君の味・2
男は、涙でぐしゃぐしゃになりながら料理を食べ続けていた。
「……おいしい」
何度も、何度も、絞り出すようにそう呟く。
その声を聞く度に、女性の顔には可憐な笑顔が咲き誇った。けれど、それだけだった。
「違う」
女性がぽつりと、寂しげに呟いた。
橘平がハッとして振り返る。
「どうしたんですか?」
女性は必死な目で男を指差し、それから自分の胸元を指で突いた。
「ここ」
何かを伝えたい。声にならない声が、痛いほど伝わってくる。
女性はあやふやな足取りで男へ駆け寄った。すぐ目の前に屈み込み、必死に両手を伸ばす。
けれど、その手は無情にも、男の肩をすり抜けた。
「……っ!」
女性は何度も、何度も手を伸ばした。
男の肩へ。濡れた頬へ。愛おしい髪へ。けれど、どれだけ伸ばしても指先は虚空を掻くだけだった。男には何も触れないし、何も見えてはいない。
「ここよ……!」
女性の声が、切なく震える。
「私、ここにいるわよ……! あなた……!」
女性は必死に叫び、男に気づいてもらおうとした。それなのに、その声が聞こえるのは橘平だけ。
人ならざる者の声でしかないはずなのに、どうしても見ていられない。
それはきっと、一字の衝動で母に反抗して家を出たのに罪悪感を感じているからか。
橘平は女性に母親の面影を重ねていたのかもしれない。
そんな事を考えながら歯痒さを感じていると、ある時男がハッと顔を上げた。
「……?」
当然、視界には誰も映らない。けれど、何か温かな気配に呼ばれたような気がしたのか、男は戸惑うように誰もいない室内を見回した。
「何か、ありましたか?」
「いえ……」
橘平の問いに、男は少し悲しげに首を振った。
「何でもありません。何か、懐かしい声が聴こえたような気がして……」
その言葉は、越えられない現実の壁を痛いほど思い知らせるものだった。
どれだけ訴えても最愛の夫に気づいてもらえない。届かない。
女性は苦痛に満ちた表情で、伸ばしていた手を力無く落としてしまった。
「いるのに……」
ぽつりと、掠れた声が冷え切った部屋に落ちる。
「ここに、いるのに……っ」
女性はその場にしゃがみ込み、透けた両手で顔を覆った。
橘平は、血が滲むほど強く拳を握り締める。
(――このままじゃ、ダメだ)
ここまで来たのだ。
諦めかけた未練を拾い集め、奇跡的に二人を同じ部屋に会わせることができたのに。
ただ「姿が見えない」という一点だけで、二人は再び、未来永劫すれ違ってしまう。
「ちょっと待っててください」
玄関口へと走り出した橘平は、二人の方には振り返らずに靴を履く。
背後からは当然と言って良いほど、男の困惑した様子の声が飛んできた。
「え? 何処へ」
「すぐ戻ります!」
呆然とする男を置き去りにし、橘平は二〇三号室を飛び出した。
廊下を足音荒く駆け抜け、向かった先はよいまち荘の大家である神代の部屋。
ドンドンドン! と激しく扉を叩き、そのまま開ける。
「神代さん!」
「なんや、騒々しいな。昼寝の邪魔すな」
いつものラフ過ぎる格好で、神代がめんどくさそうに顔を上げた。
「幽霊を……!」
「ん?」
「幽霊を、普通の人に見せる方法ってありませんか?」
廊下の壁にもたれ掛かっていた神代の顔が、強く引き締まった。
気怠げな様子は消え去り、神代は橘平を射殺さんばかりの眼光で見つめる。
「……誰の話や」
「二〇三号室の人です!」
「あー」
神代は全てを悟ったように、ただでさえ細い目をさらに細めた。
「旦那が来たんか」
「知ってたんですか!?」
「知らん。お前の必死な顔見たら察しがつくわ」
くるりと背を向けると、無言で「上がれ」と圧を掛ける。
橘平は促されるまま部屋に入り、以前のようにちゃぶ台の前に腰を下ろした。
「それで?」
