幕間 インチキ不動産屋
「おー、やっとるー?」
時刻は午前九時半を回った頃。
まだ開店前で「準備中」の札が掛かる『明石不動産』の店内に、何処か気の抜けた男の声が響いた。
「うちは居酒屋じゃねぇんだよ。朝飲みのノリで入ってきてんじゃねぇ」
「相変わらず冷たっ。 ええやんか、どーせ営業中も開店休業みたいなもんやろ?」
「万年ニートにだけは言われたかねぇよ」
いつの間にか勝手にパイプ椅子を引き出して座っていた神代は、奥の事務所から出てきた明石へ不敵な笑みを向けた。
「なんだよ。お前がそんなツラして笑ってる時は、碌なことがねぇんだが」
「ひっどいなぁ。ボク、そんな悪人に見える?」
「見える」
「即答やん」
神代はケラケラと楽しそうに笑うと、カウンターに頬杖を着いた。
「ところでさぁ」
「……嫌な予感しか提示してこねぇな、お前は」
「この前、あの部屋に入居させた子おるやろ?」
明石の眉が、ぴくりと跳ね上がった。
カウンターテーブルを挟んで座ると、明石は腕を組んで答える。
「ああ……長谷川とかいう、あの大学生か?」
「そうそう。長谷川橘平くん」
「……なんだ。もう何か問題でも起こしたのか?」
「いやいや、むしろ逆」
神代は満足そうに目を細めた。
そんな彼を横目に、明石はワイシャツの胸ポケットからタバコを取り出す。
ライターで火をつけると、紫煙があたりに漂い始めた。
「めっちゃ『ええ子』やなぁと思って」
「お前が他人を素直に褒めるなんて珍しいじゃねぇか」
「失礼やなぁ。ボクかて人を愛でる心くらい持っとるよ」
「どの口が言ってんだか」
「まあ、それは置いといて」
神代は背もたれに深く身体を預け、足を組んだ。
「どういう経緯で、あの子をあの『二〇五号室』に入れたん?」
「……どういうもこうもねぇよ。普通に安アパート探してたから紹介しただけだ」
「ほぉ?」
「金がねぇって困ってたからな。あそこなら相場より格段に家賃も安いし、立地も大学から近い。あいつの条件にぴったり合ってたってだけだ」
「なるほどなぁ」
神代は顎に手を当て、思案するように天井を仰ぐ。
長い前髪で隠されたその表情に、さっきまでの笑みはなかった。
「で?」
「で、って何だよ」
「あの子、よいまち荘のこと何か言っとらんかった?」
「……何かって?」
「例えば――『変なもの』が見えた、とか」
明石のタバコを灰皿に入れる手が止まり、店内からフッと雑音が消えた。
「…………」
「…………」
「……お前」
明石は携帯灰皿を弄くりながら、呆れたように目を細めた。
「また何かろくでもないこと企んでんのか?」
「企んでへんって。冤罪やわ」
「じゃあ何でそんなこと聞く?」
「ちょっと気になっただけや」
神代はニタリと楽しそうに口角を上げている。
けれど、その眼鏡の奥にある瞳だけは――まるで獲物を観察するかのように、一切笑っていなかった。
「……まあ、何もないならええんやけど」
神代は、何食わぬ顔でそう言った。
明石は紫煙をゆるゆると吐き出しながら、神代を横目で見やる。
「何もないっていうか……」
「ん?」
「あいつ、部屋のことについては結構文句言ってたぞ」
「文句?」
「ああ。『思ってたよりボロい』だの、『壁薄すぎません?』だのな」
「ははは!」
神代が腹を抱えて可笑しそうに笑う。
「そらそうやろ! なんせあの『よいまち荘』やからなぁ!」
「紹介した俺が言うのもなんだが、よく住む気になったと思うよ」
「で、他には?」
笑いながらも、神代はさらりと探るような鈴の鳴る声で尋ねた。
神代が求める“他の文句”は、決してアパートに対する文句の類ではない。
「何か、変わったこと言っとらんかった?」
明石の手が止まるほんの一瞬の僅かな停滞を神代は見逃さなかった。
「……特にねぇよ」
「ほんまに?」
「ああ」
明石は何でもないことのように答え、灰皿に灰を落とした。
「部屋がボロいだの、家具が何もないだの。そんな愚痴ばっかりだ」
「…………」
「少なくとも、変なものを見ただとか――そういう不気味な話は聞いてねぇな」
当然、嘘だった。
数日前。入居初日の掛かってきた切羽詰まった電話の内容は、変わらず鮮明に覚えている。
『幽霊、住んじゃってるんだよなぁ』
『⋯⋯はあ?』
あの時の長谷川の叫び声は、今でも耳に焼き付いている。
だが、それをこの胡散臭い大家に口にする気は毛頭なかった。面白半分で巻き込まれるのが目に見えているからだ。
「そっかぁ」
神代はあっさりと引き下がった。
「……まあ、そうやんなぁ」
しかし、その呟きには何処か引っ掛かるような響きがあった。
神代は再びカウンターに頬杖を着き、何かを思考するように視線を落とす。
(……見えてへんのか?)
二〇五号室には、確かに「いる」。
神代はその存在を知っているからこそ、今回の入居者には少しばかり興味があったのだ。
もし「見える」人間なら、何かしら激しい反応を示すはずだ。
怖がって部屋を飛び出すか。
不動産屋や大家である自分に泣きついてくるか。
あるいは――お祓いでも頼んでくるか。
ところが、入居してから数日経っても、橘平からは何の音沙汰もない。
(最初に何か違和感を覚えたっちゅうのも、ただの気のせいやったんかな)
霊が見える人間なんて、そうそういるものではない。
むしろ、何も気づかずに素通りできるほうが普通なのだ。
「……まあ、ええか」
神代は椅子から立ち上がると、明石に背を向ける。
「なんだ、もう帰るのか?」
「うん。ちょっと用事思い出したわ」
「お前が朝からまともに動くなんて珍しいな」
「失礼やなぁ。ボクかて忙しい身ぃやで」
神代はくすくすと笑いながら、店の出口へと向かう。
「ほな、またな」
「はいはい。頼むから営業時間前に来んなよ」
「気が向いたらまた来るわ」
「二度と来るな」
ガラス戸を開けると、朝の少し冷たい空気が店内に流れ込んだ。
神代は外へ出る直前、一度だけ振り返る。
「長谷ちゃん、なぁ」
ぽつりと小さく呟くその口元を薄っすらと吊り上げた。
「……見えてへんのやったら、それでええんやけどな」
その声は、誰の耳にも届かない。
明石もまた、何も言わずに煙草を吹かしていた。
ただ一人。この時すでに二〇五号室で『見えないはずの存在』と当たり前のように暮らしている青年のことを、二人だけが別々の思惑を抱えて気に掛けていた。




