大学生だってよ・4
――数日後。
「……やっぱり、ここに来るしかなかったか」
大学の講義を終えた帰り道。
橘平は『よいまち荘』とは反対側の出口へ向かって歩いていた。
目指す場所は、引けの少ない商店街の一角にある「明石不動産」。
理由はただ一つ。二〇三号室の女性について、どうしても知りたいことがあったからだ。
あの女性には、かつて家族がいた。
愛した夫と、幼い一人の息子。
そして――彼女の夫は、今も何処かで生きている。
以前、不動産の明石から聞いた話がずっと頭から離れなかった。
ある日突然姿を消した妻を、夫は必死に捜していたのだという。
何度も。何年間も。それでも、結局見つからないまま時は流れてしまった。
(……だったら)
橘平は無意識に足早になった。
(あの旦那さんなら、何かを知ってるはずだ)
二〇三号室の女性が何を遺したかったのか。
彼女が記憶を失ってまで「美味しい」と言わせたかった相手は誰だったのか。
その答えを握っているのは――彼女の夫以外に考えられなかった。
背負ったリュックの肩紐を強く握り締め、小走りで向かっている内に明石不動産に辿り着く。
扉を開ければ、カランコロンと乾いたドアベルが鳴った。
「おう、お前か」
明石不動産の扉を開けると、カウンターの奥で煙草を吹かしていた明石が顔を上げた。
「また来たのか。大学はどうした」
「……すみません。ちょっと、聞きたいことがあって」
「二〇三号室のことだろ」
橘平が頷く前に、明石は吸い殻を灰皿に押し付け、奥の鉄製ラックへ向かった。
迷いのない手つきで、以前見せてもらったあの分厚く古いファイルを引っ張り出してくる。
机の上にドンと置かれたそれを、橘平はじっと見つめた。
「前にも言ったけどな」
明石が指先で黄色く変色したページを捲っていく。
「この部屋の奥さん、昔、急にいなくなったんだよ」
「はい」
「失踪届が出た後も、旦那さんから何度も連絡があった。『何か手掛かりはないか』『警察は動いてくれない』ってな」
静かな店内に、ペラリと紙を捲る音だけが寂しく響く。
「当時は俺も色々と探した。警察にも付き合った。だが……結局、何も分からんかった」
明石のタコのある指が、一枚の黄ばんだ契約書の控の上で止まった。
入口から中にはいった橘平は、へばりつくようにページを覗き込む。
「これだ」
そこには、今まで誰も教えてくれなかった女性の本名が、綺麗な達筆で記されていた。
橘平は息を呑んで目を落とす。
二〇三号室の女性。
記憶を失い、ただ誰かのために包丁を握り続けている儚い幽霊。
その人にも――ちゃんと、生き抜いてきた「名前」があったのだ。
「……この人の旦那さんは、今も?」
「生きてる。住所までは載っとらんが……連絡先なら残ってるはずだ」
明石はファイルから一枚のメモ用紙を抜き取った。
「ただな」
「なんです?」
「……会いに行くつもりか?」
橘平は言葉に詰まった。
何と言って会いに行けばいいのだ。
『あなたの奥さんは幽霊になってアパートに留まっています』
『あなたに料理を食べてもらいたがっています』
そんな突拍子もない話を、初対面の生身の人間に信じてもらえるはずがない。
「……昔のことを、聞きたいだけです」
橘平は視線を逸らさずに答えた。
「彼女がどんな人だったのか、知りたいんです」
明石は橘平の目を見つめ返した。
沈黙が流れる。煙草の煙がゆらゆらと二人の間を漂い、やがて明石はふっと深いため息を吐いた。
「……そうか」
それ以上、明石は追及しなかった。
ただ、手元の紙に殴り書きで住所と電話番号を書き写すと、それを橘平の前へ滑らせた。
橘平は両手でそれを受け取る。
そこには、隣の市にある住所と、10桁の電話番号が記されていた。
「ありがとうございます」
「……兄ちゃん」
背を向けかけた橘平に、明石が低く静かな声をかけた。
「はい?」
「余計なことに首突っ込むなよ」
明石の目が、いつもと違う真剣な光を帯びていた。
「昔のことには、昔の事情がある。……全部の蓋を開けて真実が分かったからって、みんなが幸せになれるとは限らんからな」
橘平は握りしめた紙を見つめた。
明石の言う通りかもしれない。真実を知ることが、必ずしも救いになるとは限らない。
それでも。
「……それでも、知りたいです。あんな寂しそうな顔、放っておけないですから」
橘平がまっすぐに答えると、明石はそれ以上何も言わず、ただ新しい煙草に火をつけた。
店を出ると、春の冷たい夕風が頬を撫でた。
橘平は手の中のメモを強く握りしめる。
ここに行けば。
二〇三号室の女性が探し続けている「大切な人」に届くかもしれない。
「……待ってろよ」
黄昏時の空を見上げ、橘平は誰に言うでもなく呟いた。
「今度こそ、お前の未練の答えを見つけてやるから」
橘平は意を決した足取りで、夕闇が迫る『よいまち荘』へと向かって歩き出した。
*
その日の夜。
大学から帰ってきた橘平は、いつものように玄関の扉を開けた。
「ただいま」
「う!」
「おう」
相変わらず、扉を開ければ勢いよくヨイが飛んでくる。
そのまま橘平の周りを一周すると、何かを訴えるように二〇三号室の方を指差した。
「二〇三がどうかしたのか?」
「う」
「何かあったのか?」
「う……」
いつもの元気な返事とは違う。何かに怯えているような、不自然な態度だ。
不審に思った橘平は、眉を寄せてヨイの視線の先を追った。
「ちょっと見てくる」
