実力行使・5
橘平の足が、ピタリと固まる。男もまた、その場で足を止めた。
重苦しい数秒の沈黙。二人はただ無言でお互いを見つめ合う。先に沈黙を破ったのは、相手の男だった。
「君、この前の」
橘平は思わず目を見開いた。
間違いない。先日、明石不動産の帰り道で急いでいた際、角で激しくぶつかってしまったあの四十代半ばの男性だった。
あの時、男の手から滑り落ち、路上に散らばった書類。
そこに印刷されていた、木造校舎の古い写真。
そして――ヨイが着ているものと全く同じデザインの、独特なセーラー服。
「偶然、ですね」
男が静かな声で言った。
「……そうですね」
橘平もどうにか声を絞り出した。けれど、お互いにまったく同じ疑念を胸に抱いているのが痛いほど伝わってきた。
――これは本当に、ただの「偶然」なのだろうか。
男の鋭い視線が、橘平の腕に抱えられた大学の資料一式へと注がれる。
「大学の帰りかな?」
「はい。入学前の講義があって、その手続きです」
「そうか」
男はそれ以上、橘平の大学について深く追及しようとはしなかった。橘平も黙って立ち尽くしていた。
だが、胸の奥から湧き上がる問いを抑えつけることができなかった。
あの紙の写真。あのセーラー服。そして、この男が一体何を追っているのか。
橘平はなんとなくそのまま通り過ぎるのも気まずく、手持ち無沙汰に問いかけた。
「あの、こんなところで何をしてるんですか? お仕事か何かで?」
特に深い意味のない、単なる立ち話の世辞のつもりだった。
しかし、男はその問いにすぐには答えず、ゆっくりと橘平に視線を戻した。
「……人探しだよ」
「人探し、ですか?」
「ああ。ずっと……ある人を探している」
男は静かに答えると、路上から視線を巡らせ、路地の向かい側を指差した。そこには小さく古びた喫茶店があり、木製の看板が控えめに揺れている。
「立ち話もなんだな。もし時間があるなら、少し付き合ってくれないかい。喉も渇いただろう」
橘平は一瞬迷った。見知らぬ大人と二人で店に入るのは少し躊躇われたが、男のどこか悲壮感を帯びた雰囲気に押し切られるように頷いた。
「……あ、はい。少しなら」
*
喫茶店の最奥にある小さなテーブル席。
二人は向かい合わせで腰を下ろしていた。テーブルの上には、注文した二つのブレンドコーヒーが置かれ、微かな湯気を立てている。
橘平は何となく落ち着かない心地で、おしぼりを弄りながらグラスの結露に触れた。
「大学は、どうだった?」
男が静かなトーンで切り出してきた。
「……普通でした」
「普通?」
「思っていたより、ずっと普通でした」
もっと見知らぬ土地に怯えて、行く場所すら分からなくて逃げ出してしまうんじゃないかと身構えていたのに。
実際に行ってみれば、あっという間に帰路についていたのだ。
「大学なんてものは、何処もそんなものだろう」
「……まあ、そうかもしれません」
ほんの少しだけ、張り詰めていた空気が緩んだように思えた。
だが、橘平の胸の中には、さっき男が言った言葉が引っ掛かっている。
「あの……さっき言ってた、人探しって」
「ああ」
男はコーヒーカップを包み込むように手に持ち、遠い目をした。
「昔……生き別れたというか、行方が分からなくなった人を探していてね。この近くに昔住んでいたから、こうして足を運んでいるんだ」
「そうなんですか……。警察とかには?」
「警察が動けるような案件ではなくてね。もう、かなり昔の話なんだ」
男は自嘲気味に笑うと、脇に置いた革鞄を撫でた。
四十代ほどに見えるのだが、その横顔は疲労からかずっと老けて見える。
微笑んでいるのに口角が震えていてぎこちない。
「手掛かりも少なくてね。その人が昔通っていた学校の写真や、着ていた制服の資料なんかを頼りに、当時の関係者や場所を当たっているんだが……どうにも上手くいかない」
学校。制服。
その単語を聞いた瞬間、橘平の脳裏に電撃が走った。
(……待てよ)
先日、角でぶつかった時に男がぶちまけた書類。
あの時は動転していて、采地との電話に夢中でろくに意識していなかった。だが、確かに路上に散らばった用紙の中に――木造の古い校舎と、見覚えがありすぎる独特なデザインのセーラー服の写真があった。
橘平の表情が、目に見えて硬直する。
「……学校、ですか?」
「ああ。だが、それが不思議な話でね」
男は橘平の変貌に気づく様子もなく、静かに言葉を続けた。
「当時の写真も、制服の詳細な記録も残っている。なのに、いくら調べてもその学校そのものが存在したという記録が見つからないんだ。まるで最初からなかったかのように」
橘平は息を呑んで、テーブルの上に視線を落とした。
全く同じだ。
先日、采地がデータベースを照合して弾き出した異常な結論と、完璧に一致している。
「……それ。その制服って……どんなデザインなんですか?」
今度は、男の手がぴたりと止まった。
男はゆっくりと顔を上げ、橘平の目をじっと見つめ返す。その瞳の奥に、鋭い光が宿り始めていた。
「何故、制服のデザインが気になるんだい?」
「っ……」
しまった、と橘平は思った。喰いつきすぎた。
だが、もう引き返せない。橘平は意を決して、探るように言葉を絞り出した。
「……俺も、似たような噂を聞いたことがあって。写真に残ってるのに、記録から消えてる学校があるって」
「そうか」
男は短く答えると、沈黙した。
