実力行使・2
明石不動産を出た橘平は、ぼんやりと空を見上げながら歩いていた。
結局、二〇三号室の女性について分かったことは、それほど多くない。
三十代くらいの女性。
夫と、幼い息子が一人。
料理が好きで、特に煮物をよく作っていた。
そして――その夫は、今も生きているということ。
「……旦那さん、か」
橙色に染まり始めた空に向かって小さく呟く。
あの女性が探している『大切な人』が夫なのだとしたら、いつか二人を会わせることができるのだろうか。
そんなことを考えていると、ポケットの中でスマホが震えた。
「ん?」
取り出して画面を見る。表示されていた名前は――さっちんだ。
「もしもし?」
『お前、今何処?』
「帰ってる途中だけど」
『あー、そう。ならちょうどいいわ』
「何が?」
電話の向こうで、采地が小さく息を吐く音が聞こえた。
上着のポケットに手を突っ込んで、電話を耳に当てたまま再び歩き出す。
『前に頼まれたやつ』
「あっ!」
橘平の足が、思わず速くなる。雑踏の喧騒を押し払うように、スマホを耳に強く押し当てた。
采地の気だるげな声の奥にある小さなニュアンスまで聞き逃すまいと、全身の神経を電話口に集中させる。
『制服、調べといた』
「ほ、ほんと?」
『おー』
だが、采地の声は妙に歯切れが悪かった。
不気味なほどの沈黙が電話越しに伝わってきて、橘平の胸の中に嫌なざわめきが広がった。
「どうだった?」
『それがさ、学校名まで辿り着かなかったんだよ』
「……え?」
すれ違う通行人の波の中で、自分一人だけが取り残されたような錯覚に襲われた。耳に押し当てたスマホから聞こえるノイズすら、何処か遠くに感じる。
采地が口にした言葉の意味がすぐには理解できず、思考がその場で固まってしまった。
「どういうこと?」
『だから、学校が分からないんだよ』
「制服のデータは?」
『ある。お前が言ってた特徴に合致する制服自体は、確かに存在する。昔の制服資料や古い写真にも似たものは出てくるんだ』
「じゃあ、その制服を採用してた学校は?」
『それが……何処にもねぇんだよ』
「はあ?」
『制服のデザインは存在するのに、それを指定着にしていた学校の記録が一切出てこない』
額に嫌な汗が滲むのを感じる。制服の仕立てやデザインのデータが存在している以上、それはどこかの学校で実際に作られ、生徒たちに着用されていたはずなのだ。それなのに「学校の記録がない」という矛盾が、じわじわと不気味な現実味を帯びて思考を侵食していく。
「そんなこと、あるのか?」
『普通はないだろ』
采地の声から、いつもの軽さが消えていた。
『学校が統廃合されたとか、名前が変わったとか、そういう線も全部当たった。だけど、それらしい記録が一切ひっかからねぇ。廃校になった学校としても存在してないんだ。まるで――』
電話の向こうから、ごくりと唾を飲む小さな音が聞こえた。いつもは軽薄なほど楽観的な采地が、本気で怯えているのが声の震えから伝わってくる。その躊躇いが、事態の異常さを何よりも雄弁に物語っていた。
「まるで?」
『……最初から、そんな学校なんて存在してなかったみたいだよな』
橘平の背筋を、ヒヤリと冷たいものが駆け抜けた。
ヨイは何者なのか。どうしてあのセーラー服を着ているのか。
そもそも――彼女はいつ死んだのか。
過去を紐解く唯一の手掛けかりになるはずだった学校が、存在すらしていない。
「……変だな」
『だろ? もうちょっと探してみるけど、正直これ以上は厳しいかもしれん』
「そっか……ありがと、助かる」
『おう。また何か分かったら連絡する』
通話を繋いだまま、橘平は再び歩き出した。
頭の中はヨイのことでいっぱいだった。
あの古びたセーラー服。ヨイが毎日のように身に纏っている、過去に繋がる唯一の糸口。
なのに――その制服を着ていたはずの学校が存在しないとは、どういう意味なのだろう。
「……ヨイ」
『ん? なんか言ったか?』
「いや、何でもない」
采地との会話を続けながら、橘平は通り沿いの角を曲がろうとした。
