実力行使・4
朝の空気は、肌を刺すように少しだけ冷たかった。
橘平は自室の玄関前で屈み、履き古したスニーカーの靴紐をキュッと結び直してから、膝を突いて立ち上がった。
「よし」
今日は、大学へ行く日だ。
すっかり忘れていたが、いつの間にか三月になっており、春休みも終盤に差し掛かっている。信生活も目前に迫っていた。
そんな中で、正式な入学式はまだ少し先だが、大学側が設定した「入学前準備講義」という名のオリエンテーションのような授業があるらしい。
別に大したことではないはずだった。指定された講義室に行って、今後の履修についての説明を聞き、学生証の受領や必要な書類を手渡されて帰ってくる。ただそれだけの手続きだ。
それなのに、玄関のドアノブに手を掛ける前から、胸の奥が妙にざわつき、嫌な緊張感が広がっていた。
「う!」
背後から、いつも通りの軽快な声が響いた。
「ん?」
橘平が振り返ると、薄暗い廊下の奥から、ヨイがこちらをじっと覗き込んでいた。
時代を感じさせる独特なデザインの古いセーラー服。肩に掛かる長い黒髪。そして、床から十センチほど浮かんだその姿。
「……ああ」
橘平は頭を掻いた。そういえば、この幽霊同居人に今日の予定を詳しく話していなかったことを思い出す。
「今日、大学行ってくるんだよ」
「う!」
ヨイはパッと表情を輝かせ、嬉しそうに片手を上げた。
「別に遊ぶわけじゃないから。これからの手続きとか、いろいろあるんだ」
「う!」
「いや、だから……そんな楽しそうな顔されてもな」
何となく言い返してから、橘平はあきれたように苦笑した。
こうして玄関に向かって彼女が送り出してくれるのも当たり前になりつつある。
「まあ、いいか。行ってくる」
「ん!」
「留守番、頼むな」
「うー!」
何処か誇らしげな、妙に元気のいい返事だった。橘平は小さく息を吐き出すと、そのまま玄関の扉を開けて外の空気の中へ踏み出した。
*
駅までの慣れた道を歩きながら、橘平は鞄の中から大学から届いていた案内用紙を取り出し、歩調を緩めて何度も確認した。
集合時間。
キャンパスの号館と教室番号。
持ち物リスト。
提出が必要な書類一式。
どれも完璧だ。抜かりはない。それでも、足取りは何となく落ち着かなかった。
履き慣れたスニーカーでアスファルトを踏みしめながら、ぼんやりと周囲の景色を眺める。
見慣れた古いアパート周辺の街並みから、歩を進めるごとに整然とした新しい建造物や小綺麗なショップが増えていく。通り過ぎる人々の顔ぶれや空気感すらも変わっていくようだった。
自分が普段生きてきた狭く閉じた生活圏から、じわじわと未知の外側へ押し出されていくような感覚がある。
大学の敷地に近づくにつれ、周囲には同じような雰囲気を纏った若い学生達がちらほらと歩いていた。
手に真新しいパンフレットや資料を大事そうに抱えている者。スマートフォンで地図アプリを確認しながら不安そうに歩く者。すでに何処かで知り合ったのか、早くも友達らしき相手と楽しそうに歓談しながら歩く者。
その混雑の中に混じりながら、橘平も流れに沿って歩いた。
「……大学生、か」
思わず小さく呟く。自分で口にしてみても、喉の奥に固い違和感が残り、まったく実感が湧いてこなかった。
大学に合格した。春からここに進学する。自分は晴れて大学生になる。
言葉にして並べれば、何処にでもある至極当然のプロセスの話だ。けれど――。
ふと、あの冬の受験の日の光景が、フラッシュバックのように脳裏を過った。
静まり返った緊張感漂う教室。
机の上に配られた白黒の試験用紙。
壁に掛けられた時計が刻む、無情な秒針の音。
必死に鉛筆を動かしながら、胸の奥を押し潰しそうになっていたあの焦燥感。
そして、運命の合格発表の日。どれだけ探しても何処にも存在しなかった自分の受験番号。
「…………」
橘平はあえて視線を路肩の街路樹へと逸らした。
