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大学生だってよ・2




 静かな部屋だった。

 昼間だというのにカーテンは閉め切られ、薄暗い部屋の真ん中で、女は一人ぽつんと畳の上に座っていた。


 何をするでもなく、ぼんやりと己の手を見つめている。

 細く、少し皮膚の荒れた手。

 使い込まれたようなその掌を見つめていると、何故だか胸の奥がざわついた。


「……?」


 女は首を傾げた。

 何か、取り返しのつかない大切なことを忘れている――そんな気がした。けれど、それが何なのかは分からない。

 自分の名前も。何処から来たのかも。何故こんな場所に留まっているのかも。何一つとして思い出せなかった。

 ただ――。


 カタン。


 突然、静寂を破って台所から小さな音が響いた。

 女が顔を上げる。当然、誰もいない。けれど、音は確かに聞こえた。

 女は静かに立ち上がり、すうっと吸い寄せられるように台所へと向かった。

 コンロの周りにも、シンクの中にも何もない。昨日と変わらない殺風景な光景。

 そう、思った。


「…………あ」


 女の視線が、まな板の上でピタリと止まった。

 そこに、一枚の古びたメモ用紙が置かれている。

 いつからそこにあったのかも分からない。紙には、掠れた文字で何かが書き残されている。


 女はゆっくりと手を伸ばした。透けた指先が紙に触れた、その瞬間――。


「……っ」


 頭の奥で、知らないはずの光景が唐突に弾けた。


 真っ白な皿。

 そこから立ち上る、温かな湯気。

 木目の食卓と、その向かい側に座る「誰か」。


 顔には霞が掛かったように見えない。けれど、その声だけはやけに鮮明に耳の奥へ届いた。


『おいしい』

「…………!」


 女は息を呑んだ。胸の奥が、締め付けられるように痛い。

 見たこともない光景のはずなのに。初めて聞いた声のはずなのに。

 その声が、どうしようもなく愛おしく、懐かしかった。


「……誰……?」


 問いかけても、静寂が広がるばかりで答えは返ってこない。

 代わりに、今度は足元から小さく愛らしい声が聞こえた。


『お母さん』


 女の瞳が大きく見開かれる。しかし、次の瞬間にはその光景も声も、泡のように消え去ってしまった。

 あとに残されたのは、変わらない薄暗く静かな部屋だけ。

 女は胸元で紙をぎゅっと抱きしめたまま、その場に立ち尽くしていた。


 私には、命に代えても守りたい大切な人がいた。


 その記憶の欠片だけは――どれほど時が経とうとも、消し去ることができなかった。




 *




 月日は巡り、春。

 長谷川橘平の新しい生活が始まった。


「広っ!」


 入学式を終えた橘平は、人波が交差するキャンパスを歩きながら、何度目かも分からない吐息を漏らした。

 高校までとは、スケールも空気感も何もかもが違う。

 巨大な校舎、見渡す限りの見知らぬ学生、サークルの勧誘で賑わう眩しい歓声。そこかしこから聞こえてくる笑い声の輪が、何処か遠い世界の出来事のように感じられた。


「これが、大学か」


 橘平は手にしたキャンパスマップへ視線を落とした。

 今日から、自分もこの巨大な群衆の中の一人になる。そう思うと、どこかフワフワとした不思議な感覚に包まれた。


 高校を卒業して、受験に失敗して。

 実家を飛び出すように出て、あの『よいまち荘』に辿り着いて――。

 この数ヶ月間、怒涛のようにいろいろなことが起きすぎて、自分が大学生になるという実感を噛み締める余裕すらなかった。


 けれど、真新しい学生証を首から下げ、見知らぬ人々に混ざってこの敷地を歩いていると、すーっと現実感が込み上げてくる。


「俺、本当に大学生になったんだな」


 ぽつりと呟いた言葉が、春のぬるい風に溶けていった。

 胸の奥を重く押し潰していた何かが、ほんの少しだけ軽くなった気がした。


 過ぎ去った過去は、もう変えられない。

 第一志望の大学には届かなかったし、思い描いていたようなキラキラした順風満帆な春でもない。

 それでも、ここから先の手札まで、負けで終わらせる必要はないはずだ。


「よし、やるか」


 橘平は小さく意気込むと、キャンパスの案内図をポケットに押し込み、橘平は改めて校舎の壁に掲示された案内板を見上げた。


「……で、ええと、新入生ガイダンスは『三号館・三〇一教室』か」


 広大な敷地の中には、似たようなデザインの鉄筋コンクリートの建物がいくつも並んでいる。案内図と睨めっこしながら人の流れについていくと、ガラス張りの大きな自動ドアが見えてきた。


「ここが、三号館……か?」


 中に入ると、吹き抜けのロビーになっていた。

 壁にはズラリとサークルの勧誘ポスターが貼られ、階段のあちこちで上級生らしき学生たちが談笑している。

 一歩足を踏み入れる度に、高校の校舎とは全く違う洗練された――何処か自分だけが浮いているような独特の空気感に気圧されそうになる。


 橘平はポケットに手を突っ込み、平然を装いながら階段を上った。


 三階へ上がると、目的の「三〇一」と書かれた札がかかった大きな扉を見つけた。

そっと中を覗き込む。


「うわ、デカ!」


 そこは教室というよりも、ちょっとした映画館やホールのような「大講義室」だった。

 傾斜のついた床に、何百人も座れそうな机と椅子が整然と段々畑のように並んでいる。すでに半分以上の席が埋まっており、あちこちからガヤガヤとした話し声が聞こえていた。


(何処座ればいいんだこれ)


