大学生だってよ・1
その日は、当分耳にしたくないと思っていた母からの電話で目が覚めた。
「…………」
枕元でスマートフォンが激しく震えている。
目を開けた橘平は、しばらくの間、薄暗い天井を見つめていた。
まだ頭が働かない。布団の中の温もり、カーテンの隙間から差し込む朝の光、外から聞こえる鳥の羽ばたき――それら全てが何処か遠く感じられるのに、耳元で鳴り続ける着信音だけはやけに現実的で鮮明だった。
「……母さんかよ」
画面を確認すると、案の定「母」の二文字が表示されている。
橘平は眉間を指で強く押さえた。別に母親が嫌いなわけではない。ただ、今はどうしても話す気になれなかった。
家を飛び出すように出てきてから、まだそう時間は経っていない。あの日、実家で交わした言葉や雰囲気を思い出すと、どうしても胸の奥がどろりと重くなる。
もう少しだけ、心の準備をする時間が欲しかった。
しかし、着信音は容赦なく鳴り続ける。
「はいはい」
無視することは諦めて、通話ボタンをスワイプした。
スマートフォンを耳に当て、寝起きの掠れた声で口を開く。
「もしもし」
『あ、橘平? やっと出た』
「寝てたんだけど」
『こんな時間まで?』
「休みなんだからいいだろ」
『もうすぐ大学が始まるんでしょう?』
「……まあ」
母の声を聞いた瞬間、心地よかった眠気が急速に吹き飛んでいく。
大学。その二文字が頭に浮かぶだけで、逃れられない現実が一気に押し寄せてきた。
『入学式、いつだっけ?』
「前にも言っただろ」
『聞いたけど忘れたのよ』
橘平は重い溜め息を吐き、まだ頭の奥に残る眠気を追い払うように乱暴に頭を掻いた。
「そーえば、来週の月曜だったはず」
『まあ、もうすぐじゃない。貴方、全然準備してないんじゃないの?』
「……母さん、俺より楽しみにしてないか?」
『当たり前でしょう。大学生になるんだから』
何処か噛み合わない会話のテンポに、橘平は布団の上でゴロリと寝返りを打った。
『それでね。ちゃんとご飯食べてる?』
「食べてる」
『野菜は?』
「食べてるって」
『部屋の掃除は?』
「してる」
『洗濯は?』
「してる」
『……仕送りのお金は?』
橘平は思わず息を呑み、言葉を失った。
頭の中で、減っていく一方の銀行口座の残高が嫌なリアルさでチラつく。
切り詰めているつもりではあったが、この街での暮らしや「よいまち荘」での諸々に予想外の出費がかさんでいるのは事実だった。だが、それを正直に言えるはずもない。
『橘平?』
「……大丈夫だよ」
『その間は何よ?』
「何でもないって」
『橘平ったら、昔から意地張るところがあるんだから』
「はいはい」
適当に受け流す。けれど、聞き慣れた母の声を聞いていると、どうしても実家にいた頃の光景が脳裏に過った。
朝起きれば当たり前に出来上がっている朝飯。脱ぎ散らかしてもいつの間にか片付いている洗濯物。学校から帰れば誰かの気配がある温かい部屋。
当たり前だと思っていたあの生活。それを自ら捨ててきたつもりはない。それでも今、こうして一人で暮らしている。
少なくとも――人間としては。
「……?」
ふと気配を感じて、橘平は視線を部屋の隅へ向けた。
クローゼットの前。そこにヨイがいた。
ペタリと床にしゃがみ込み、まんまるい目で橘平をじっと見つめている。電話の相手が気になって仕方がないらしい。
橘平は片手を軽く振ってみせた。『向こうに行ってろ』という合図だ。
するとヨイは、口を尖らせて、
「う」
と小さく不満そうに返した。
「…………」
その声を聞き咎めたのか、電話の向こうで母のトーンが変わった。
『ねえ……今、誰かいるの?』
「っ」
橘平の心臓が嫌な跳ね方をした。
自分の隣で「どうだ」と言わんばかりに胸を張っている能能天気な幽霊と、受話器の向こうで疑い深くなっている母親。
その二人の挟み撃ちに遭い、胃の辺りがキューッと締め付けられる。
『今、若い女の子の声みたいなの聞こえなかった?』
「気のせい。テレビの音」
『そう?』
「だから、気のせいだって」
