実力行使・1
「なんでまた」
古びた看板を見上げる。
以前、よいまち荘を紹介してもらった『明石不動産』だ。
正直なところ、あまり来たくはなかった。胡散臭い店主といい、事故物件を平然と押し付けてくる姿勢といい、警戒心しか湧かない。
だが――二〇三号室のことを調べるなら、ここへ来るのが一番の近道だった。
橘平は意を決してガラス戸に手を掛け、押し開ける。
「すみませーん」
「はいはい……って、お前か」
カウンターの奥から顔を出した明石が、橘平の姿を見るなり少しだけ目を丸くした。
「どうした、こんな時間から」
「ちょっと、聞きたいことがあって」
「なんだ? 家賃の値下げ交渉なら無理だぞ。あれでも相場より破格なんだからな」
「違います」
即答すると、明石は「冗談だよ」と軽やかに肩を竦めた。
「で? 何か部屋に不備でもあったか」
橘平は念のため、店内をぐるりと見回した。
あの食えない雰囲気を纏った大家・神代の姿はない。彼がいると話がややこしくなりそうだったから、いないのは好都合だ。
「……よいまち荘のことなんですけど」
「ほう」
「二〇三号室……隣の部屋のことです。前に住んでた人、いましたよね?」
橘平の問いかけに、明石の表情がほんの少しだけ引き締まった。
「ああ」
「どんな人だったんですか?」
「どんなって……」
明石はカウンター奥の椅子に深く腰掛け、腕を組んだ。
しばらく考える素振りを見せると、何処からとも無く取り出した煙草に火を付ける。
「普通の人だった。三十代くらいの女の人だ。大人しい感じで、近所との揉め事も聞いたことがねぇ」
「名前は?」
「……悪いな。契約書をひっくり返せばあるだろうが、そこまではパッと思い出せねぇよ。もう何年も前の話だからな。それに、俺が入居者の個人情報をバラすわけにはいかねぇ」
「そうですか。そうですよね⋯⋯」
そう簡単に一筋縄で行くとは思っていなかったが、いざ現実を突きつけられるとやるせない。
橘平が落胆しかけると、明石は顎に手を当てながら言葉を継いだ。
「ただ、確か旦那と子供がいたはずだ」
「……え?」
まるで独り言のように飛んできた声に、橘平は弾かれたように顔を上げた。
明石は咥えた煙草を弄びながら、天井を見上げてなにか物思いに耽っている。皺がいくつか刻まれた首筋を眺めながら、橘平はおずおずと問う。
「家族がいたんですか?」
「ああ。旦那さんと、子供が一人。確か男の子だったと思う」
「息子……」
昨日見た、あの破られた写真が脳裏に浮かぶ。
顔を黒く塗り潰された女性と、腕に抱かれた小さな赤ん坊。そして、意図的に写真から消されていた『三人目の人物』。
「その旦那さんって、どんな人でした?」
「さあな。契約の時くらいしか顔を合わせてねぇから、詳しい人柄までは知らん」
「じゃあ、奥さんがどういう人だったかは? 何か覚えてることありませんか」
「だから、至って普通の人だって。……いや」
明石は言いにくそうに言葉を切り、天井へ視線を向けた。
そこに何かいるのか、橘平はつられて天井を見上げる。しかし、当たり前に何かがあるわけでもなく、蛍光灯を直視して目を無駄に刺激された。
シパシパする目を瞬かせていると、含みのある明石の声が聞こえた。
「かなりの料理好きだって、聞いたことがあるな」
橘平の心臓が、ドクリと跳ねた。
「料理……」
「ああ。契約の更新だか何だかの手続きの時に雑談してな。『主人が私の作る煮物を好きでいてくれるから』とか、そんなことを言ってた気がする」
頭の中で、バラバラだったピースが一気に噛み合っていく。
昨日、あの二〇三号室で女性が作っていた手料理。
出汁の利いた、優しく何処か懐かしい煮物。
そして――『大切な人に、もう一度美味しいって言ってもらいたい』という彼女の言葉。
それらが一気に頭の中で形を成していって、一つの塊を形作っていった。
「……その人、家族のために料理を作ってたんですね」
「そうだな。料理が好きっていうか、家族に食べさせるのが生き甲斐みたいな雰囲気だったよ。よいまち荘に住んでた頃も、夕方になるとあの廊下まで出汁の良い匂いが漂ってたって、他の住人から聞いたことがある」
よいまち荘には、かつて当たり前に人が住んでいた。
それがいつの日からか幽霊やら人ならざる者が住むようになったのだ。
この世に生きている人々の中で、よいまち荘の過去を知っている人はどのくらいいるのだろう。明石は知っているだろうが、神代はどうだろう。
大家という肩書はありながら、その実、見た目年齢自体は三十代前後とかなり若い。
よいまち荘の謎は、人ならざる者が住み着いているという点にあるのだろう。