心配するヨイを部屋に残し、廊下へ出る。自分の部屋から視線を移すと、二〇三号室の扉は閉まっていた。
ひんやりとした嫌な空気が足元を漂い、無意識の内に足が震える。
それでも行かなければならない。
そう自分自身を鼓舞し、橘平は固く閉ざされた扉を軽くノックした。
「あのー」
震える声で中にいるであろう人物に問いかけるが、案の定返事はない。
もしかしたらいないのかもしれない、それなら無闇矢鱈に扉を叩いてはかえって迷惑だ。
逃げ出す理由も引き返す理由もいくらでも出てくる。
しかし、一度大きく息を吸った橘平は構わず扉を開けた。
「お、お邪魔しまーす⋯⋯」
恐る恐る中に足を踏み入れ、辺りを見渡す。前に入ったときと同じ様に部屋の中は薄暗かった。
昼間だというのに、カーテンは閉じられたまま。台所には、あの日から一度も動かされていない鍋がポツンと置かれている。
そして――女性が、その前に立っていた。
「どうかしましたか?」
「…………」
女性は答えない。いや、答えられない。
ただ、いつもとは違っていた。鍋の中を覗き込みながら、何度も首を傾げている。
「料理⋯⋯何作ってるんですか?」
勝手に入ってきた橘平のことを追い出そうともせず、鍋の中を見つめた女性はゆっくりと頷く。
「また、何か思い出したんですか?」
「ええ」
それはいつもの返事とは違って、何処か苦しげだった。橘平は思わず歩み寄る。
「何を思い出したんですか?」
女性は胸元を押さえ、しばらく固く目を閉じた。
その仕草が自分の部屋に住み着くヨイと似ていて、橘平は思わず目を伏せてしまう。
「…………お」
「お?」
絞り出された声が聞こえて、橘平は顔を上げる。橘平が聞き返すと、女性は顔をあげて遠くを見つめた。
「お……」
女性の唇が僅かに震え、遅れて声が聞こえてくる。
「おい……」
そこで言葉が途切れた。
なんて言おうとしたのか、自分では分からないようで首を傾げている。
橘平は困惑する女性を見て、あることを思いついた。
「おいしい?」
橘平の言葉に、女性の目が大きく見開かれる。
「……!」
ハッとした女性は、曇の晴れた顔をして何かに気づいたように橘平を見る。
「違いましたかね?」
女性は首を横に振る。
それから、両手をそっと口元に当てた。まるで、誰かの声を必死に手繰り寄せようとするかのように。
「……おいしい、じゃないのか」
女性は首を振る。そして、もう一度、震える声で呟いた。
「……おか……」
「おか?」
「おか……あ……」
女性の顔が苦痛に歪み、突然頭を抑えて苦しみだした。
「大丈夫ですかっ!?」
慌てて駆け寄る橘平に、しかし彼女はそれ以上言葉を続けなかった。ただ、何かを探すように周囲を見回し――その視線が、一つの場所に釘付けになった。
あの、古い写真だ。
「……これですか?」
机の上から写真を取り、女性へ差し出す。女性はそれを受け取り、じっと見つめた。
そこには、小さな赤子。そして若い日の女性。
だが、欠けた写真の向こうには、もう一人いたはずだ。
「これが……?」
橘平が写真を差し出すと、女性が指先で写真に触れる。
「……おかあ……」
今度は、はっきりと聞こえた。
「……!」
橘平は目を見開き、ぐっと女性に近づいた。
虚ろな目をした女性は橘平を見上げ、必死に何かを訴えている。
「お母さん、か?」
確証はないが、試しに聞いてみると女性は強く頷いた。
だが、その直後。彼女は激しく首を横に振ってしまう。
「え?」
もう一度写真を見る。小さな男の子。自分。そして――欠けた部分。
「お母さん、じゃないのか?」
女性は迷うように首を傾げ、写真を見返す。そして、写真の中の男の子を指差した。
「……この子?」
写真を指し示しながら問いかけると、女性が頷く。
橘平は理由が分からず、怪訝な表情のままもう一度問い掛けた。
「息子……?」
長い沈黙の後、女性は小さく頷いた。
「――息子、か」
橘平は写真に視線を落とす。
ずっと分からなかった。この小さな男の子が誰なのか。自分との関係すら思い出せなかった女性が、初めて自分自身の意思で答えを出したのだ。
「じゃあ……この子がお前の、大切な人なんですか?」
女性は少しだけ考え、それから首を横に振った。
「……違う?」
女性は、写真の千切れて欠けた部分を指差した。
抱き抱えた自分の息子でないのなら、残る人物は一人だけ。
「……」
真ん中から右側が欠けているこの写真には、本当にもう一人いた。
女性と男の子の隣。そこに立っていたはずの誰か。
彼女が本当に探しているのは――。
「この人ですか?」
橘平が写真の欠けた部分を指差すと、女性はゆっくりと頷いた。
そして、再び胸元に手を当てる。苦しそうに顔を歪めながら、最後の一言を紡ぎ出した。
「……おと……」
「おと?」
「…………おと……」
そこまでだった。
ふっと、女性の姿が頼りなく透ける。
「え……?」
橘平が目を見張る。だが、瞬きをした次の瞬間には、彼女はいつもの姿に戻っていた。
「……今の、は」
橘平は手元の写真を見つめる。
女性。男の子。そして、写真から欠け落ちたもう一人。
「夫、か」
女性は答えなかった。ただ、愛おしそうに写真を両手で抱きしめているだけ。
その背中を見つめながら、橘平は思う。
まだ何も分からない。名前も、顔も、今何処にいるのかも。
けれど――初めて、確かな道筋が見えた気がした。
「……探してみるか」
橘平は写真の男の子に目を向けた。
「お前が探してる人を」
女性は言葉を発しない。ただ、小さく、静かに頷いた。




