大学生だってよ・3
記念すべき大学生活一日目が始まり、心機一転。
橘平は輝かしいキャンパスライフが待っているかと思われた。
「⋯⋯で、次は何。部屋から追い出されたりでもしたのか?」
賑やかな声とBGMで満たされたファミレスの片隅で、橘平はテーブルの上に突っ伏していた。
向かいの席には采地がソーダをストローで飲みながら頬杖を着いている。呆れたと言わんばかりに采地は溜息を吐いた。
「一ヶ月ちょい? 結構いけんじゃねって思ったけど、無理だったのか」
「無理ってわけじゃないんだけど、何ていうか⋯⋯色々とキツイ」
「その色々ってなんだよ」
「⋯⋯色々あるんだって⋯⋯⋯」
届いた料理を前にしても、橘平の顔はテーブルに伏せたまま上がらない。
さして相手にしない采地はいち早くパスタを食べ始めた。
「いっぺん言ってみろよ。なんか分かることあるかもだし」
「笑わない?」
「笑えるような内容だってのか?」
ふるふると力なく首を振ると、のそりと起き上がる。
やはり箸もフォークも持つきにはなれず、ぼんやりと目の前の料理を見つめたまま橘平はしばらく押し黙った。
マイペースにパスタを食べる采地を見た橘平は、一つ大きく息を吸うと話し始める。
「俺さ、変なのと同居してんの」
「⋯⋯⋯は?」
ぽろっと右手からフォークが落ちて、何を言うでもない冷たい沈黙が続く。
「ま、待て。話が全然分からん」
「だから、変なのと同居してるんだって」
「変なのって何なんだよ!」
「幽霊」
采地は、またもぽっかりと口を開けて固まる。
席の傍を通り過ぎた店員が奇異の目を向けてくるくらい、今の采地は見ていられない顔をしている。
橘平はそんな采地の顔を見ていられず、逃げるように窓の外へと視線を投げた。
「たぶん、女子高生。俺が入居した日にはすでにいて、今もいる」
落ち着いて考えてみれば、部屋に幽霊がいるなど夢物語も良いところ。
と言うか、何故自分は幽霊が見えているのか。
当たり前に幽霊が部屋にいて出迎えることを受け入れているのか。
疑問はいくらでも出てくる。こうして何の変哲もない平凡な時間を過ごしている間でなければ、気付けないほど橘平は混乱していたのだ。
「お前⋯⋯病院行ったら?」
「なんでだよ」
「いや、だってさ」
ファミレスの喧噪の中、目の前の采地が困ったように眉を寄せた。
取り零していたフォークを皿の上に置き直し、真剣な眼差しを向けてくる。
「急に『俺、幽霊が見えるようになったんだ』なんて真顔で言われたら、そりゃ正気かどうか心配するだろ」
真っ直ぐ過ぎる正論に、橘平は何も言い返せなかった。
ぐうの音も出ない。むしろ、そのリアクションこそが至極まっとうな反応なのだ。突然怪異が見えるようになったと言い出す奴なんて、信じる方がどうかしている。
「……まあ、俺も最初は自分の頭がおかしくなったと思ったよ」
「そーじゃねぇかよ」
「でも、本当にいるんだって」
「だから、そこが一番信じられないって言ってんの」
「じゃあどうしろっていうんだよ」
「俺に聞くなよ」
采地は頭を抱え、大げさに深い溜息を吐いた。
橘平も自分の皿を見つめたまま、小さく息を吐き出す。
確かに、こんな現実離れした話をいきなり叩きつけられても困るだけだろう。自分だって、もし立場が逆なら間違いなくメンタルクリニックの受診を勧める。
「……でもさ」
ようやく自分が注文したドリアに手を付けた橘平は、ぽつりと呟く。
「本当に、いるんだよ。毎日、そこにいるんだ」
時に押し入れの中。酷い時はその屋根裏。
それか小さな畳部屋の真ん中に座り込んでいる。
共に食事ができるわけでもなく、風呂に入るわけでもない。