「奥さんが、ずっと旦那さんに何かを伝えようとしてるんです! でも、見えないから……触れられないから、伝わらないんです!」
「なるほどな」
しばらく考える素振りを見せた後、ふっと息を吐くと神代は独り言のように言う。
「方法が、ないわけやない」
「本当ですか!?」
「ただし、生易しいもんやないぞ」
「何でもします!」
橘平は迷いなくそう答えると、身を乗り出して期待に満ちた目を向ける。
神代は一瞬だけ丸く目を見開いた後、面白そうに口元を歪めた。
「……お前、ほんま変わったな」
「え?」
「最初はこのアパートで幽霊見ただけで、腰抜かして泡吹いとったやろ」
「今それ言う必要あります!?」
「まあええわ」
神代は部屋の奥の棚から、漆塗りの古びた小さな小箱を取り出してきた。
「方法としては、依代を作るのが一番手っ取り早いやろうな」
「……よりしろ?」
「亡者の姿を、この現世に一時的に留めるための『器』や」
メジャーなもので言えば、神社などにある御神木。神輿や鏡など。
神霊が寄付いている対象物のことを総じて依代と呼ぶ。
「写真でもええ。衣類でもええ。本人の強い念と姿が残っとるものならな」
「写真……!」
橘平の脳裏に、電撃が走った。
あの写真。二〇三号室のまな板の横に置かれていた、あの切られた家族写真。
あれならば使えるかもしれない。
「あります! 二〇三号室に!」
「なら、それを使えるかもしれん」
「でも、写真を使うとして、どうやってやるんですか?」
神代が箱の蓋を開けた。中には、朱色の文字が書かれた無数の古い札や、紫の絹糸、そして小さな手鏡が入っている。
「姿を写し取るんや」
「写真に、ですか?」
「ちゃう」
神代は指先で手鏡の面をコンコンと軽く叩いた。
「この空間に、や」
ひゅっと息を呑む音が静かな部屋に響いた気がした。
橘平は箱の中を見つめたまま、目を逸らせなくなる。
「依代を触媒にして、本人の魂の輪郭をこの世に実体化させる」
「それって」
「ただし」
神代の声が、氷のように低く鋭くなった。
「その姿を保てる時間は、決して長くはない」
「どれくらい持つんですか?」
「本人の未練と生者への情が強ければ、それなりに保つ。……せやけど」
神代は橘平の目を真っ直ぐに見つめた。
いつもの飄々とした様子は見る陰もない。脅すでもなく、諭すでもなく、ただ本心を見抜こうとする目が鋭く光る。
「未練が完全に消えて満足したら、それでおしまいや」
神代が言わんとすることの意味を、理解できないほど子供ではなかった。
「……それって、つまり……」
「ああ」
神代は静かに、けれど逃げ場のない事実を告げた。
「二人が言葉を交わせる、正真正銘『最後の時間』になるっちゅうことや」
橘平は爪が食い込むほど、膝の上に置いた拳を強く握り締めた。
二〇三号室の女性。
彼女は何年間も、あの暗い部屋で一人で耐えてきたのだ。
もう一度だけ。たった一度だけでいいから、愛した人にその想いを届けるために。
「お願いします」
橘平は神代に向かって、深く頭を下げた。
「その方法を俺に教えてください!」
神代は冷え切った目で橘平を見つめ、やがて「ふっ」と優しく笑った。
タンっと軽い音を立ててちゃぶ台を叩くと、張り詰めていた空気が一瞬にして綻ぶ。
「しゃあないな」
そう言うと、神代は箱から朱色の札を取り出した。
「――最後くらい、ちゃんと男の前に綺麗な顔で見せてやらんと失礼やからな」
橘平は力強く顔を上げ、縋り付くような目で神代を見る。
神代は小箱の中から、ゆっくりと三つの物を取り出した。
一枚の滑らかな薄い和紙。
細く、血のように鮮やかな一本の赤い糸。
そして、縁に古めかしい意匠が施された小さな古い手鏡だった。
「これだけ……ですか?」
「基本はな」