「……その人、今何処にいるんですか?」
橘平が尋ねると、明石の手が止まった。
急に重くなった静寂が、店内に満ちていく。
一点を見つめたまま口を閉ざす明石を橘平は不安の入り混じる目で見つめた。
「明石さん?」
「……行方不明だ」
「え……?」
「ある日突然、いなくなった」
言葉の意味が分からなくて、橘平は目を見開いて固まる。
後頭部に鈍器で強く殴られたような衝撃が襲った。
「旦那さんからうちに連絡があってな。『妻が帰ってこない、何か知らないか』って。警察も入って捜索したらしいが、結局手がかり一つ見つからなかった」
「…………」
「だから二〇三号室も、荷物を引き取った後にそのまま空いた。まあ、そんな経緯がある事故物件だ。次の入居者なんて決まるわけねぇよな」
明石の言葉を聞きながら、橘平は静かに息を呑んだ。
行方不明。
つまり彼女は、生きているのか死んでいるのかすら分からないまま、ある日突然姿を消したのだ。
そして今、幽霊となって二〇三号室に留まり続けている。
自分が誰なのかも、愛した家族のことも忘れてしまったのに――『夫が好きだと言ってくれた料理を作る』ということだけを胸に抱いて。
「……明石さん」
「あ?」
「その人の旦那さんって、今も……」
「ああ。生きてるよ。たまに街で見かけるが、今でも奥さんを探してる様子だったな」
その答えを聞いた瞬間、橘平の胸の奥で熱いものが大きく波打った。
「……そうですか」
まだ確信には至っていない。けれど、ほぼ間違いないはずだ。
二〇三号室の彼女が、記憶を失ってなお作り続けている料理。それを食べさせたいと願う『大切な人』。
それは――
「……旦那さん、なんですね」
ポツリと漏れ出た橘平の呟きに、明石は鋭い目つきで視線を向けた。
「……お前、何か分かったのか?」
「いえ」
橘平は即座に首を横に振る。警戒心と期待が滲む瞳で見つめられ、橘平はカウンターテーブルの上に視線を落とす。
この明石不動産のキャッチコピーである『貴方にとって、一番だと思える暮らしを』と書かれたチラシが目に入った。なんとも呑気な謳い文句だ。
「まだ、何も」
誤魔化すようにそう答えながらも、橘平の心の中では固い決意が固まっていた。
彼女がずっと待ち続けている相手。
そして、彼女の止まった時間を動かすことができる唯一の存在。
その人は、今もこの世に生きて、彼女を探している。
「旦那さん、今も生きてるんですね」
「ああ」
明石は短く答え、カウンターの隅にある灰皿へ視線を落とした。
外を走り去る車の走行音だけが、やけに遠く聞こえている。明石は灰皿の縁を無意識にトントンと指先で叩いていたが、やがて何か意を決したように深く息を吐き出すと、ゆっくりと橘平へ視線を戻した。
「ただ、まあ……」
「?」
「奥さんがいなくなってから、あの人もかなり大変だったみたいだけどな」
「……どんな人なんですか?」
「旦那さんか?」
「はい」
明石はすぐに答えず、腕を組んだままじっと橘平の表情を探るように見つめた。
何かを言い淀むような一瞬の間の後、ふっと遠い目をして記憶の引き出しをひっくり返し始める。
「真面目な人だったよ。確か学校の先生だったはずだ」
「先生、か」
橘平は思いがけない言葉に目を瞬かせた。
「何の教科かまでは知らねぇけどな。契約の時も、やたら丁寧で礼儀正しい人だった」
「今も先生を?」
「そこまでは知らん」
明石はそう言って、カウンターの上に置かれた書類を指先で弄んだ。
その中には、橘平が初めての子見せに来た時に押し付けられた宣伝用のチラシも含まれている。
「ただ、奥さんがいなくなった後も、しばらくあの辺りで暮らしてたらしい」
「探してたんですかね?」
「そりゃ探すだろ」
当たり前のように言われ、橘平は言葉を失った。
自分だったらどうするだろう。
大切な人が、ある日突然目の前から姿を消してしまったら。
何処にいるのかも分からないまま、何日も、何ヶ月も帰ってこなかったら。
諦めずに探し続けられるだろうか。
「息子さんは?」
「ん?」
「その人の息子さんです。今、どうしてるんですか?」
「ああ⋯⋯」
明石は少しだけ視線を泳がせ、視線を外の通りへ投げた。
先ほどまでの歯切れのよさが嘘のように、その口調には何処か僅かな陰りが混じっている。その家族に起きた出来事の惨状を思い返しているのか、あるいは言えない何かを隠そうとしているのか、明石の表情からは読み取れない。
「それは俺も知らねぇな」
「そうですか」
「ただ、奥さんが姿を消した時には、まだ小さかったはずだ」
「じゃあ……」
昨日見た写真。あの小さな赤ん坊は、やっぱり彼女の息子だったのだ。
