実力行使・3
よいまち荘から少し離れた場所。
茜色から群青色へと刻一刻と染まりゆく黄昏時の住宅街を、一人の人影が静かに歩いていた。
薄暗い路地には、街灯がポツポツと灯り始めている。冷え込み始めた夕暮れの風が吹き抜け、街路樹の葉をサササと乾いた音で揺らしていた。
男の足取りは重く、そして何処か宛もない。
特に急ぐ様子もなく、目的地があるようにも見えなかった。
ただ、道端の古い自動販売機から漏れる青白い蛍光灯の光をぼんやりと眺めたり、立ち並ぶ一戸建ての窓から漏れる夕飯の温かな匂いや家族の笑い声に何気なく視線を向けたりしながら、虚ろな足取りで、ゆっくりと歩を進めている。
片手に握りしめた革の鞄は、長年使い込まれたせいで角が擦り切れていた。
男の表情には、深い疲弊と、それ以上に永い年月をかけて積み重なった落胆の影が刻まれている。
時折、胸のポケットに手をやり、何かを確かめるように上からそっと触れていた。そこには、折りたたまれた一枚の古い写真が入っている。
やがて、その足がぴたりと止まった。
視線の先にあるのは――錆びついた外階段と、長年の風雨で薄汚れたモルタルの壁が印象的な、古びた二階建てのアパート。
『よいまち荘』
その人物は、何をするでもなく、ただじっとその建物を見上げた。
二階の窓、幾つか灯る明かり、そして静まり返った二〇三号室の暗がり。幾重にも重なる夕闇の影がアパートの壁面を覆い尽くしていく中で、男の佇まいはまるで、遠い過去に置いてきてしまった記憶の破片を確かめようとしているかのようだった。
「…………」
喉の奥から絞り出すような、深く重い息を吐き出す。
しばらくの静寂の後、その人物は諦めたように視線を落とすと、また静かに歩き出した。
アパートの前をそのまま通り過ぎる。……と思われた。
しかし、数歩進んだところで、ふと引き寄せられるように立ち止まり振り返る。
男の心の中で、二つの感情が激しく葛藤していた。立ち去らなければならないという理性と、確かめずにはいられないという執着。
やがて男は迷いを断ち切るように、強い踏み込みでよいまち荘の敷地へ向かってゆっくりと歩き始めた。
敷地の前まで来る。
長年の風雨で歪み、半分開いたまま錆びついた古びた鉄製の門扉。
木目が浮き出た色褪せた木製の表札。
その奥の暗がりに並ぶ、一〇一から二〇五までの幾つもの部屋番号。
その人物が、意を決したように階段を登ろうとした――その時だった。
「――何か御用?」
背後から、飄々とした男の声がすっと滑り込んできた。
「っ!」
階段を登ろうとしていた男の動きがピタリと止まった。
空気が一瞬にして凍りついた。男はゆっくりと振り返る。その視線の先に立っていたのは――このアパートの大家である神代だった。
普段着のくたびれた服に身を包み、両手をポケットに突っ込んだまま、神代はそこに立っていた。何処から現れたのか、足音すら聞こえなかった。
「ここ、住人以外はあんまり入らんほうがええよ」
神代の口元には、いつものような、へらりとした捉えどころのない笑みが浮かんでいる。
露骨な敵意は見当たらない。相手を詰め寄ろうとするような警戒の仕草すら見せない。
だが、その背が高く細身の体躯と絶妙な立ち位置は、完璧に二階へのルートを塞いでいた。ここから先へ一歩たりとも進ませるつもりだけはないということだけが、言葉にされずとも暗に示されていた。
「…………」
相手は何も答えない。夕闇で影になった表情は伺えなかったが、その視線が神代の佇まいを、そしてその目の奥にあるものをじっくりと観察していることだけは伝わってきた。
神代は笑ったまま、呑気に首を傾げてみせる。
「道、間違えたんやったら案内するで? この辺、夜になると街灯も少ないし、路地が入り組んでて迷い込みやすいからなぁ。どっか探してる場所でもあるんか?」
「いえ、何処にも」
「せやけど」
神代の声のトーンが、ごく僅かに落ちた。
語尾の柔らかさとは裏腹に、へらへらとした目の奥に宿る冷ややかな光が強まる。
「ここから先は、やめとき」
静かだが、これ以上の立ち入りを明確に拒絶する決定的な一言。
神代の放つ空気が、ただの気さくな住人のそれから、何処か得体の知れない圧力を孕んだものへと変化していく。
それでも、その人物は動かなかった。引き返す素振りも見せず、神代と対峙したままその場に留まり続ける。
