君の味・1
ちゃぶ台の前に、一人の男が座っていた。
背筋をピンと伸ばして座っているものの、その横顔には長年の痛みを耐え忍んできたような、何処か張り詰めた陰影がある。
その少し後ろ、畳の隅で橘平は息を潜めていた。
目の前にいるのは、二〇三号室に残り続けていた女性の夫だ。
「……」
台所では、あの女性が忙しなく動き回っていた。
小さな鍋を覗き込み、古びた戸棚を開けては閉める。何か大切な調味料を探しているようでもあり、時折、不安そうにちらちらとちゃぶ台の方へ視線を泳がせていた。
男は、妻が立っているはずの台所をじっと見つめている。
正確には、彼に彼女の姿は見えていない。空ろな空間をただ見つめているだけだ。
「……本当に、ここに……いるんですか」
男が絞り出すような声でぽつりと呟いた。
「はい。すぐそこに、います」
何も知らない。何も見えていない彼には、これから何が始まるのか分からず不安なのだろう。
何度も橘平にそう確認しては、困惑した様子で台所を見る。
男はしばらく黙っていた。やがて、ゆっくりと視線をちゃぶ台の上へと落とした。
「……妻は、料理が好きでした」
「はい」
「特別、上手だったわけじゃありません。味噌汁が少し甘かったり、焼き魚を焦がしたり」
その言葉に、橘平は思わず台所の女性を見る。
女性は鍋を覗き込んだまま、何処か照れくさそうに、けれど真剣な顔で作業を続けている。
「でも……私が疲れて仕事から帰ると、いつも温かいものを作って待っていてくれて」
ちゃぶ台に視線を落としたまま、男は肩を震わせて呟く。
「『今日は何が食べたい?』って……毎日、笑顔で聞いてくるんです」
「……」
「私はいつも『君の作ったものなら何でもいいよ』と、そればかり答えていました」
橘平に語って聞かせているようで、台所の前にいる女性に語っているようにも聞こえる。
橘平は返事をせず、ただ小さく縮こまる男を見つめた。
「……今思えば、もっとちゃんと食べたいものを答えてやればよかった。あいつの料理を、もっと味わって食べればよかった……」
カタン、と台所から小さな物音がした。
女性が手を止め、ゆっくりとこちらを振り返る。そして縋り付くような目で橘平を見つめた。
橘平は、彼女に向かって小さく温かく頷いた。
「見つけましたよ」
女性の透き通るような瞳が、僅かに見開かれる。
「貴方がずっと、会いたかった人です」
女性はゆっくりと、ちゃぶ台の前に座る夫へ視線を向けた。
男には女性の姿が見えない。当然、言葉も届かない。
それでも――彼女は泣き出しそうな、けれど心底嬉しそうな笑顔を浮かべた。
そして再び、愛おしそうに台所へと向き直る。
「何か、作るみたいです。貴方のために」
「……そうですか」
男はそれだけ答えると、再び俯く。その声は掠れ、今にも消えてしまいそうだった。
しばらくして、女性が湯気の立つ「何か」を両手で包み込むように持ち、ちゃぶ台へと歩いてきた。
橘平には、それが何の料理なのか目には見えない。けれど、彼女が魂を込めて作った一品であることだけは分かった。
女性はちゃぶ台の前でそっと膝を折り、料理を男の前に置こうとする。
だが、すうっと、彼女の手が透明な空気のように畳をすり抜けた。
「……!」
女性は自分の透けた手と、置けなかった料理を交互に見つめた。
そして、今にも泣き出しそうな、心底困ったような顔で眉を下げた。
生者と死者。決して越えられない透明な壁が、二人の間に立ちはだかっている。
男は何も知らず、ただじっとちゃぶ台の上の空洞を見つめている。
橘平は、両手の拳をぎゅっと強く握りしめた。
「俺が、やります」
きっと、生者と死者の間に干渉してはいけないのだろう。
ヨイが言っていたように、死者が作った料理を生者が口にすれば死に近づく。となれば、生者が死者に手を貸すことも禁忌であるはず。
「貴方が……ずっと作りたかったんですよね」
それでも、黙って見ていることはできなかった。
目の前にいるのに、触れたくても触れられない。そんな彼らの縮まらない距離がなんとももどかしい。