別に、今さら過ぎ去った苦い過去を思い出してみたところで、現実が何か変わるわけではない。そんなことは重々承知していた。それでも、こうして「大学」という教育機関の敷地に近づくにつれ、嫌でも思い出してしまうのだ。
自分が本当に行きたかった第一志望の場所。手が届かなかった過去。そして、折り合いをつけてこれから通うことになった、この場所。
「……はぁ」
胸の澱を吐き出すように、小さく息を吐いた。
落ち込むな、と自分に言い聞かせる。もう全ては決まったことだ。与えられた場所でやるしかない。そんな当たり前の理屈は、百も承知だった。
やがて見えてきた大学の正門の重厚なアーチを潜る。
見上げるほど大きな校舎。巨大な掲示板。交錯する学生達の声。
まだこの空間に身体が馴染んでいないせいか、目に入る風景の全てが、まるで映画のスクリーンの向こう側にあるように少しだけ遠く感じられた。
*
実際に始まった入学前講義は、橘平が身構えていたよりもずっと普通で、淡々としたものだった。
難しい専門知識を叩き込まれるわけでもない。大学という組織での過ごし方、単位の仕組み、履修登録のシステム、これから春までに準備すべき手続きについての説明が順を追ってなされるだけだ。
大きな大講義室の中には、橘平と同じように何処か固さを残した学生たちが大勢座っていた。
講義の合間、たまたま隣の席に座った男子学生から軽く声をかけられた。
「何処から来たんですか?」
「……この近くです。歩いてちょっとのところ」
「そっか。俺、結構遠くから一人暮らし始めるからさ、まだ全然慣れなくて」
交わした会話は、それだけだった。
お互いの名前を尋ね合うほどでもなく、連絡先を交換して友達になるわけでもない。けれど、講義が終わって書類を鞄にしまっている頃には、橘平の胸の中にほんの僅かながら安心感が生まれていた。
思っていたほど、構えるような場所じゃない。
ここにも自分と同じようなごく普通の人間がいて。普通に怯えて、普通に会話して、普通に授業を受けている。自分もまた、その大勢の中の一人として紛れ込んでいけばいいだけなのだ。
「まあ」
帰り支度をしながら、橘平はぽつりと呟いた。
「何とかなるか」
そう思えた。本当に、ほんの少しだけだったけれど。
講義室を出て大学の門を後にした頃には、空の色は茜色が混ざり始めた夕方のグラデーションへと変わりつつあった。
橘平はよいまち荘へと向かって歩みを進める。
行きと全く同じはずの道なのに、帰りの景色は妙に静かで、寂しげに感じられた。
キャンパスの敷地を一歩出た瞬間。さっきまで講義室の中で感じていた「これから新しい人生が始まる」という浮き足立った空気が、急速に潮が引くように遠のいていく。
(あーあ)
自分の足元を見つめながら歩く。
新しい生活。大学生活。単位。サークル。友達付き合い。就職活動。その先に続く未来。
自分には、まだ何一つとして明確なビジョンが見えていない。それでも、周りの人間は皆当たり前のような顔をして前へ進んでいく。自分も同じように歩調を合わせて進まなければならないのだと、自分に言い聞かせていた。
けれど――。
「……何やってんだろ、俺」
誰に聞かせるでもなく、吐き捨てるような言葉が零れ落ちた。
大学受験に滑って、滑り止めのここに入って。
親から半ば追い出されるように家を出て。
賃料が異常に安いという理由だけで、あの風変わりな「よいまち荘」に転がり込んで。
そこで当たり前のように幽霊と出会って。
幽霊と一緒にご飯を食べて。
幽霊の失われた過去や未練を一生懸命調べて。
もう死んでこの世にいない人間の未練に、自分から進んで首を突っ込んで。
そしていま、こうして何事もなかったかのように「普通の大学生」として振る舞おうとしている。
目の前にある全てが現実のはずなのに、何処か自分だけが本物の現実から取り残され、宙に浮いているような歪な感覚があった。