それでもいる。目の前で生活という生活を真似している。そんな歪で不安定な存在がすぐ隣にいるのだ。
「部屋に帰ったら、当たり前にいるんだよ」
采地は黙って橘平の顔をじっと見つめた。その目の奥の色が、ほんの少しだけ真剣みを帯びる。
「毎日?」
「うん」
「何してんの、その幽霊」
「何って……」
橘平は自室の光景を思い浮かべる。
こうして采地と一緒にいる間、彼女は何をしているのか。
あの部屋から出られない彼女にとって、一人でいる時間がどれだけ耐え難いものだろう。
「寝たり」
「幽霊が?」
「寝るんだよ。押し入れの中とか屋根裏とか」
目に見えて、「何いってんだこいつ」と言いたげな顔をする。
話しづらくなるだけだと橘平は采地から目を逸らし、ドリアを一口食べる。
「あとは、飯食ったり」
「幽霊が?」
「バクバク食うんだよ」
二◯三号室の女性が作った料理を何の躊躇もなく食べたり。
幽体離脱する食パンを美味しそうに食べたり。
「あとは掃除したり」
「幽霊が?」
「いや、掃除はしてない。俺がやってる」
「そこだけ妙に生活感あるな」
「うるさい」
思わず橘平が睨むと、采地は呆れ半分に口元を緩めた。
「……なんかさ、お前が大真面目に言うと、変に本当っぽいのがウザいんだよな」
「何だよそれ」
「いや、まだ信じたわけじゃないけど」
「なんだよ」
「だって幽霊だぞ?」
「まあ……そうだけどさ」
そこで橘平は言葉を詰まらせた。
幽霊。自分でも改めて口に出すと、あまりに非日常すぎて浮世離れしている。
しかも――。
「……実は、隣の部屋にもいるんだ」
采地の口元から笑みが消えた。話しづらい空気が重く垂れ込める。
「え?」
「最近、戻ってきたみたいでさ」
「幽霊が?」
「うん」
「二人目かよ」
「そうなる」
采地はゆっくりとメロンソーダのストローを吸い上げ、コップをコトと置いた。
「お前が借りた部屋、事故物件か?」
「入居日にさっちんが帰ってから不動産屋に電話すれば、『幽霊、住んじゃってるんだよねぇ』って言われた」
「大家は?」
「普通……じゃないかもしれない」
「なんでだよ」
「なんかこう、色々と裏を知ってそうな雰囲気がプンプンしてて……」
見るからに怪しい風貌でありながら、妙に世話焼きな一面のある神代。
彼が何歳で神代が本名であるのかすら分からない。
日用品を買いに行くのに付いて来た時だって、常に何を考えているのか分からなかったものだ。
「まあ、俺が幽霊見えるようになってることも、まだ大家には言ってないんだけど」
「いや、言えよ」
「なんて言うんだよ」
「『すいません、うち幽霊出るんですけど』って」
「言えるか!」
思わず声が大きくなり、周囲のテーブルからチラホラと視線が飛んできた。二人は慌てて姿勢を低くし、声を落とす。
「それにさ」
橘平は箸の先で皿のふちを突きながら、声をひそめた。
「隣の部屋の幽霊……自分が誰なのか、何も覚えてないんだ」
采地の表情から、完全に茶化すような雰囲気が消えた。
隣の席に座っているカップルの仲睦まじい会話も、後ろにいる女子高生達の笑い声すら聞こえない。
周囲の音が全て鳴り止んだように、静寂が流れていた。
「名前も?」
「分からないんだと」
「家族とかは?」
「それも分からないって」
「自分がなんで死んだのかもか?」
「……たぶん」
橘平は静かに首を振った。
「そこまでは、まだ何も分かってない」
采地はしばらく黙ったまま、フォークでパスタをくるくると巻き取っていた。さっきまでの呆れた様子はすっかり影を潜めている。
「……で、お前がそれを調べてるわけ?」
「まあ、そうなるな」
「なんで?」
「なんでって……」
淀みのない采地の問いに、橘平は少し言葉を探した。