神代は和紙を広げ、ちゃぶ台の上へ滑らせた。
「ただし、依代言うても、そこら辺の紙切れに魂をポイと移せばええっちゅう単純な話やない」
「じゃあ、何が必要なんです?」
「本人に繋がる『三つの鎖』や」
三本立てていた指を二つ折って、まずは一つ目を示す。
「まず一つ目。――『姿』」
「姿……」
「写真でも、絵でもええ。できるだけ本人が生きていた頃の姿を証明できるもんが要る」
橘平の脳裏に、二〇三号室の引き出しに残されていたあの写真が浮かんだ。
「……あの写真、夫がいなかったことにするみたいに破れて半分しか残っていません」
「それでも構わん」
「え?」
「依代に必要なんは、完璧な映像そのものやない。その人が、その時代に、確かに『その人であった』と証明できる記憶の結晶や」
神代は二〇三号室の方角へちらりと目を向け、次に二本目の指を立てた。
「二つ目。――『本人の持ち物』」
「持ち物?」
「生前、長く使っていた物がええ。本人の記憶と魂の匂いが深く染みついとるほどな」
橘平は少し考えを巡らせた。二〇三号室にあった古い鍋、使い込まれた包丁、割れた食器……。
「……古い鍋でもいいんですか?」
「ええんちゃうか」
「適当じゃないですか?」
「ボクかて陰陽道の全知全能やないんやで」
長い前髪の向こう側で、神代はケラケラと笑う。そして最後に、細い赤い糸をすっと持ち上げた。
「そして三つ目。――『縁』や」
「縁……」
「現世に生きてる人間との繋がり。家族でも、友人でも、恋人でもええ。『自分は今もこの人に会いたい』『相手も自分を想ってくれている』と強く惹かれ合う糸や」
運命の赤い糸、というものがある。
決して目には見えないが、何処かにいる運命の人と自分を結ぶもの。
それこそ縁を示すもので、こうしてよいまち荘に橘平が引っ越してきたのも、神代達に出会ったのも、全ては縁によるものなのだ。
「……あの夫(教授)ですね」
「そういうことや」
神代は赤い糸を和紙の上にそっと置いた。
「今回の場合は、あの旦那さんが最高の結び目になる」
神代は三つを順番に並べると、意地の悪い笑みを橘平に向けた。
切り取られた古い家族写真。
ずっと台所にあった古い鍋。
そして、今もなお妻を想い続ける夫との縁。
「この三つを揃えたら、あとは簡単や」
「本当に?」
「ボクが手伝うからな」
「……ですよね」
「お前一人でやらせたら、途中で手順間違えて余計な怪異でも呼び出しそうやしな」
「俺を何だと思ってるんですか」
「幽霊と同居しとる物好きな大学生」
「否定できない……」
橘平が肩を落とすと、神代はくすりと笑った。
けれど次の瞬間、その目がすうっと細くなり、いつになく真面目な雰囲気を纏った。
「ただし」
「はい」
「依代を作る場所は、その亡者が最も強くこの世に執着を遺しとる場所に限る」
「……二〇三号室ですね」
「そうや」
神代は小さく頷くと、畳の上に置かれた小箱へ静かに視線を落とした。その目が、いつになく真剣な色を帯びる。
「まず、部屋の明かりを全部消せ」
「夜じゃないとダメですか?」
「時間帯は関係ない。ただ、余計な光があると霊の輪郭が散ってまう」
神代は広げた和紙の上に手鏡をそっと置き、その周りを指先でなぞるようにしながら言葉を続けた。
「暗闇の中で和紙を敷き、その上に写真を置く。さらにその写真の上に、本人が長く使っていた物を置く」
「鍋ですね」
「そうや。そして、亡者と生者を糸で結ぶ」
「どうやって?」
「旦那さんに、赤い糸の端をしっかりと持ってもらうんや」
神代は手に取った赤い糸を指先に巻きつけ、ピンと張ってみせた。
「えっ、旦那さんにも儀式をやってもらうんですか?」
「当たり前や。依代いうんは、死者一人で作るもんやない」