考え事に没頭していたせいで、前方への注意が完全に欠けていた。
角を曲がった、その瞬間。
「うわっ!」
「っ……!」
ドンッ、と強い衝撃とともに肩がぶつかった。
手から滑り出たスマホが、小さな音を立ててアスファルトに転がる。
「す、すみません! 前を見てなくて――」
咄嗟に立ち上がった橘平は、慌てて頭を下げた。
思考を占領していた謎が一瞬で吹き飛び、代わりに焦りが身体を駆け巡る。手から滑り落ちたスマホの画面が無事かどうかを気にする前に、まずは相手への申し訳なさで胸がいっぱいになった。
「いや、こちらこそ。怪我はないかい?」
聞こえてきたのは、落ち着いた低い男の声だった。
橘平が顔を上げると、そこには見覚えのない男性が立っている。
四十代半ばくらいだろうか。小綺麗なスーツに身を包み、片手には書類の詰まっていそうな鞄を抱えている。何処か疲れたような影を宿しながらも、生真面目そうな面立ちだった。
「大丈夫です」
「そうか、よかった」
男性はそう言って腰を落とすと、地面に落ちた橘平のスマホを拾い上げて手渡してくれた。
「はい、どうぞ」
「あ、ありがとうございます」
橘平が受け取った、まさにその瞬間だった。
男性が抱えていた鞄の隙間から、一枚の紙がひらりと滑り落ちた。
「あ……」
地面に舞い降りた用紙。男性がそれを拾い上げようと手を伸ばす一瞬――橘平の目に、そこに印刷された白黒の画像が飛び込んできた。
古い木造校舎の背景。
そして、そこに写っていた少女達の身に纏う――見紛うはずもない、あのセーラー服。
「……ッ!?」
橘平の目が大きく見開かれる。
しかし男性は橘平の動揺に気づく様子もなく、静かに紙を拾い上げ、鞄へと仕舞い込んだ。
「すまない、急いでいてね」
「あ、は、はい……」
男性は丁寧に会釈をすると、そのまま速足で去る。
橘平はその背中を、金縛りに遭ったように呆然と見送るしかなかった。
淡く色づく道筋の先へと、賛成の後ろ姿は消えていく。
『おい、橘平? どうした急に黙って』
スマホの向こうから、采地の不審そうな声が響く。
「……いや」
遠ざかっていく男性の背中を視線で追いながら、橘平は掠れた声で呟いた。
「今、ありえないものを見た気がして」
『は? 何言ってんだ?』
「……なんでもない。あとでかけ直す」
一方的に通話を切り、橘平もゆっくりと歩き出した。
心臓が嫌な鐘の音を打ち続けている。
その違和感を誤魔化すように、上着のジッパーを一番上まで上げて走り出した。
*
よいまち荘の重い木製ドアを開ける頃には、路地の端まで朱色の夕陽が長く伸びていた。
何処か遠くでカラスの鳴く声が聞こえ、古い木造アパート特有の、湿った木と埃の匂いが鼻腔を擽る。
外の世界から遮断されたような薄暗い廊下を歩き、自室である二◯五号室の鍵穴に金属の鍵を差し込んだ。カチャリと乾いた音が響く。
「ただいまー」
鍵を開け、ドアノブを回して引き戸を開ける。その瞬間だった。
「う!」
暗がりの中から、弾丸のような質量(のない何か)が飛び出してきた。
「うおっ!?」
橘平は反射的に身を引いた。
視界を掠めたのは、あの見慣れた古びたセーラー服と、乱れた黒髪。ヨイだった。
いつものように勢いよく飛び出してきた彼女は、空中で制止することなどできず、橘平の身体を、まるで薄い霧でもくぐるかのようにスーッとすり抜けていく。身体の中心を冷ややかな風が通り抜ける特有の感覚に、橘平は身震いした。
「……お前なぁ」
廊下の床に着地することすら叶わず、そのまま部屋の畳の上を勢いよくゴロゴロと転がっていったヨイは、壁にぶつかる手前でむくりと起き上がった。透けた身体が揺れている。
「う?」
首を傾げ、何事もなかったかのようにくりくりとした丸い目で見つめてくる。
「ただいまって言ってんだろ。突っ込んでくんな」
「う!」
「返事だけは一丁前だな、まったく……」
橘平は呆れ混じりの苦笑を漏らしながら、靴を脱いで上がった。
いつもの光景。いつもの賑やかで、何処かズレている部屋。