最初は怖かった。関わりたくなかったし、関わらなければ自分の日常を守れると思っていた。
けれど、今は違う。
203号室のあの女性が、悲しげな顔で何かを必死に求めていることだけは分かってしまったのだ。
あの料理。
大切な人の記憶。
破られ、顔を塗り潰されたあの写真。
そして、時折見せる今にも消えてしまいそうな儚い表情。
「放っておけないんだよ」
気が付けば、橘平は真っ直ぐ地を見て答えた。
自分がそうすると決めたのなら曲げない。それが橘平のモットーだから。
「たぶん、本人も自分が何をしたいのかすら分かってない。……でも、必死に何かを探してるんだ」
「何を?」
「それが分からないから、困ってんだよ」
橘平が苦笑交じりに肩をすくめると、采地は無言でパスタを口に運んだ。ゆっくりと噛み締め、呑み込む。
「……まあ」
「ん?」
「お前がそこまで真顔で言うなら、なんか理由があんだろうな」
采地はカチャンとフォークを置いた。その音を皮切りに、采地は大きく身を乗り出し、耳打ちする。
「ただし」
「ただし?」
「無茶はすんなよ」
言葉通り、無理せずにと言いたいのだろう。
少なくとも親友に心配してもらえることに喜んでしまう自分がいた。
「相手が幽霊だろうが何だろうが、危ないと思ったらすぐ逃げろ。お前生身なんだから」
「分かってるって」
「あと、大学もちゃんと行け」
「それも分かってる」
「あと飯も食え。さっきから全然進んでねぇぞ」
指摘されて橘平が目の前のドリアを見ると、料理はほとんど手つかずのまま冷めかけていた。
「……なんか、胸がいっぱいで腹減ってなくて」
「嘘つけ」
「ホントだって」
「じゃあお前のドリア、俺が食うぞ」
「それはダメ! 俺のだから」
「食えるじゃねえか」
橘平は自分でもおかしくなって、思わず小さく吹き出した。
さっきまで胸の奥に重く澱んでいた焦りや不安が、すーっと軽くなっていくのを感じた。
「……ありが、采地さっちん」
「何が?」
「話、聞いてくれて」
「別に」
采地は素っ気なく言って、メロンソーダを呑んだ。
「その代わり、今度その幽霊の話、もっと詳しく聞かせろよ」
「え? 信じてないんじゃなかったのかよ」
「信じてねぇよ」
「じゃあなんで」
「お前が嘘ついてるようには見えないから」
采地は当たり前のようにそう言って立ち上がった。
伝票をひらひらと振りながら振り返る姿は、やけに自身に満ち溢れている。
「それにさ」
「ん?」
「お前が一人で抱え込んでパンクして、また変なことになったら面倒だしな」
「お前、俺のことなんだと思ってんの?」
「手が掛かる友達」
「ひどいな」
「お互い様だろ」
橘平は苦笑しながら、ようやく自分のスプーンを動かした。冷めかけたドリアを口に運ぶ。
大学生活一日目。
高校時代に思い描いていたキャンパスライフとは、随分と違う形になった。
もっと華やかで、楽しくて、どこにでもある「普通」の毎日が始まると思っていた。
けれど、実際に始まったのは――セーラー服の幽霊と同居して。
隣の部屋の幽霊の過去を探して。
怪しげな大家や不動産屋に振り回される毎日。
「まあ」
橘平はドリアを口に放り込み、小さく呟いた。
「悪くないかもな」
「ん?」
「大学生活」
食器をまとめた采地が、振り向きざまにニッと笑った。
普段落ち着いた雰囲気のある采地にしては珍しい、満面の笑みだ。
「まだ始まったばっかりだろ」
「そうだな」
まだ、たったの一日目だ。
これからどんなトラブルや謎が待ち受けているかなんて、分かりはしない。
だからこそ――橘平は頼もしい友人の背中を追いかけながら、ほんの少しだけ前を向いて歩き出した。