店内に流れるジャズのBGMと、カトラリーの触れ合う音だけが遠く聞こえる。その沈黙は、息が詰まるほど長く感じられた。
「君が知っている『噂』の人物は」
男が、噛み締めるように言葉を紡ぐ。
「まだ、生きて探せる状態なのかい?」
男の眼光が、まるで橘平の思考を透かし見るように深く、鋭く注がれる。
「……なんで、そんな聞き方をするんですか?」
「質問に答えてほしい」
男の声は至って穏やかだ。だが、その穏やかさの裏に、底知れない執念のようなものが透けて見えて不気味である。
橘平は男の目を真っ直ぐ見つめ返した。この男は、単なる思い出の人探しをしているのではない。もっと深くて危険な何かを追っている。
「生きてますよ。ちゃんと」
嘘ではなかった。
世間一般の定義で言えば、ヨイはすでに命を落とした「幽霊」だ。けれど、橘平にとってヨイは確かにそこに存在している。
笑い、怒り、飯を美味そうに眺め、自分の隣で生き生きと動いているのだ。
「……そうか」
男はそれ以上、その点について追及してこなかった。代わりに、静かに問いを重ねる。
「その人物は、何歳くらいかな?」
「……分かりません」
「分からない?」
「名前も、年齢も、昔何処の学校に通っていたのかも……何も覚えていないらしくて」
口にしてから、橘平は「やってしまった」と後悔した。情報を出しすぎた。
だが、男は驚く様子も見せない。むしろ、答え合わせを終えたかのように、深く目を細めて納得していた。
「……そういうことか」
「何がですか?」
「いや」
男は手元のカップを見つめたまま、静かに首を振った。
「こちらの私的な推測でしかない」
そう言って核心を煙に巻こうとする男の態度に、橘平は眉を顰めた。
この男は絶対に何かを知っている。ここまで真相に踏み込んでおきながら、ただの雑談で済ませて逃げるつもりかという苛立ちが募る。
「貴方は一体、誰を探してるんですか? 何を知ってるんですか?」
今度は、男が口を閉ざす番だった。
店内の喧騒が、二人のテーブルの周りだけ遮断されているかのように重苦しい。
「……まだ、話す段階ではない」
「まだって」
「ああ」
男は残りのコーヒーを飲み干し、カップをソーサーに静かに置いた。
「君が何者で、どこまで関わっているのか、俺にはまだ判断がつかないからね」
「俺だって、あなたが誰なのか何一つ知りませんよ」
「それもそうか」
男は自嘲気味に肩をすくめ、ほんの少しだけ口元を緩めた。何処か親しみやすさを覗かせながらも、その声の底には消えない冷たさが潜んでいる。
「……君が何者で、どこまで関わっているのか、俺には判断がつかない。迂闊なことは言えないんだ」
「……」
「警戒しているんじゃない。リスクを分散しているんだよ」
男はそう言って立ち上がり、脇に置いた重そうな革鞄を手に取った。
去ろうとする男の背中に向けて、橘平も慌てて立ち上がる。
「ちょっと待ってください! 何かヤバいこと知ってんじゃないんですか!?」
周りの目など気にせずそう叫べば、男の足が止まった。
ゆっくりと振り返った男の目は、先ほどまでの穏やかさが嘘のように、射抜くような鋭さと濃い疲弊を帯びていた。
「一つだけ、覚えておくといい」
男の声が低く落ちる。店内に流れるジャズの音が急に遠退いたように感じられた。
「その制服や学校について調べ始めた人間はね……途中で探すのを諦めるんじゃない。『探していたこと』そのものを忘れていくんだ」
「……え?」
「記憶がすり減るのか、最初からなかったことになるのか……それは分からない。だが、あの写真を追っていた俺の知り合いも、全員そうなった」
その言葉が、胸の奥深くに重く突き刺さる。
本人すら名前も過去も覚えていないヨイ。記録から不自然なほどきれいに消え去った学校。それらは全て、男が言った「消去」の果ての結果なのではないか――。
嫌な符合が頭を駆け巡り、橘平は言葉を失った。
「君が今、その制服の人物を認識できているなら――まだ手遅れじゃない。関わらない方がいい」
男はそれだけを静かに告げると、ドアについたカウベルを涼やかに鳴らし、そのまま夕闇の街へと消えていった。
橘平は追いかけることもできず、ただ茫然とその背中を見送っていた。
「……なんなんだよ、一体」
分かったのは、たった一つ。あの男もまた、ヨイが着ているあの謎のセーラー服と学校を追っているということ。そして――自分達の知らない「何か」の渦中にいるということだけだった。
橘平は力なく席に座り直した。すっかり冷めきったコーヒーを一口啜る。苦味が口いっぱいに広がった。
「…………」
脳裏に、あの古びたアパートで待っているヨイの姿が浮かぶ。
時代遅れのセーラー服。名前も知らない。過去も知らない。何故死んで幽霊になったのかも分からない。
今までは、単なる好奇心や同情で「知れたらいいな」程度に思っていただけだった。
けれど、今日、初めて明確な意思として胸に湧き上がってきた。
――調べなきゃいけない。
ヨイが一体誰なのか。
あの制服は何を意味しているのか。
そして、あの存在しない学校とは何なのか。
「帰るか」
橘平は伝票を持って席を立った。
店を出て、夕闇に包まれ始めた街を歩きながら、さっきの男が残した最後の言葉を噛み締める。
探していたことそのものを、忘れていく。
その不穏な響きだけが、いつまでも頭から離れなかった。