神代もまた、笑みを絶やすことなく微動だにしない。
数秒。
あるいは十数秒。
秋の訪れを告げる冷たい風の音と、遠くを走る電車の重低音だけが、二人の間に漂う重苦しい沈黙を埋めていた。
やがて――その人物は、神代からゆっくりと視線を外した。
追及を諦めたのか、あるいは神代という存在の持つ異常な違和感を敏感に察知したのか。
男は言葉を一言も発することなく、何事もなかったかのように踵を返し、来た道を引き返していく。
神代は、その背中を黙って見送った。
男の足音が遠ざかり、角を曲がってその姿が完全に夜の陰へと消えていく。
「…………」
その姿が完全に見えなくなった瞬間、神代の顔からへらへらとした薄笑いがふっと消え去った。
誰もいなくなった暗い道を、無表情のまましばらく眺め続ける。その瞳には、先ほどまでの呑気な住人としての顔は欠片も残っていなかった。冷徹で、深く、何か大きな秘密を一人で守り続けている者の目だった。
「……まだ、嗅ぎつけるには早いやろ」
小さく、吐き捨てるように呟く。
神代はポケットの中で、何か硬いものをカチリと鳴らした。
そして薄暗い街路灯の光を浴びながら、何事もなかったかのようにくるりと踵を返し、古い木造と湿った土の匂いが漂うよいまち荘へと戻っていった。
*
二◯五号室の室内は、アパートの外の静けさとは対照的に、ささやかな日常の温もりに包まれていた。
橘平は椅子に座り、買い込んできた惣菜を小さな皿に移し替えながら、今日一日の出来事を脳内でひとつひとつ整理していた。
采地から掛かってきた一本の電話。
ヨイが着ている古びたセーラー服の謎。型紙のデータは存在するのに、その制服を採用していた学校の記録が全国の何処を探しても出てこないという異常事態。
采地が漏らした「最初から存在しなかったみたいだ」という気味の悪い言葉。
そして――二〇三号室の幽霊に関する、もう一つの大きな進展。
「そうだ」
橘平は木割りの箸をパチンと割りながら、思い出したように口を開いた。
「今日さ、学校の件の前に、不動産屋にも寄ってきたんだよ。明石さんのとこ」
「う?」
パックの蓋が開けられたコロッケの甘辛いソースの匂いを、鼻を近づけてうっとりと嗅いでいたヨイが、ぴくっと反応して顔を上げた。
「二〇三号室の……あの人のこと、聞いてきた」
その言葉を聞いた瞬間、ヨイの全身からいつもの巫山戯た空気が一瞬で消え去った。
あのアパートの二階で、記憶を完全に失ったまま、今もただひたすら誰かのために煮物を作り続けている、あの切なく哀しい女性の幽霊。
ヨイにとっても、同じよいまち荘に棲みつく「同類」であり、自分の過去と同じくらい放っておけない存在なのだ。
ヨイはすーっと浮遊しながら橘平のすぐ隣まで移動し、身を乗り出してきた。
「あの人、昔このよいまち荘に住んでた本物の住民だったらしい」
「……う」
「三十代くらいの女性でさ。旦那さんと、幼い息子さんが一人いたんだって」
ヨイは橘平の隣にちょこんとしゃがみ込む姿勢を取り(実際には畳から数センチ浮いている)、真剣そのものの丸い眼差しで橘平の言葉に聞き入っている。
「すごく礼儀正しい人で、料理が好きだったらしい。明石さんの記憶だと……よく煮物を作ってたって」
「……!」
ヨイの大きな目が動揺に揺れた。
二〇三号室の扉を開けた時、橘平が見たあの手作りの料理。大根や人参が丁寧に切り揃えられた肉じゃがや筑前煮といった家庭的な煮物の数々。あれは、彼女が生前に愛する家族のために毎日作っていた、思い出の味そのものだったのだ。
「それでさ……」
橘平はタケノコの煮物を一口口に運び、ゆっくりと噛み締めながら言葉を続けた。
「その人の旦那さん、今も、生きているらしい」
「……ッ!?」
ヨイがハッと息を呑む音が、部屋の中に響いた気がした。
彼女の半透明の身体が微かに震え、弾かれたように橘平の顔を凝視した。まるで「本当なのか」と問い詰めてくるかのように、その小さな手を伸ばしかけている。
「ああ。明石さんが言ってた。『旦那さんは今も生きている』って。何処かの学校で、先生をやってる人だったらしい」
橘平の脳裏に、二〇三号室で出会った女性の幽霊の切ない表情が浮かんでいた。
自分の名前すら忘れ、自分がすでにこの世を去っていることすら理解していないかもしれない中で、ただ「あの人に食べさせてあげなきゃ」という一心な執着だけでこの世に留まり続けている。