「別に」
橘平はぐっと顔を上げ、前方を見据えた。
「悪いことじゃないだろ」
大学に通うことも。よいまち荘に住み続けることも。ヨイという幽霊に出会ったことも。
何一つ、悪いことなんてない。むしろ――。
あの古いアパートに来たからこそ、自分は知らなかった世界や、他人の人生の深みに触れることができたんだ。そう捉えればいいはずだ。
「そうだよな」
自分自身に強く言い聞かせるように呟いた。
そのまま橘平は、行きに通った大通りではなく、少し遠回りになる住宅街の静かな路地へと足を踏み入れた。こちらの方が人が少なく、一人で思考を整理しながら歩くのには都合がよかった。以前も一度通ったことのある道だ。確かこの角を曲がれば――。
曲がり角を折れた、その瞬間だった。
「……あ」
前方から歩いてきた一人の男と、ぴったり視線がぶつかった。
橘平の足が、ピタリと固まる。男もまた、その場で足を止めた。
重苦しい数秒の沈黙。二人はただ無言でお互いを見つめ合う。先に沈黙を破ったのは、相手の男だった。
「君、この前の」
橘平は思わず目を見開いた。
間違いない。先日、明石不動産の帰り道で急いでいた際、角で激しくぶつかってしまったあの四十代半ばの男性だった。
あの時、男の手から滑り落ち、路上に散らばった書類。
そこに印刷されていた、木造校舎の古い写真。
そして――ヨイが着ているものと全く同じデザインの、独特なセーラー服。
「偶然、ですね」
男が静かな声で言った。
「……そうですね」
橘平もどうにか声を絞り出した。けれど、お互いにまったく同じ疑念を胸に抱いているのが痛いほど伝わってきた。
――これは本当に、ただの「偶然」なのだろうか。
男の鋭い視線が、橘平の腕に抱えられた大学の資料一式へと注がれる。
「大学の帰りかな?」
「はい。入学前の講義があって、その手続きです」
「そうか」
男はそれ以上、橘平の大学について深く追及しようとはしなかった。橘平も黙って立ち尽くしていた。
だが、胸の奥から湧き上がる問いを抑えつけることができなかった。
あの紙の写真。あのセーラー服。そして、この男が一体何を追っているのか。
橘平はなんとなくそのまま通り過ぎるのも気まずく、手持ち無沙汰に問いかけた。
「あの、こんなところで何をしてるんですか? お仕事か何かで?」
特に深い意味のない、単なる立ち話の世辞のつもりだった。
しかし、男はその問いにすぐには答えず、ゆっくりと橘平に視線を戻した。
「……人探しだよ」
「人探し、ですか?」
「ああ。ずっと……ある人を探している」
男は静かに答えると、路上から視線を巡らせ、路地の向かい側を指差した。そこには小さく古びた喫茶店があり、木製の看板が控えめに揺れている。
「立ち話もなんだな。もし時間があるなら、少し付き合ってくれないかい。喉も渇いただろう」
橘平は一瞬迷った。見知らぬ大人と二人で店に入るのは少し躊躇われたが、男のどこか悲壮感を帯びた雰囲気に押し切られるように頷いた。
「……あ、はい。少しなら」
*
喫茶店の最奥にある小さなテーブル席。
二人は向かい合わせで腰を下ろしていた。テーブルの上には、注文した二つのブレンドコーヒーが置かれ、微かな湯気を立てている。
橘平は何となく落ち着かない心地で、おしぼりを弄りながらグラスの結露に触れた。
「大学は、どうだった?」
男が静かなトーンで切り出してきた。
「……普通でした」
「普通?」
「思っていたより、ずっと普通でした」
もっと見知らぬ土地に怯えて、行く場所すら分からなくて逃げ出してしまうんじゃないかと身構えていたのに。
実際に行ってみれば、あっという間に帰路についていたのだ。
「大学なんてものは、何処もそんなものだろう」
「……まあ、そうかもしれません」
ほんの少しだけ、張り詰めていた空気が緩んだように思えた。