けれど、写真に写っていたはずの家族は、誰一人として顔を認識できない。
母親の顔も、赤ん坊の顔も黒く塗り潰され、隣にいたはずの父親に至っては写真ごと欠けていた。
「明石さん」
「なんだ?」
「その人が住んでた頃のこと、他に何か覚えてませんか?」
「他に?」
「例えば……よく作ってた料理のこととか」
「料理ねぇ……」
明石は腕を組んで唸り、天井の一点を見つめた。
過去の遠い記憶を掘り起こすように、視線をゆっくりと泳がせる。自分の思い出の中に残る欠片を一つずつ手探りで手繰り寄せているようだった。
やがて、何かを思い出したように小さく膝を打つ。
「煮物はよく作ってたと思うぞ」
「やっぱり……」
「あと、旦那さんが肉じゃが好きだって言ってた気がするな」
「肉じゃが?」
橘平は思わず呟いた。
昨日、写真の手がかりを探るために自分も候補に挙げた料理だ。だが、彼女が作っていたものは、いわゆる肉じゃがとは少し違っていた。
「肉じゃがじゃないんだけどな」
「何が?」
「あ……」
橘平は慌てて手で口を覆った。
危ない。二〇三号室の幽霊と直接話したことや、実際に手料理を目の当たりにしたことまで白状してしまうところだった。背中に冷や汗が流れるのを感じる。
「いや、その……なんでもないです」
「……?」
明石が怪訝そうに片眉を上げる。
書類を弄ぶ指先を止め、カウンター越しに橘平の表情を鋭く覗き込んできた。その目は、まるで嘘や隠し事を見透かそうとするベテラン探偵のようだ。
あまりの視線の強さに、橘平は思わず息を呑んだ。
「お前、さっきから妙だな」
「気のせいじゃないですか?」
「二〇三号室の前の住人について聞きに来たと思ったら、やたら深く突っ込んでくるし。何かあったのか?」
橘平は答えに詰まった。ここで正直に話すわけにはいかない。
『隣の部屋に幽霊がいて、自分は昨日その人と話しました。彼女は自分が誰なのかも分かっていません』――そんな話を信じる人間がいるはずもない。
「……お隣さんなんで、ちょっと気になっただけです」
「ふーん」
明石は明らかに納得いかない顔をしていた。
それでも、それ以上は踏み込んで追及してこなかった。
「まあ、何か分かったら教えてやるよ」
「本当ですか!?」
「ああ。昔の契約書類を探せば、名前くらいは出てくるかもしれねぇしな」
「お願いします!」
思わず身を乗り出すと、明石は驚いたように目を丸くした。
「……お前、そんなに知りたいのか?」
「はい」
橘平は真っ直ぐ明石を見つめ、強く頷いた。その視線には、一切の迷いも誤魔化しもない。
二〇三号室で一人、自分の名前すら分からずに料理を作り続けているあの女性の姿が頭を過る。自分が誰かも、愛した家族の顔も思い出せないのに、ただ「大切な人に食べてもらいたい」という切ない思いだけでそこに留まり続けている。
ただの好奇心や首を突っ込みたいだけの気持ちじゃない。見過ごして逃げ出すわけにはいかないという、青臭くも確かな決意がそこにはあった。
「その人のこと、ちゃんと知りたいんです」
自分でも、何故そこまで必死になるのか分からなかった。
ただ、二〇三号室で一人きりになっているあの女性のことを思うと、どうしても放っておけなかったのだ。
自分の名前すら思い出せず、大切な人の顔も分からなくなっている。
それでも、誰かに料理を食べてもらいたいという切ない感情だけが、今も残っている。
なら――せめてその『誰か』くらいは、見つけてやりたい。
「……分かったよ」
明石は小さく溜め息を吐いた。橘平の目から溢れ出る真っ直ぐな意志の強さに、気圧されたのかもしれない。
あるいは、自分の中にあった小さな毒気が抜けてしまったのか。明石は呆れたように肩をすくめると、組み替えた腕を解いてデスクの天板に放り投げた。
「ちょっと探してみる」
「ありがとうございます」
「ただし、変なことに首突っ込むんじゃねぇぞ」
「変なこと?」
「いや……」
明石は言いかけて、言葉を飲み込んだ。そして何事もなかったかのように苦笑してみせる。
「なんでもねぇよ」
「……?」
橘平は何処か引っかかるものを感じつつ、お礼を言って店を出た。
カランと音を立てて扉が閉まる。
橘平の姿が完全に見えなくなったところで――。
「……あいつ」
明石は一人、ぽつりと呟いた。
「どこまで知ってやがるんだ?」
カウンターの上に肘をつき、閉じたガラス戸をじっと見つめる。
そして、重苦しい息を吐き出した。
「……まさか、な」
そう呟いて立ち上がると、明石は古びた棚の奥へと向かった。
めったに開けることのない、数年前の古い契約書類が詰まったファイルへと、静かに手を伸ばすのだった。