 あまり前に座って目立つのも嫌だし、かといって一番後ろはすでに埋まりつつある。

 橘平は通路を少し進み、真ん中よりやや後ろ側の、空いていた端の席へと滑り込んだ。

 木製の硬い椅子に腰を下ろし、深く息を吐く。

 周りを見渡すと、一人で手持ち無沙汰そうにスマートフォンを眺めている奴もいれば、すでに隣の席の奴と打ち解けて話している器用な奴もいる。

 鞄からノートと筆記用具を出し、卓上に置く。

 周りの賑やかな喧騒を聞きながら、橘平は静かにその場に馴染もうと背中を丸めた。


 それから数分後。チャイムの音が響き、前方のアンプからキーッという小さなハウリング音が上がった。

 壇上に立った初老の男性教授がマイクを握り、ゆっくりと口を開く。


「――というわけで、履修登録はこの期間内に行ってください」


 大講義室の前方で、教授がマイク越しに説明を続けている。

 橘平は卓上に配られた分厚い資料へ目を落とした。


「多くね?」


 思わず小さな声が漏れた。

 高校までとは何もかもが違う。クラス単位で決められた時間割などなく、全てを自分で組み立てなければならないのだ。

 必修。選択。教養。

 見慣れない専門用語がずらりと並んでいる。


「これ、全部自分で決めるのか」

「最初、全然意味わかんないよね」


 隣の席に座っていた男子学生が、困ったように苦笑した。


「だよな」

「うん。これ、先輩に聞いた方がいいやつらしいよ」

「あー、なるほど……」


 たったそれだけの、名前も知らない相手との短い遣り取り。

 けれど橘平は、胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じていた。

 自分から話しかけたわけでもない。向こうから自然に声をかけてくれた。そんな些細なコミュニケーションが、真新しい生活の第一歩のように思えて嬉しかったのだ。

 説明が終わり、教授が降壇すると、学生たちが一斉にガタガタと席を立った。


「じゃあな」

「うん、また」


 連絡先すら知らない相手と軽い挨拶を交わして別れる。

 橘平も鞄を担いで立ち上がった。


 大学生活。

 拍子抜けするほど、思っていたよりも「普通」だ。

 もっと劇的に世界が変わるのかと思っていた。けれど実際は、知らない場所へ来て、授業に出て、腹が減って、帰る。ただそれだけの繰り返しだ。

 それだけなのに、なんだか悪くない気がしていた。


「腹減ったな」


 時計を見上げると、丁度昼休みに入ったところだった。

 橘平は学生で賑わう食堂へと向かい、窓際のカウンター席にトレイを並べた。


 周りを見渡せば、高校からの持ち上がりなのか、早くもグループを作って楽しそうに談笑している学生達が目に入る。そんな中で、橘平は一人静かに箸を持った。


「……まあ、最初はこんなもんか」


 焦る必要はない。自分のペースで、ここから作っていけばいいのだから。

 そう自分に言い聞かせながら、定食を口に運ぶ。


 ふと、ガラス窓の向こうへ目をやった。

 満開を過ぎた桜の木から、春風に煽られた花弁が一枚、ひらひらと舞い落ちていく。橘平はその軌跡を目で追った。


「……春なんだな」


実家を飛び出してきた時には、季節を感じるような心の余裕なんてどこ何処もなかった。

 あの『よいまち荘』に引っ越してきてからも、毎日が嵐のように慌ただしく過ぎ去っていった。

 自室に幽霊が住み着いていて、胡散臭い大家に目をつけられ、苦労人の不動産屋・明石に振り回され、挙げ句の果てには隣の部屋の幽霊の未練探しまで手伝う羽目になっている。


「改めて振り返ると、ロクでもねぇな」


 思わず自嘲気味な笑いが漏れた。

 けれど――それでも、今の自分はこうして生きて、ここにいる。

 失敗から逃げ出した先で、新しい生活を確実に踏み出しているのだ。


 午後の講義が全て終わり、校門からは次々と学生達が吐き出されていく。

 橘平もその人波に混ざり、駅へ向かう緩やかな坂道を下り始めた。

 ポケットからスマートフォンを取り出し、画面を点ける。通知欄に特に連絡はない。


(まあ、そりゃそうか)


 まだ友達と呼べるような相手もいないのだ。焦らず、これから作っていけばいい。

そう思い直して画面を伏せようとした、まさにその時だった。


 ブルッ。


 手元でスマートフォンが一度短く震えた。

 画面に表示されたトーク画面を開き、橘平は思わず足を止める。


『う』

「……」


 画面の中央にぽつんと浮かぶ、意味の分からないひらがな一文字。

 送信者の名前は表示されていない。というか、連絡先を追加した覚えすらないアカウントだ。


「お前……スマホなんて持ってねぇだろ」


 橘平が呆れ半分に打ち返すと、速攻で既読がつき、返信が届いた。


『う!』

『どうやって送ってんだよ』

『う!』

『いや、だから――』


 橘平は歩道の上で派手に頭を抱えた。

 どうやら自分にとっての「新しい生活」は、大学というキャンパスだけで始まったわけではないらしい。

 溜息混じりにスマートフォンをポケットへ放り込み、橘平は再び歩き出した。





*





「ただいまー」


 夕暮れ時。

 赤く染まる『よいまち荘』の古びた扉を開け、靴を脱ぐ。


「う!」


 奥の畳の方から、聞き覚えのある弾んだ声が返ってきた。


「ただいま、ヨイ」


 その名前を口にした瞬間、橘平の口元が自然と緩んだ。


 新しい場所。

 新しい人々。

 これから広がっていく大学生活。

 そして――何も変わらない、賑やかで温かな『よいまち荘』。


 大学生活一年目。

 長谷川橘平の、少し風変わりで愛おしい春が、静かに幕を開けた。









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