だが、橘平の胸の中には、さっき男が言った言葉が引っ掛かっている。
「あの……さっき言ってた、人探しって」
「ああ」
男はコーヒーカップを包み込むように手に持ち、遠い目をした。
「昔……生き別れたというか、行方が分からなくなった人を探していてね。この近くに昔住んでいたから、こうして足を運んでいるんだ」
「そうなんですか……。警察とかには?」
「警察が動けるような案件ではなくてね。もう、かなり昔の話なんだ」
男は自嘲気味に笑うと、脇に置いた革鞄を撫でた。
四十代ほどに見えるのだが、その横顔は疲労からかずっと老けて見える。
微笑んでいるのに口角が震えていてぎこちない。
「手掛かりも少なくてね。その人が昔通っていた学校の写真や、着ていた制服の資料なんかを頼りに、当時の関係者や場所を当たっているんだが……どうにも上手くいかない」
学校。制服。
その単語を聞いた瞬間、橘平の脳裏に電撃が走った。
(……待てよ)
先日、角でぶつかった時に男がぶちまけた書類。
あの時は動転していて、采地との電話に夢中でろくに意識していなかった。だが、確かに路上に散らばった用紙の中に――木造の古い校舎と、見覚えがありすぎる独特なデザインのセーラー服の写真があった。
橘平の表情が、目に見えて硬直する。
「……学校、ですか?」
「ああ。だが、それが不思議な話でね」
男は橘平の変貌に気づく様子もなく、静かに言葉を続けた。
「当時の写真も、制服の詳細な記録も残っている。なのに、いくら調べてもその学校そのものが存在したという記録が見つからないんだ。まるで最初からなかったかのように」
橘平は息を呑んで、テーブルの上に視線を落とした。
全く同じだ。
先日、采地がデータベースを照合して弾き出した異常な結論と、完璧に一致している。
「……それ。その制服って……どんなデザインなんですか?」
今度は、男の手がぴたりと止まった。
男はゆっくりと顔を上げ、橘平の目をじっと見つめ返す。その瞳の奥に、鋭い光が宿り始めていた。
「何故、制服のデザインが気になるんだい?」
「っ……」
しまった、と橘平は思った。喰いつきすぎた。
だが、もう引き返せない。橘平は意を決して、探るように言葉を絞り出した。
「……俺も、似たような噂を聞いたことがあって。写真に残ってるのに、記録から消えてる学校があるって」
「そうか」
男は短く答えると、沈黙した。
店内に流れるジャズのBGMと、カトラリーの触れ合う音だけが遠く聞こえる。その沈黙は、息が詰まるほど長く感じられた。
「君が知っている『噂』の人物は」
男が、噛み締めるように言葉を紡ぐ。
「まだ、生きて探せる状態なのかい?」
男の眼光が、まるで橘平の思考を透かし見るように深く、鋭く注がれる。
「……なんで、そんな聞き方をするんですか?」
「質問に答えてほしい」
男の声は至って穏やかだ。だが、その穏やかさの裏に、底知れない執念のようなものが透けて見えて不気味である。
橘平は男の目を真っ直ぐ見つめ返した。この男は、単なる思い出の人探しをしているのではない。もっと深くて危険な何かを追っている。
「生きてますよ。ちゃんと」
嘘ではなかった。
世間一般の定義で言えば、ヨイはすでに命を落とした「幽霊」だ。けれど、橘平にとってヨイは確かにそこに存在している。
笑い、怒り、飯を美味そうに眺め、自分の隣で生き生きと動いているのだ。
「……そうか」
男はそれ以上、その点について追及してこなかった。代わりに、静かに問いを重ねる。
「その人物は、何歳くらいかな?」
「……分かりません」
「分からない?」
「名前も、年齢も、昔何処の学校に通っていたのかも……何も覚えていないらしくて」
口にしてから、橘平は「やってしまった」と後悔した。情報を出しすぎた。
だが、男は驚く様子も見せない。むしろ、答え合わせを終えたかのように、深く目を細めて納得していた。
