君の味・3
二〇三号室の扉を開けて戻ると、男はまだちゃぶ台の前にぽつんと座っていた。
女性も少し離れた台所の脇に佇み、いつ消えてしまってもおかしくないほどの頼りない気配で佇んでいる。
男は橘平の慌ただしい足音に気づくと、破滅的な希望と拭えぬ不安が複雑に混ざり合った、縋るような顔を上げた。
「何か、分かりましたか?」
「はい」
橘平は乱れた呼吸を必死に整え、真っ直ぐに男の目を見つめた。
「話せます」
「……え?」
「話せるんです。貴方が、奥さんと。直接、その目で見て……声を聞いて」
男の表情が完全に凍りついた。まるで理解が追いつかないかのように、固まっている。
台所にいた女性も大きく息を呑み、橘平の方へ弾かれたように視線を向けた。
「ほん……本当に……!?」
男が勢いよく立ち上がった。畳が軋む音が静寂に響く。
「どうすればいいんですか……! 私に、何ができますか!?」
「その前に」
橘平は一呼吸置き、静かに女性へ視線を向けた。
「少しだけ、準備が必要です」
橘平は脳裏で、先ほど神代の部屋で畳みかけるように叩き込まれた儀式の理を反芻した。
――依代に必要なんは、三つや。
――まず一つ。姿。
――写真でも、絵でもええ。その人が、その人であったと証明できる記憶の結晶。
橘平は部屋の隅、先ほど男に見せたあの古い写真へと視線を滑らせた。
夫の顔が破れて失われた、古びた家族写真。あれこそが、彼女が記憶を奪われながらも死してなお守り続けていた「姿」の象徴だった。
――二つ目。本人の持ち物。
――長く使っていた物がええ。本人の記憶と想いが染みついとるほどな。
続けて視線を台所へと移す。
煮物が盛り付けられ、微かに甘辛い湯気を残しているあの古い土鍋。長年の生活と彼女の掌のぬくもりが染みついた、確かな「記憶」の器。
――そして、三つ目。縁や。
――生きてる人間との繋がり。互いを強く想い合う糸や。
橘平は目の前で肩を激しく震わせる男を見た。
妻を突如失い、罪悪感と愛おしさに苛まれながら、何十年という孤独な月日の中で彼女を探し続けてきた人。
姿。
記憶。
縁。
その全てが、奇跡という言葉では片付けられないほどの精度で、この薄暗い二〇三号室に揃っていた。
「……全部、ある」
思わず、橘平の口から漏れ出すような呟きが溢れた。
「何があるんですか?」
男が身を乗り出し、食い入るように尋ねる。
橘平はハッとして男に顔を向けると、苦笑いを浮かべてまた顔を逸らした。
「いえ、こっちの話です」
女性が何処か不安そうに、助けを求めるような眼差しで橘平を見つめていた。橘平は胸の奥の緊張を押し殺し、包み込むように優しく笑ってみせた。
「大丈夫ですよ」
女性の透き通るような目が、大きく見開かれる。
「ちゃんと会えます」
「……っ」
「ただ」
橘平はゆっくりと、確かな覚悟を込めて男へ向き直った。
「一つだけ、どうしても必要なことがあります」
「何でしょう。何でも言ってください。私にできることなら何でもします!」
「奥さんの名前を教えてください」
男がハッと息を呑んだ。刹那、部屋の中を重く静かな沈黙が支配する。
やがて、男は溢れ出しそうになる涙を必死に堪えるようにゆっくりと目を閉じ、喉をひくつかせながら、絞り出すような声で口を開いた。
「……妻の名前は」
男の唇が、情けなく震える。
「――絢子。……絢子です」
その名前が、二〇三号室の静寂の中にぽつりと落ちた、まさにその瞬間。
「……っ!」
台所に立っていた女性が、激しく胸元を押さえた。
そして、これまで一度も見せたことのない、深く、愛おしく、痛切な表情で男を見つめた。
橘平には、はっきりと分かった。
この名前を自分が誰なのかすら忘れ、言葉さえ失っていた彼女は、しっかりと覚えていたのだ。
記憶の底、一番深い暗闇の中で、ずっとずっと大切に守り続けていた。この人に、もう一度呼ばれるためだけに。
「聞こえましたか?」
橘平が優しく尋ねると、女性の目から大粒の涙がぽろぽろと零れ落ち、畳の上に小さなシミを作っていった。
そして、彼女は愛おしさに胸を締め付けられながら、小さく、けれど固く頷く。
橘平は胸の中に溜まっていた息を大きく吐き出すと、神代から預かってきた小さな小箱を開け、道具類をちゃぶ台の脇にそっと並べた。
「始めましょう」
