大学生だってよ・5
それから数日。
橘平は、大学図書館の静まり返った閲覧席にいた。
目の前に開いたノートパソコン。その横には、明石から聞き出した情報を書き留めた手帳が置かれている。
女性の本名。
夫の名前。
息子が一人いたこと。
かつて二〇三号室に家族で暮らしていたこと。
そして――夫は、今も生きているということ。
「……いた」
検索画面をスクロールしていた橘平の手が止まり、思わず身を乗り出した。
過去の地域新聞のアーカイブ記事、市民広報誌の電子版、研究者データベース。いくつかの断片的な情報を照らし合わせていく内に、一人の男性のデータへ辿り着いたのだ。
「間違いない」
名前が一致している。年齢も、当時の職歴も合致する。
存命であるばかりか、画面には彼の「現在の勤務先」まで明記されていた。
橘平は食い入るように画面をスクロールする。
「……え?」
次の瞬間、息が止まった。
現在の所属先。そこに記されていた名称は――。
橘平自身が今、こうして席を置いているこの大学の名前だった。
「は?」
思わず素の掠れ声が漏れた。
周囲の学生が不審そうに振り向く。橘平は慌てて口を押さえ、パソコンの画面をパタンと伏せた。
「……いやいや、待て待て。そんなわけ……」
心臓がドクドクと嫌な音を立て始める。冷や汗を握りながら、再び恐る恐る画面を開く。
見間違いではない。教員一覧のページ。顔写真の横に、彼の名と研究室の場所がはっきりと印字されている。
「嘘だろ」
橘平は椅子の背もたれに深く身体を預け、天を仰いだ。
こんな奇跡みたいな偶然があるのだろうか。いや――これは本当に偶然なのか?
自分が受験に失敗し、逃げるように辿り着いた『よいまち荘』。
その隣部屋にいる幽霊と、彼女が探し続ける夫が、自分が通うキャンパスの中にいる。
何の繋がりもないはずの点の連続が、恐ろしい精度で一本の線へと繋がっていく。
「と、とりあえず」
橘平は震える手指でスマートフォンを取り出した。
教員紹介のページには、彼の研究室の号室とメールアドレスが記載されていた。電話番号はない。
橘平はメール作成画面を開く。打っては消し、打っては消す。
『突然のご連絡失礼いたします。以前、よいまち荘にお住まいだった――』
(……いや、不審者すぎるだろ)
『奥様について、お聞きしたいことがありまして――』
(これもヤバい奴だと思われる……)
葛藤の末、橘平は極力怪しまれないよう、しかし切実さが伝わる短文に留めた。
『突然のメール失礼いたします。昔『よいまち荘』に住まわれていたご家族のことについて、少しだけお伺いしたい儀があり連絡いたしました。自分は現在、あのアパートの一室に住んでいる学生です。もし少しだけでもお時間をいただけるようでしたら、お返事をいただけますと幸いです。長谷川橘平』
「……送って、いいんだよな」
送信ボタンの上で指が固まる。
このメールを出せば、もう「普通の日常」には戻れないかもしれない。
けれど、アパートへ戻れば、二〇三号室で寂しそうに佇むあの女性がいる。
今日もきっと、顔の切り取られた写真を見つめ、何も思い出せないまま誰かを待ち続けているのだ。
「……頼む」
橘平は固く目を閉じ、送信ボタンをタップした。
*
その日の夜。橘平は重い足取りでよいまち荘の自分の部屋に帰った。
「ただいまー」
「う!」
自室の扉を開けると、いつものようにヨイがすーっと飛んできた。
「なあ、ヨイ」
「う?」
「今日、大学でさ……」
いつものように話しかけながらスニーカーを脱ぐ。
けれど、橘平の視線は無意識に隣の扉――二〇三号室へと向いていた。
「……」
橘平は少しだけ沈黙した。
もうすぐだ。もしかしたら本当に、あの人の止まった時間を動かしてあげられるかもしれない。
「……ヨイ」
「う?」
「隣の人さ」
ヨイの方を振り返り、できるだけ笑って話す。
「もしかしたら、もうすぐ大切な人に会えるかもしれない」
ヨイは橘平の顔をじっと見つめると、意味を理解したように、ぱあっと表情を輝かせて笑った。
「う!」