「……そういうことか」
「何がですか?」
「いや」
男は手元のカップを見つめたまま、静かに首を振った。
「こちらの私的な推測でしかない」
そう言って核心を煙に巻こうとする男の態度に、橘平は眉を顰めた。
この男は絶対に何かを知っている。ここまで真相に踏み込んでおきながら、ただの雑談で済ませて逃げるつもりかという苛立ちが募る。
「貴方は一体、誰を探してるんですか? 何を知ってるんですか?」
今度は、男が口を閉ざす番だった。
店内の喧騒が、二人のテーブルの周りだけ遮断されているかのように重苦しい。
「……まだ、話す段階ではない」
「まだって」
「ああ」
男は残りのコーヒーを飲み干し、カップをソーサーに静かに置いた。
「君が何者で、どこまで関わっているのか、俺にはまだ判断がつかないからね」
「俺だって、あなたが誰なのか何一つ知りませんよ」
「それもそうか」
男は自嘲気味に肩をすくめ、ほんの少しだけ口元を緩めた。何処か親しみやすさを覗かせながらも、その声の底には消えない冷たさが潜んでいる。
「……君が何者で、どこまで関わっているのか、俺には判断がつかない。迂闊なことは言えないんだ」
「……」
「警戒しているんじゃない。リスクを分散しているんだよ」
男はそう言って立ち上がり、脇に置いた重そうな革鞄を手に取った。
去ろうとする男の背中に向けて、橘平も慌てて立ち上がる。
「ちょっと待ってください! 何かヤバいこと知ってんじゃないんですか!?」
周りの目など気にせずそう叫べば、男の足が止まった。
ゆっくりと振り返った男の目は、先ほどまでの穏やかさが嘘のように、射抜くような鋭さと濃い疲弊を帯びていた。
「一つだけ、覚えておくといい」
男の声が低く落ちる。店内に流れるジャズの音が急に遠退いたように感じられた。
「その制服や学校について調べ始めた人間はね……途中で探すのを諦めるんじゃない。『探していたこと』そのものを忘れていくんだ」
「……え?」
「記憶がすり減るのか、最初からなかったことになるのか……それは分からない。だが、あの写真を追っていた俺の知り合いも、全員そうなった」
その言葉が、胸の奥深くに重く突き刺さる。
本人すら名前も過去も覚えていないヨイ。記録から不自然なほどきれいに消え去った学校。それらは全て、男が言った「消去」の果ての結果なのではないか――。
嫌な符合が頭を駆け巡り、橘平は言葉を失った。
「君が今、その制服の人物を認識できているなら――まだ手遅れじゃない。関わらない方がいい」
男はそれだけを静かに告げると、ドアについたカウベルを涼やかに鳴らし、そのまま夕闇の街へと消えていった。
橘平は追いかけることもできず、ただ茫然とその背中を見送っていた。
「……なんなんだよ、一体」
分かったのは、たった一つ。あの男もまた、ヨイが着ているあの謎のセーラー服と学校を追っているということ。そして――自分達の知らない「何か」の渦中にいるということだけだった。
橘平は力なく席に座り直した。すっかり冷めきったコーヒーを一口啜る。苦味が口いっぱいに広がった。
「…………」
脳裏に、あの古びたアパートで待っているヨイの姿が浮かぶ。
時代遅れのセーラー服。名前も知らない。過去も知らない。何故死んで幽霊になったのかも分からない。
今までは、単なる好奇心や同情で「知れたらいいな」程度に思っていただけだった。
けれど、今日、初めて明確な意思として胸に湧き上がってきた。
――調べなきゃいけない。
ヨイが一体誰なのか。
あの制服は何を意味しているのか。
そして、あの存在しない学校とは何なのか。
「帰るか」
橘平は伝票を持って席を立った。
店を出て、夕闇に包まれ始めた街を歩きながら、さっきの男が残した最後の言葉を噛み締める。
探していたことそのものを、忘れていく。
その不穏な響きだけが、いつまでも頭から離れなかった。