ふと見ると、ヨイは何故か満足げに小さな胸を逸らしていた。まるで『自分が会話に参加してやった』とでも誇っているようだ。
「お前な……」
『何?』
「何でもない!」
『変なの』
電話の向こうで母がクスクスと笑った。橘平も生返事をしながら苦笑する。
こんなくだらない遣り取りをしていると、一瞬だけ昔の日常に戻ったような錯覚に陥る。
だからこそ――
『ところで橘平』
「ん?」
『大学、ちゃんと行くのよ?』
「……行くって」
『せっかく入ったんだから』
「分かってる」
語尾を濁した心もとない返事に、電話の向こうで母が短く息を吐く気配がした。こちらの生半可な言葉などまるで信用していない様子で、畳みかけるように次の言葉を重ねてくる。
『友達もいっぱい作りなさいね』
「それは努力する」
『あと……変なところに住んでないでしょうね?』
橘平の視線が、自然と部屋の中を泳いだ。
年季の入った薄汚れた壁紙。歩く度に微かに軋む床。そして、ベッドの脇で能天気に首を傾げている幽霊。
さらに言えば、隣の二◯三号室には文字通りの「死者」がいて、大家は胡散臭く、不動産屋も何かを隠している。おまけに昨日、街で正体不明の怪しい男にまで遭遇したばかりだ。
「……普通のアパートだよ」
嘘は言っていない。いろいろと要素が渋滞しているだけで、建物自体はただのアパートだ。多分。
『ならいいけど』
「もう切るよ?」
『あ、待って』
「何?」
『来週、荷物送るから』
「荷物?」
『レトルトの食べ物とか、春物の服。送ってあげる』
「いらないって」
『いるでしょう』
「服ならあるって」
『橘平の「ある」は信用できません』
母は相変わらず一方的に会話を進めていく。橘平は適当に相槌を打ちながら、ヨイの動きを目で追った。
いつの間にか布団の傍に座り込んだヨイは、身体を左右にユラユラと揺らしながら、橘平の顔をじっと覗き込んでいる。その屈託のない姿を見ていると、母への意固地な感情や苛立ちが、不思議とすーっと薄らいでいくのが分かった。
「……それじゃあ」
『ちゃんと大学行くのよ』
「分かってるって」
『それと――』
「まだ何かあるのかよ」
『身体にだけは、気をつけてね』
不意をつかれ、橘平は言葉を詰まらせた。
小言ばかりだった母の、最後にぽつりと漏らした声がやけに優しくて、胸の奥が少しだけ痛む。
「……うん。母さんもな」
静まり返った部屋に、スマートフォンを畳の上に置く乾いた音だけが響いた。
「疲れた」
橘平はそのまま、倒れ込むように布団へ突っ伏した。
畳の上に放り出した足がなんとも味気ない。自分のものではないように、動かそうとしても感覚がなかった。
「う」
すささ、と寄ってきたヨイが、顔を近づけて橘平の様子を伺ってくる。
「お前も聞いてただろ」
「う」
「うちの母さん、うるさいだろ」
「う!」
ヨイは満面の笑みを浮かべ、小さな身体全体を使って大げさに頷いてみせた。
「そこは否定しろよ……」
咎めつつも、橘平の口元が自然と緩む。ヨイも満足そうに嬉しそうに微笑んだ。
橘平は天井を見上げ、物思いに耽る。
大学生活。新しい環境。これから始まる未知の毎日。
高校までとは何もかもが変わる。自分で時間を選び、自分で行動し、自分で関係性を築いていく。
きっと、まともな大学生としての道が待っているはずだった。
そして、その新しい生活のすぐ隣に、ヨイがいる。幽霊がいて、死者がいて、消えた学校の謎があり、誰にも言えない秘密がある。
「まあ」
橘平は身体を起こし、ガシガシと頭を掻いた。
それからパシッと両頬を叩くと、すぐ傍で顔色を伺ってくるヨイに向き直る。
「なるようになるか」
「う!」
「まずは朝飯だな」
新しい季節が始まる。
が思い描いていたような「普通の大学生活」になるのか。
それとも――この「よいまち荘」に足を踏み入れた時点で、そんな平穏は諦めるべきなのか。
今の橘平には、まだ知る由もなかった。
ただ一つ確かなのは、この春から始まる日々が、これまでの人生のどれよりも間違いなく騒がしくなるということだけだった。