女性はしばらく橘平の目を真っ直ぐ見つめた後、胸に手を当て、深く、小さく頷いた。
橘平は静かに壁に寄せていた背を離し、台所へ向かった。
その背中を、男が何も言わずに、静かな眼差しで見つめている。
台所に立った橘平は、シンクの横に並べられた食材を見渡した。
野菜。肉。調味料。鍋。包丁。
どれも何処にでもある、至極ありふれたものばかりだ。
けれど――肝心の「何を作るべきか」が分からない。
「何を作ればいいんだよ」
橘平が小さく呟くと、女性はすーっと橘平の隣に寄り添った。
そして、戸棚の奥を細い指で指差す。
「これ?」
首を傾げながら橘平が問うと、女性は力なく首を横に振る。
「じゃあ、これ?」
また首を横に振る。橘平は弱り果てて頭を掻いた。
「分かんねえって……」
すると女性は、困ったように少し俯いて長考した。
それから、意を決したように静かに冷蔵庫を指差す。
「冷蔵庫?」
女性がこくんと頷いた。
橘平が古い扉を開くと、中にはいくつかの野菜が残されていた。その中から女性が真っ先に指差したのは――一個のじゃがいもだった。
「じゃがいも? 肉じゃが、か?」
じゃがいもに鍋、その他の食材からぱっと思いついたのはそれだが、女性の反応はやはり微妙である。
「違うんですか?」
今度は、じゃがいもの隣にある人参を指差す。さらに玉ねぎ。そして、最後にあの大古く丸みのある鍋を指で叩く仕草をした。
「野菜の、煮物?」
女性はぱあっと表情を明るくして嬉しそうに頷いた。
だが、煮物と言っても出汁や味付けの系統までは分からない。橘平は思わず振り向いた。
「すみません」
「……はい」
ちゃぶ台の前に座っていた男が、力なく顔を上げる。
「何か、覚えてる奥さんの料理ってありますか?」
「料理……ですか」
「はい。奥さんが生前、よく作ってくれたものとか」
男は視線を彷徨わせ、昔の記憶を手繰り寄せるようにしばらく考え込んだ。
やがて、ぽつりと絞り出すように口を開く。
「……煮物です」
その言葉に、台所にいた女性の動きがピタリと止まった。
「妻は……いつも煮物を作っていました」
「何の煮物ですか? 味付けとか、具材とか」
「それが……」
そこまで言って、男は情けないように苦笑した。
悲しげで、やるせないといった気持ちが溢れ出ている。橘平は見ていられず、女性へと視線を逃がした。
「私は家事を一切しない人間でしたから、料理の名前すら聞いたことがなくて」
橘平は思わず頭を抱えた。
男が肩を落とし、申し訳なさそうに頭を下げる。
その様子をじっと見つめていた女性が、突然その場にしゃがみ込んだ。床に置かれた古い土鍋を愛おしそうに見つめ、透けた手を伸ばす。
「これを使うんですか?」
橘平が尋ねると、女性は深く頷いた。
その瞬間――橘平の脳裏に、かつてこの部屋で一口だけ食べたあの料理の味が鮮烈に蘇った。
出汁がしっかりと染みた甘辛い醤油の風味。
口の中でホロホロと崩れるほど柔らかく煮込まれた野菜。
何処か懐かしく、胸の奥がキュッとなるような優しい味。
「……あ」
知らないはずなのに知っている味。否、自分自身が直接口にしたわけではないが、確かに目にしたもの。
「前に、ヨイが食べたやつ」
女性が二◯五号室に住む橘平の元を訪れた時、彼女は何かの料理をタッパーに入れて持ってきた。
どういう原理でヨイが食べられたのかは分からないが、橘平が食べるよりも先に完食されてしまい。
トーストを食べた時は残ったのが、綺麗さっぱり消えていたのである。
「食べた?」
「あ……」
取り消そうと思っても遅い。
振り返ってみれば、男は期待に満ちた目で縋り付くように橘平を見ている。
なんだか騙しているような気がするが、ここは話を合わせるほうが彼のためだろう。
「はい」
「妻の、料理を?」
「……はい。俺じゃないですけど」
最後の言葉は聞こえていなかったようで、男は何も言わなかった。ただ、溢れ出そうになる感情を殺すように固く目を伏せる。