「だよな。よかったな」
場違いなほど朗らかな笑顔を浮かべるヨイを見て、橘平も肩から荷が降りたようにふっと微笑む。
晩飯を食べる元気もなく、そうそうに風呂を入って寝る体制に入った橘平の頭上で、スマートフォンが激しく震えた。
「……っ!」
橘平は弾かれたように跳ね起きた。
画面に浮かぶ新着メールの通知。差出人は――あの男性教授だった。
震える指でロックを解除し、メッセージを開く。
『突然のメールに驚いております。
『よいまち荘』の件、君がどこまでご存知なのかは分かりませんが、一度直接お会いしてお話を伺いたく思います。
明日の講義後、午後三時に私の研究室までお越しください』
「…………」
橘平は画面の明かりを見つめたまま、強く生唾を呑み込んだ。
「……明日か」
大学。二〇三号室の女性。そして、残された夫。
交わるはずのなかった全てが、明日、ひとつに重なる。
*
翌日、午後三時前。
橘平は研究棟の長い廊下を歩いていた。
窓からは講義を終えた学生達の賑やかな声が届いている。いつもと変わらない、平和なキャンパスの風景。
なのに、橘平の胸の鼓動だけが早鐘のように打ち鳴らされていた。
「ここか」
重厚な木の扉。その横のプレートには、昨夜のメールにあった教授の名前が掲げられていた。
橘平は大きく息を吐き出し、胸を叩いて覚悟を決めると、扉を三回ノックした。
「どうぞ」
奥から、静かな大人の男の声が響く。
「失礼します」
橘平がドアを開けると、そこは本棚に囲まれた静かな研究室だった。
部屋の奥、大量の論文に囲まれたデスクから、一人の男性が立ち上がった。
五十代半ばほどだろうか。白髪交じりの髪に知的な眼鏡を掛けた、何処か疲れを滲ませた佇まいの人物だった。
男性は橘平の顔を見るなり、僅かに目を見開いた。
「……君が」
「はい。長谷川橘平といいます。以前、お会いしましたよね」
「ああ、そうだった……そうか。よく来てくれたね」
男性はデスクの前まで歩み寄ると、橘平を値踏みするようにじっと見つめた。
「……メールにあった『よいまち荘』のことだが。君はあの場所について、何を何処まで知っているのかな?」
男性の問いかけに、橘平は生唾を呑み込んだ。
ここまで来たのだ。誤魔化す必要も、躊躇う暇もない。
「実は――これを、あの部屋で見つけました」
橘平は鞄から慎重に取り出した「あるもの」を差し出した。
それは、二〇三号室の片隅に落ちていた、あの破れかけた写真――夫の顔だけが切除され、塗り潰された古い家族写真だった。
それを見た瞬間、男性の顔から、すうっと血の気が引き、蒼白になった。
「……それを」
「え?」
「何処で……何処でそれを見つけたんだ……!?」
掠れた声。震える手で、男性は橘平の手元から写真を引ったくるように奪い取った。
「二〇三号室です。あの部屋に、置かれていました」
男性は何も言わなかった。ただ、破れた写真に写る若い頃の妻の姿を、まるで宝物でも扱うかのように愛おしそうに、そして絶望的な眼差しで見つめている。
痛いほどの静寂が部屋を支配した。やがて、男性がぽつりと、掠れた声で呟いた。
「……あいつは、まだそこにいるのか」
「え?」
橘平の背筋に、冷たい衝撃が走った。
「貴方……知って……」
男性は静かに顔を上げた。その目には、怪異への驚きも恐怖もなかった。ただ、何十年ものあいだ一人で抱え込み続けてきた、底知れない深い哀しみだけが揺れている。
「……妻は、まだあの部屋で……私を待っているんだね?」
その確信を得た言葉に橘平は声を失った。
全てのピースがカチリと音を立てて噛み合う。
二〇三号室の女性。
彼女が探していた「大切な人」。
写真から意図的に切り取られていた男の顔。
そして、今目の前で悲痛な笑みを浮かべる夫。
橘平は胸の詰まる思いで、ゆっくりと、しかし確実に頷いた。
「……はい。います。ずっと、貴方を待っています」
男性の瞳から、一筋の光が揺れ落ちた。
「……そうか。そこに……いたのか……」
溢れ出しそうな涙をこらえるように、男性はゆっくりと目を閉じた。