神代は指先に巻きつけた赤い糸をぐっと両側に引っ張り、橘平の目を真っ直ぐに見つめた。
その目に見つめられ、橘平は思わず息を呑む。
「『会いたい』と願う側と、『会いたい』と待つ側。その両方の強い想いが引っ張り合って初めて、現世に姿が固定される」
「それって⋯⋯」
「片方だけやったら、ただの空っぽの張り子や」
最後に、神代は鏡を和紙の横へ置いた。
「それから、この鏡を使う」
「何に使うんですか?」
「亡者の姿を『定着』させる」
「……鏡なのに?」
「普通の鏡やない」
神代は鏡面を指先でコンコンと軽く叩いた。
見ている文には何の変哲もない鏡。けれど、これからこの鏡には重大な役割が与えられる。
「表面を映すんとちゃう。存在そのものの輪郭を映し取るんや」
神代は手鏡を橘平の前へと差し出した。橘平は眉を顰め、そこに映る自分の顔と、何もない鏡面を交互に見つめる。
「どうやって?」
「本人を鏡の前に立たせる」
「幽霊なのに、鏡に映るんですか?」
「そこはお前が手を引いて連れてくるんや」
「俺、完全にあの部屋の通訳兼案内役じゃないですか」
「今さら何を言うてんの」
神代は呆れたように小さく笑うと、ちゃぶ台の上の道具を指先でひとつずつ叩きながら言った。
「写真を置く。持ち物を置く。旦那さんに赤い糸を持ってもらう。亡者を鏡の前に立たせる」
「はい」
「――そして最後に、旦那さんに『名前』を呼んでもらうんや」
「……名前」
自分が誰なのか、何処から来たのか、生前何をしていたのか何も思い出せずにいた女性。
死んだことで忘れてしまったのか、それともずっと分からなかったのか。
それでも、女性には分からずともあの男ならば分かる。
あの男は、女性が長年待ち続けた最愛の夫なのだから。
「大丈夫や」
橘平の不安を察したように、神代が静かに微笑んだ。
「名前いうんは、ただの記号やない」
鏡の表面を見つめながら、神代は低く静かな声で言った。
「その人が生まれてから死ぬまで過ごした時間を、全て丸ごとこの世に呼び戻す『最強の言霊』や」
「こと、だま⋯⋯」
「旦那さんが名前を呼んだ瞬間、写真と持ち物と縁が一つに結ばれる。そうすれば、依代に彼女の姿がはっきりと定着する」
「……どれくらい保つんですか?」
「長くて、数時間やろなぁ」
「数時間だけ……」
「十分やろ」
神代は畳の上に置かれた鏡をそっと見つめ、静かに、けれど温かい声で言葉を重ねた。
「すれ違い続けた夫婦が、最後の言葉を交わすにはな」
橘平は鏡を受け取り、じっと鏡面に映る自分を見つめた。
鏡の重みは不思議なほど軽く、ひんやりと冷たい。
けれど、これで本当にあの二人をもう一度会わせてあげられる。そう思うと、胸の奥が熱く脈打った。
「……行ってきます」
「おう」
橘平が部屋の扉へ手を掛けるその背中に、神代が低く静かな声を投げた。
「長谷ちゃん」
「はい?」
橘平が振り返ると、そこにいた神代はもう笑っていなかった。底知れない眼差しで橘平を見つめている。
「一つだけ、絶対に忘れるなよ」
「……なんですか?」
「依代に姿ができたいうことは――その亡者が、この世に留まるための『理由』が消え始めるっちゅうことや」
その言葉に一体どれだけの意味が込められているのか、今の橘平は考えたくもなかった。
けれど、微かに目を逸らした橘平に、神代は容赦なく告げる。
「姿が見えて、想いが伝わったら……彼女は二度と、あの部屋にはおれんようになる」
それはつまり、女性がこの世に留まり続ける理由になっていた未練が消えるということ。
「……それなら」
橘平は一度大きく息を吸うと、真っ直ぐな瞳で神代を見つめ返して静かに答えた。
「ちゃんと、最後に会わせます」
カチャン、と扉が閉まる。
二〇三号室で待つ二人へ向けて、橘平は薄暗い廊下を力強く走り出した。