橘平の静かだが芯のある声に、男がゴクリと生唾を呑み込んだ。
「これから、部屋の電気を完全に消します。どんなに暗くなっても、どんな音が聞こえても、俺が合図するまでは絶対に動かないでください」
「あ、はい」
「そして、何があっても、最後まで奥さんのことを想い続けてください」
男は涙を拭い、力強く頷いた。
橘平は壁際へと歩み寄り、スイッチに手を掛けた。パチン、と乾いた音が響き、照明が落ちる。
途端に、二〇三号室は濃密で底知れない暗闇に包み込まれた。外から差し込むはずの街灯の光すら、分厚い遮光カーテンによって完璧に遮断されている。
静寂の中で、橘平の目が少しずつ暗闇に慣れていく。
息を殺し、神代に教わった手順を一つずつ、指先の感覚だけを頼りに慎重に進めていった。
まず、ちゃぶ台の真ん中に薄い和紙を静かに広げる。
その上に、破れたあの古い家族写真を、折れないよう大切に重ねた。
さらにその上へ、台所から両手で運んできたあの古い土鍋を、重石のようにしずしずと配する。
(姿。記憶。そして――)
橘平は漆黒の闇の中、男のいる気配を探してそっと手を伸ばした。
「手を出してください」
「……こう、ですか」
暗闇の中で触れ合った男の手は、氷のように冷たく、痛いほど震えていた。橘平はその冷え切った掌に、神代から受け取った細い一本の赤い糸を握らせる。
「その糸の端を、指に巻きつけて固く握っていてください。……何があっても、絶対に離さないでくださいね」
「分かり、ました。絶対に離しません」
橘平は糸のもう片方の端を静かに引きながら、ゆっくりと台所の方へと足を進めた。
暗闇の隅で、ぼんやりと淡く青白く揺らめく影――絢子が立っている。
「絢子さん」
橘平が優しく呼びかけると、青い影がびくりと肩を揺らした。
橘平は赤い糸の端を絢子の透けた手元へとそっと誘い、その細い指に絡ませた。そして、あらかじめ用意していた手鏡をちゃぶ台の和紙の横――生者と死者、二人の視線が交差する真ん中に静かに配置した。
姿。記憶。縁。
三つの不壊の鎖が、いま確かに二〇三号室の暗闇の中でひとつに繋がった。
「準備が、できました」
橘平はちゃぶ台からゆっくりと数歩下がり、気配を消すように部屋の壁際へと身を寄せた。
「教授。もう一度、奥さんの名前を呼んでください」
重苦しい静寂が部屋を支配する。
男の荒い息遣いと、糸を固く握り締める衣擦れの音だけが、やけに鮮明に響いていた。
男は暗闇の向こう、誰も見えないはずのちゃぶ台の対角を見つめている。
一度、ゴクリと喉を大きく鳴らし――肺いっぱいに空気を吸い込んだ。
「……あやこ」
震える声が、闇の静寂を破って落ちる。
「絢子……! 絢子、そこにいるんだろう……!?」
その切切とした叫びが空間を揺らした、まさにその瞬間。
和紙の横に置かれた手鏡が、微かにキィンと高い鈴の音のような共鳴音を立てて震え始めた。
鏡面に集まった僅かな闇の光が、乱反射するようにパッと眩しく弾ける。
「……ッ!?」
男が息を呑むと同時に、指に巻きつけられた赤い糸が、ピンと一直線に力強く引き締まった。
ちゃぶ台の向こう側。
何もないはずの虚無の暗闇に、ぽつり、ぽつりと、温かな金色の光の粒が集まり始めていた。
最初は、ただのぼやけた光の輪郭に過ぎなかった。
けれど、男が溢れ出る涙もそのままに糸を握り締めて「絢子」と心の中で叫び続ける度に、その光は加速的に密度を増していく。
足元から、ゆっくりと立ち上がっていく光の束。
柔らかなワンピースの裾。繊細で美しい手首。
そして、少し照れたように、けれど愛おしそうに眉を下げた、一人の女性の顔が。
透けることのない、確かな質量と温もりを持った「実体」として、暗闇の中に鮮やかに浮かび上がった。
「……あ」
男の手から、ポロリと大粒の涙が零れ落ちる。
「あ……あぁ……っ!」
そこに立っていたのは、何年間も夢に見続け、探し続けていた、あの頃のままの妻の姿だった。
絢子はゆっくりと瞼を開けると、まずは自分の実体化した両手をもどかしそうに見つめ、それから目の前に座り込む夫へとゆっくりと視線を向けた。
今度は、手はすり抜けない。
今度は、しっかりと見えている。
「……あなた」
何年間もの長い沈暮を破り、初めて、はっきりとその唇から、優しく温かな声が部屋いっぱいに溢れ出た。