明石不動産での重苦しい聞き込みや、街角ですれ違った男の放っていた不穏な空気、そして采地からの常識を揺るがすような電話連絡――それらの重圧で強張っていた橘平の肩から、すっと力が抜けていくのを感じた。
鞄を畳の上に置き、上着のボタンを外していると、ヨイが膝立ちの姿勢のまま、じーっと橘平の顔を覗き込んできた。浮遊しているため、彼女の視線は橘平の胸元あたりにある。
「……何だよ」
「う?」
「いや、何でもない」
橘平は息を吐きながら座布団を引き寄せ、どっかりと腰を下ろした。
「……ちょっと疲れた」
そう呟くと、ヨイも静かに隣へ寄ってきた。
当然、畳の上に置かれた座布団の感触を彼女が確かめることはできない。完全に畳から数センチ浮いた状態のまま、正座のような姿勢をとっている。そして、心配そうに橘平の顔を横からジロジロと観察してくるのだ。
橘平は、天井の薄暗い蛍光灯を見上げた。
部屋の中に落ちる影が、夕暮れの深まりとともにじわじわと濃くなっていく。その中で、隣にいるヨイの存在だけが、ぼんやりとした輪郭を保ちながら発光しているように見えた。
「そういや」
橘平は、ポケットの中にある五十音表の紙と十円玉の感触を確かめながら言った。
「お前の学校のこと、ちょっと分かったぞ」
「……!」
その言葉が出た瞬間、ヨイの半透明の身体がぴくりと跳ねた。
彼女の大きな目が、さらに見開かれる。消えかかった記憶の奥底にある何かに触れられたかのように、彼女の表情に緊迫感が走った。
「制服の学校のことだ」
「う……?」
「いや、正確には『分かった』っていうか、『分からなかった』ことが分かった、って感じなんだけどさ」
橘平は頭の後ろをボリボリと掻いた。どう説明したものか悩ましい。
「さっちんに調べてもらったんだよ。例のファッションデータベースとか、昔の制服の記録とかさ」
橘平は鞄から折りたたまれた五十音表を取り出し、畳の上に広げた。そしてポケットから使い古された十円玉を取り出し、中央の『開始』の文字の上に置く。
ヨイは橘平の意図を察したように、吸い寄せられるように向かい側へ移動した。薄暗い部屋の中で、二人は五十音表を挟んで向かい合う。
「聞かせてくれ」
橘平が十円玉の上に人差し指を置くと、ヨイもまた、透けた小さな指先を橘平の指の上に重ねてきた。触れ合っている感覚はない。ただ、指先がひんやりと冷たくなるだけだ。
「お前が着てるそのセーラー服……あの学校のこと、何か思い出せるか?」
橘平が問いかけると、十円玉の下で僅かな緊張が走った。
ヨイの顔が真剣そのものの表情に変わる。ぎゅっと唇を噛み締め(その動作すらどこか儚い)、全神経を指先に集中させているようだった。
やがて、十円玉がズズ……と不自然な滑らかさで動き出した。
紙の上を滑る金属音が微かに部屋の中で響く。
『が』
最初の文字を指したところで、十円玉がピタリと止まった。
「が……?」
橘平は息を呑んだ。学校の頭文字だろうか。
しかし、そこから十円玉は動かない。ヨイの指先は十円玉の上に置かれたままだが、彼女自身が戸惑ったように首を傾げている。
「学校の名前……『がっこう』か?」
橘平が助け船を出すように尋ねると、十円玉が再びゆっくりと滑り出した。
『っ』
『こ』
『う』
そこまで辿り着いて、また止まる。ヨイの表情には焦りの色が見え始めていた。何かを思い出そうと必死に記憶の糸を手繰り寄せているようだが、その糸は途中でぷつりと切れてしまっているらしい。
「名前は……思い出せないか?」
イは小さく首を振った。探す指先に力が入る。
十円玉が最後の文字へ向けて滑っていった。
『わ』
『か』
『ら』
『な』
『い』
五つの文字を正確に辿り終えると、十円玉からすっと力が抜けた。
「……そっか」
橘平は胸の奥で小さく息を吐き出し、十円玉から指を離した。
「お前自身も、分かんないんだな」
ヨイは視線を落とし、畳の上に広がった五十音表をただじっと見つめていた。
いつもなら「う!」と威勢よく声を上げるか、オーバーなリアクションを取るはずの彼女が、丸く肩をすぼめて静まり返っている。その姿は、幽霊というよりは、迷子になって自分の家のアドレスを思い出せない小さな子供のようだった。
