸がほんの少しだけ、光を帯びて揺れている。
男は包み込んだ絢子の手の甲に、そっと額を押し当てた。
指先から伝わってくる肉体の確かな温度、微かな脈動、そしてあの頃と少しも変わらない、日向のような優しい匂い。どれもが、何年間も死に物狂いで追い求め、二度と触れることは叶わないと諦めかけていた愛しい妻のものだった。
「夢じゃないんだな。こうして君に触れて、声を聞いて……笑い合えるなんて」
「ええ、夢じゃないわ。私は今、ちゃんとここにいるわよ」
絢子は空いている方の手で、愛おしそうに夫の目元に浮かぶシワを優しく撫でた。
歳月が夫の顔に刻みつけた傷痕や疲労の陰りを、ひとつひとつ愛でるように指先で辿っていく。
「あなた、少し痩せたかしら。髪も少し白くなったのね」
「歳をとったんだよ。君を置いて、私だけが勝手にね」
「ううん。とても素敵よ。私が好きになった頃より、ずっと大人で……かっこいいわ」
ふふっ、と少女のように無邪気に笑う絢子に、男も思わず吹き出した。
かつて二人で暮らしていた小さな部屋でも、こうしてくだらないことで笑い合い、夜遅くまで語り明かしたものだった。失われたと思っていたあたたかな日常が、いま奇跡のようにこの二〇三号室で復元されている。
「覚えているかい? 最初に二人で作った、あの焦がした肉じゃがのこと」
「勿論覚えているわ。あなたが『香ばしくて美味しい』なんて強がりを言うから、私、おかしくて涙が出ちゃったのよ」
「本当のことじゃないか。君が私のために作ってくれたものなら、焦げていたって何だって美味しかった」
男の言葉に、絢子は胸がいっぱいになったように目を細め、幸せそうに頬を緩めた。
「ねえ、あなた。私ね、ずっと……自分が誰なのかも分からなくて、とても暗くて寒い場所にいるみたいだったの。でもね、台所に立って鍋を握っている時だけは、胸の奥がぽっと温かくなった」
「絢子……」
「今なら分かるわ。私、あなたの『ただいま』を聞くためだけに、ここで料理を作り続けていたのね。身体が消えても、名前を忘れても……あなたを愛していたことだけは、ちゃんと覚えていたの」
真っ直ぐな愛を伝えられ、男の目から再びぽろぽろと大粒の涙が零れ落ちる。
けれど今度の涙は、悲しみや後悔の涙ではなかった。胸の奥を満たす、溢れんばかりの感謝と幸福の涙だった。
「ありがとう、絢子。私を見つけてくれて……待っていてくれて、本当にありがとう」
「こちらこそ、私を思い出してくれてありがとう。……私の名前を、呼んでくれて」
二人は互いの体温を確かめ合うように、再びそっと額を寄せ合った。
ちゃぶ台の上の古い土鍋、家族写真、そしてふたりを繋ぐ細い赤い糸が、闇の中でかすかに黄金色の温かな光を帯びて揺れている。
時の流れさえ止まったかのような静けさの中で、二人はただただ微笑み合い、何年間もの孤独を埋め尽くすように、溢れるほどの愛おしい言葉を交わし続けた。
それは間違いなく、ふたりにとって人生で最も幸福で、美しい時間だった。
*
「上手くいったみたいやなぁ」
穏やかに澄んでいた心の奥底が掻き乱されたのは、その声を聞いた瞬間だった。
「さて、そろそろ本題にいかんと」
「⋯⋯やっぱり、いつまでも二人でいることはできないんですね」
「そりゃあな。相手は何年も前に死んでるんやから」
神代は廊下の薄闇の中で、何処か遠くを見るような目をしていた。
二〇三号室の扉の向こうからは、今も微かに二人の温かな話し声が漏れ聞こえてくる。だが、その声が聞こえれば聞こえるほど、橘平の胸は締め付けられるように重くなっていった。
「降霊は、ただの『お別れの時間』を作るための猶予に過ぎん。あいつの未練が果たされれば、その瞬間に引き留める糸は切れる」
「分かってます。でも、あんなに嬉しそうに笑ってる二人を見てたら……」
「未練、か」
橘平の言葉を遮るように、神代がぽつりと呟いた。
その声に含まれた妙な冷たさに、橘平は思わず息を呑む。
「死の、真相……」
橘平は喉の奥を締め付けられるような感覚を覚えながら、その言葉を反芻した。
事故で命を落とし、未練を残してこのよいまち荘に留まっていた。
あるいは、何かを患っていて亡くなってしまった。理由ならばいくらでも考えられる。
だが、何故彼女は二〇三号室だったのか。何故夫の顔だけが写真から切り取られていたのか。どのような経緯で彼女は命を落とすに至ったのか。
橘平は彼女の「死」について、何一つ具体的な事実を知らないのだと、今更ながら突きつけられていた。
「神代さん。絢子さんは、本当はどうして亡くなったんですか?」
「それを探るんが、お前の役目やろ」
神代はそっけなく言い捨てると、畳みかけるように視線を強めた。
「事故なんかもしれん。事件なんかもしれん。ただの悲劇か、それとも誰かの悪意か……何も分からん。だがな、あの写真が破られた理由も、記憶が歪んだ原因も、全ては『あの日』に隠されとる」
「……っ」
「夫婦の手が温もりを交わしとる今の内に、お前が引き剥がされた真実の頁を拾い集めるんや。あいつの未練を本当の意味で解き明かさへん限り、あれはただの『束の間の夢』で終わってしまうで」
橘平は深く、深く息を吐き出した。
拳をギュッと握り締めると、二〇三号室の扉を見つめ返す。
扉の向こうでは、今も夫と絢子の穏やかな声が続いている。
もし真相を暴くことが、二人にとって残酷な痛みを伴うものだとしたら――。一瞬の逡巡が頭を過る。けれど、自分が動かなければ、彼女の魂は永遠に真実の暗闇に取り残されたままだ。
「……やってみます」
橘平の口から出た声は、小さかったが確かに力強さを帯びていた。
「絢子さんが本当に救われるなら……俺、調べてみます。あの日、二〇三号室と彼女に何があったのか」
神代は橘平の瞳に宿った決意を感じ取ると、満足そうに鼻を鳴らした。
「ええ顔になったやないか。なら、まずは『生者』の側から固めていくで。あの旦那が知らんこと、忘れてること、隠しとること……探るべき手がかりは、いくらでもあるはずや」
扉の向こうから聞こえる幸せそうな笑い声が、途端に切なく、そして何処か危険な儚さを帯びて橘平の耳に響き始めた。