その「あの人」こそが、今もこの世界の何処かで生きている彼女の夫なのだとしたら――。
「もし、その旦那さんを見つけることができたら」
橘平は箸を止め、茶碗を見つめたままポツリと言った。
「あの人に、会わせてあげられるかもしれない」
ヨイは何も言わなかった。というより、言葉を持たない彼女には何も言えなかった。
ただ、胸の前で両手をギュッと小さく握りしめ、何かを祈るような、あるいは切望するような熱を帯びた目で橘平を見つめていた。その透き通った瞳には、自分自身の失われた過去の謎を追う時以上の、強い思いと感情が宿っているように見えた。
「まあ、まだ旦那さんが今どこで何をしてるのかも分からないし、急に『奥さんの幽霊がアパートにいます』なんて言いに行ったら警察呼ばれるのが落ちだけどな」
橘平は重くなりかけた空気を払うように自嘲気味に笑い、ソースの染みたコロッケを口に運んだ。サクッとした歯ごたえとともに、芋の甘みが広がる。
「でも、手掛かりはゼロじゃない。明石さんも『昔の古い契約書類とか、残ってないか探してみる』って言ってくれたし。焦らず、少しずつ調べていこう」
「う!」
ヨイが、本日一番の力強い声で頷いた。
その返事には、迷いや不安を吹き飛ばすような、不思議な力強さと温もりが宿っていた。橘平はその真っ直ぐな瞳に背中を押されるような感覚を覚え、自然と口元が緩んだ。
「よしっ! じゃ、まずは飯だ。食わないと頭も回らんからな」
「う!」
二人は狭い畳の上に並んで座り、一人は実際に惣菜を美味しそうに口に運び、もう一人はその隣で満足そうに食べる真似をした。古い六畳間の小さな部屋に、ささやかだが確かな温もりが満ちていく。
二〇三号室の女性が抱える、過去と家族への残した未練。
そして、ヨイが身に纏っている「存在しない学校」の古びたセーラー服。
まったく無関係に見えていた二つの深い謎が、ゆっくりと、だが確実に不可思議な糸で絡み合いながら動き始めていた。
だが、橘平は、この時完全に失念していたのだった。
今日、明石不動産からの帰り道――采地との衝撃的な電話に夢中になり、街角を曲がったところで激しくぶつかった、あの四十代半ばの真面目そうな男性のこと。
彼が抱えていた鞄から滑り落ち、地面に舞った書類の中に写っていた、あの木造校舎と、ヨイとまったく同じデザインのセーラー服の写真のこと。
あまりにも多くの情報が一気に押し寄せたせいで、その日常のふとした過ちのような出来事は、橘平の意識の暗い隅へと追いやられてしまっていた。
それこそが、二つの謎を複雑に繋ぐ「最大の鍵」であることにも、彼はまだ気づいていなかった。
「ごちそうさま。やっぱり腹が減ってると碌なこと考えねぇな」
「う!」
隣で「食べた気分」を十分に満喫したヨイが、機嫌を取り戻したように嬉しそうに宙で一回転してみせる。セーラー服の裾がふわリと舞い上がった。
橘平は呆れながら笑い、空になったプラスチック容器をまとめて立ち上がり、狭いシンクへと向かった。水蒸気で曇った窓に冷たい水道水を流しながら、ふと外の暗闇に目をやる。
すっかり日が落ち、黒く染まった窓ガラスには、自分の冴えない顔と、その後ろで機嫌よくふわふわと浮いているヨイの姿がくっきりと映っていた。
二〇三号室の幽霊と、今も生きているその夫。
ヨイの制服と、記録から消去された存在しないはずの学校。
そして、今日街角ですれ違ったあの男の影と、アパートの門前に現れた神代の冷ややかな視線。
いくつもの見えない線が、自分たちの知らぬところで複雑に交錯し始めている予感が、静かに橘平の胸を掠める。
だが、橘平は頭を振ってその捉えどころのない胸騒ぎを振り払った。
「まあ、今日はもう寝るか。未練探しの準備もしないとだしな」
「う……」
ヨイはもう少し話したそうに、つまらないと言いたげな顔をしてみせたが、橘平が押し入れの引き戸をガラガラと開けて敷布団を引っぱり出すのを、大人しく横で見守っていた。
畳の上に布団を敷き、小さな蛍光灯の紐を引いて豆電球に変える。
部屋の外、暗闇に包まれたアパートの周囲で何が起きているのか。
自分達のすぐ目と鼻の先で、どんな危険な影が蠢き始めているのか。
ほのかな豆電球の光に包まれた部屋の中で、二人はいまだ何も知る由もなかった。