橘平は急に胸が痛み、慌てて手を振った。
「いや、責めてるわけじゃないんだ! 当たり前だろ、自分の死んだ時期すら怪しいんだからさ。学校の名前なんて忘れてて当然だよ」
「……う」
「それにさ……怪しいのはお前の記憶だけじゃないんだよ」
橘平は五十音表を丁寧に折りたたみながら、昼間の采地との電話内容を反芻した。思い出すだけで、背筋に不気味な寒気が走る内容だ。
「さっちんが言ってたんだ。お前が着てるそのセーラー服……デザイン自体は、確かに昔のデータベースに存在してるらしい」
ヨイがゆっくりと顔を上げた。首を傾げ、不思議そうに橘平を見つめる。
「衿のラインの太さとか、胸当ての刺繍の形とか、特徴が完全に一致する制服の型紙データがあったんだと。だから、その制服はこの世に確かに作られて、誰かが着ていたはずなんだ」
「う……?」
「でもな……」
橘平は言葉を切り、言葉を選ぶように慎重に続けた。
「その制服を『指定制服』として採用していた学校の記録が、全国の何処を探しても一校も出てこないんだってよ」
部屋の中が、しんと静まり返った。
夕暮れ時の街の雑音――遠くを走る車の音や、近所の子供の声――が、まるで遠い世界の出来事のように遠のいていく。
「学校が少子化で潰れたとか、名前が変わったとか、そういうレベルじゃないんだ。廃校になった学校の過去のアルバムや、教育委員会の古い資料を全部当たっても、その制服を採用していた学校が存在しない」
「……」
「采地は言ってた。『最初から、そんな学校は存在してなかったみたいだ』って」
ヨイは目を丸くしたまま、橘平の口元を見つめていた。
彼女にその言葉の意味がどこまで理解できているかは分からない。けれど、「存在しない学校の制服を着ている」という事実が持つ異常さは、言葉のニュアンスとして彼女にも伝わっているようだった。
最初から存在しない学校。
存在しないはずなのに、確かにここに現物として(幽霊の衣類としてだが)存在しているセーラー服。
そして、それをごく当然のように身に纏っているヨイという存在。
(……じゃあ、ヨイは一体どこから来たんだ?)
橘平の頭の中に、冷ややかな疑問が渦巻く。
彼女は本当に「生徒」だったのだろうか。それとも、何か別の存在なのだろうか。
彼女の記憶が奪われているのは、単に死のショックによるものではなく、彼女の存在そのものがこの世の記録から消去されているからなのではないか――そんな突飛な妄想すら頭を過る。
「まあ、焦る必要はないさ」
橘平は努めて明るい声を作り、膝を叩いて立ち上がった。これ以上重い空気に飲み込まれるのは勘弁だった。
「さっちんも『もう少し別の角度から洗ってみる』って言ってたしな。あいつ、口は悪いけどこういうオタクっぽい検索能力だけは無駄に高いからさ。そのうち何か引っかかるだろ」
「う?」
「それに、ほら」
橘平はパタパタと台所へ歩いていき、小さな冷蔵庫の扉を開けた。
「腹減ったろ。俺は腹ペコだ」
冷蔵庫の黄色い電球が、中の寂しい棚を照らし出す。昨日スーパーのタイムセールで半額になっていたコロッケと、タケノコの煮物のパックを取り出した。
「う!」
さっきまでの沈んだ表情が嘘のように、ヨイの顔がパッと華やいだ。すり足のような独特の浮遊移動で、橘平の背後へスーッと寄ってくる。
幽霊のくせに、食べ物に対する執着だけは生きている人間以上に強い。
「お前も食うだろ?」
「う!」
「……だよな。聞くだけ野暮だったわ」
橘平は苦笑しながら、惣菜のプラスチックパックの蓋をパカッと外した。電子レンジで温めると、香ばしいソースの匂いと、甘辛い醤油の香りが狭い六畳間に広がっていく。
ヨイはその匂いを嗅ごうとするように、鼻をひくひくさせてパックの直上に顔を近づけていた。もちろん、彼女がこれを実際に口にして消化できるわけではない。だが、匂いを楽しみ、食べている「気分」を味わうことはできるらしい。
さっきまでの不気味な静寂が薄れ、部屋の中にいつもの居心地の良い温もりが戻ってきた。