橘平は意を決して台所へ向き直ると、小さく言った。
「じゃあ、作りましょう」
女性の顔を見つめ、橘平は語りかける。
「貴方の大切な料理を」
女性は静かに、けれど強く頷いた。
そして橘平のすぐ隣にぴたりと寄り添う。包丁を握る橘平の手元を覗き込み、切り方の大きさを指で示して見せた。
「これくらいに切ればいいですか?」
こくん、と女性は小さく頷く。
「もっと細かく?」
切り方の知識も何も無い橘平には、切り方の名称よりもサイズで言われた方がやりやすい。
いつからか話せなくなってしまった女性は、橘平に必死に伝えようと身振り手振りで指示する。
「……意外と、大ぶりに切るんだなぁ」
女性がくすりと、少しだけ可憐に笑った。橘平も思わず笑ってしまう。
不思議だった。
さっきまでは料理の正体すら分からなかったのに。こうして二人で並んで台所に立っていると、まるで本当に彼女から秘伝の味を直伝してもらっているような感覚に包まれていく。
鍋に具材を投入し、火をつける。
出汁を張り、醤油を回し入れ、砂糖をひとさじ。
味を見て、指指示に従ってほんの少しだけみりんを足す。
その度に、女性が満足そうに頷いた。
やがて――鍋から立ち上る湯気と共に、部屋いっぱいに甘辛く懐かしい匂いが広がり始めた。
ちゃぶ台の男が、ハッと顔を上げた。
「……この、匂い……」
男の声に、橘平の木べらを回す手が止まる。
「覚えてますか?」
「はい」
男は溢れ出る涙を堪えるように、ゆっくりと目を閉じた。
深く息を吸い、肺を漂う芳醇な香りで満たしていく。
「何度も……何度も、仕事帰りに玄関を開けたときに嗅いだ匂いです」
閉じている瞼が、声を発する口が、肩が、手が震えている。
今では遠い昔になってしまった、二度と帰ってこない日常が思い起こされたのだろう。
橘平では立ち入ることのできない二人だけの日常が確かにあったのだ。
「『ああ、今日も家に帰ってきたんだ』と、一番安心できた匂いでした」
台所にいた女性が振り向いいた。その目には、大きな涙の粒が溜まっている。
橘平は何も言わず、ただ静かに鍋の中身を煮込み続けた。
「出来ました」
しばらくして、深皿に盛り付けられた湯気立つ煮物が、ちゃぶ台の上にそっと置かれた。
男は、目の前に差し出された料理を食い入るように見つめている。
「食べても、いいんですか」
「はい。召し上がってください」
男は震える手で箸を取り、一口大に崩した具材を口へと運ぶ。
そして、ぴたりと動きを止めた。
「…………」
橘平は固唾を呑んで見守る。
男の目から、ぽろぽろと大粒の涙が零れ落ち、畳にシミを作っていった。
「……おいしい」
その一言が静寂を切り裂いた瞬間、台所に立っていた女性が、ゆっくりと顔を上げた。
「……」
長い暗闇の中で失われていた何かが、一気に手繰り寄せられるように。彼女の瞳に光が宿り、記憶の霧が晴れていく。
橘平は女性を見つめ、そして男を見た。
男は泣きじゃくりながら、まるで生き直すかのように二口目、三口目と料理を口に運んだ。
「……やっぱり」
震える声で、男が叫ぶように呟く。
「君の味だ……! 間違いない、君の、杏子の味だよ……!」
女性の目から、ボロボロと温かな涙が零れ落ちた。
そして、彼女は初めてはっきりと、男を呼ぶように唇を動かした。
「……あなた……」
声にはならない透明な吐息が空気に溶けて消える。
けれど橘平には、それがどんな愛おしさに満ちた声だったのか、はっきりと耳の奥に響いた気がした。
女性は晴れやかな、この上なく美しい笑みを浮かべた。
男は何も知らず、涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら料理を食べ続けている。
その光景を見つめながら、橘平は胸の奥が熱くなるのを感じていた。
この人がずっとこの部屋で待ち続けていたのは、完璧な料理を作り上げることなんかじゃない。
もう一度、大切な人に――自分の料理を「おいしい」と言ってもらうこと。ただ、それだけだったのだ。




