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お隣さん・6




 静かな廊下に立った橘平は、ふう、と長い息を吐いた。


「……謎が増えただけじゃねぇか」


 手掛かりを見つけたはずなのに、頭の中は余計にごちゃごちゃしている。あの写真に写っていた赤ん坊は誰なのか。写真からごっそりと消えていた人物は誰なのか。顔を黒く塗り潰された女性と赤ん坊。

 そして、彼女が「美味しい」と言って料理を食べさせたいと思っている相手は――。


「分からん。全然分からん」


 腕を組み、廊下の冷たい壁に背中を預ける。考えれば考えるほど、頭が痛くなってくるばかりだ。

 二〇三号室の女性――記憶を失い、名前すら思い出せない幽霊。

 彼女は自分が誰かも分からず、ただひたすらに料理を作り続けている。床に散らばった食材、使い込まれた調理器具、そしてあの黒く塗られた家族写真。あれだけの異常な光景を目にしながらも、先ほど会話した彼女の佇まいは、驚くほど静かで、何処か儚げだった。


「誰かに食べてもらわなくちゃいけないんだろうな」


 寂しそうに微笑みながら言っていた彼女の言葉が、耳の奥で何度もリフレインする。


(あんな顔されたら、無視なんてできるわけねぇだろ)


 溜め息を吐き、頭をガシガシと掻きむしった。

 そもそも自分は、格安物件につられてこの『よいまち荘』に引っ越してきただけの、しがない貧乏大学生だ。怪異に首を突っ込む趣味なんてないし、心霊現象なんてテレビの特集で見るだけで十分だったはずだ。

 それなのに、初日からセーラー服の幽霊少女・ヨイに憑かれ、今度は隣の部屋の幽霊の未練探しときた。

 自分でもお人好しが過ぎると呆れるが、一度関わってしまった以上、あの寂しげな横顔を投げ出して自分だけ平穏なキャンパスライフを送るなんて器用な真似はできそうにない。


「……はぁ。とりあえず、ヨイに報告するか」


 橘平は自分の部屋――二〇五号室のドアノブへ手を伸ばした。鍵を回し、ノブを押し下げる。


「ただいまー」


 扉を開けた、その瞬間だった。


「う!」


 待ってましたと言わんばかりに、部屋の奥から小さな影が猛スピードで飛んできた。


「お、おいっ!?」


 避ける間すらない。勢い余ったヨイの身体が、橘平の胸元を綺麗にすり抜けた。


「うっ!」

「だから毎回突っ込んでくるなって言ってるだろ!」


 通り抜けた瞬間の、冷水を通されたようなヒヤリとした感覚に身ぶるいする。

 勢いのついたヨイはそのまま床の上を二、三度コロコロと転がり、慌てて跳ね起きると、すぐに橘平の元へ駆け寄ってきた。

 相手の裾を掴もうと小さな手を伸ばす――が、すっ、と虚しく空を切り、そのまま前傾姿勢で体勢を崩しそうになる。


「お前、本当に学習しないな」

「うぅ……」


 さっきまであんなに勢いよく飛び出してきたというのに、ヨイは一瞬で眉を八の字に下げ、しょんぼりと肩を落とした。自分の透けた手を見つめ、不満そうに口を尖らせている。

 そのあまりにも分かりやすくコロコロと変わる表情に、橘平は毒気を抜かれ、思わず噴き出してしまった。


「はは、悪い悪い。そんな顔すんなって。ほら、ちゃんと話すからさ」


 橘平は靴を脱ぎ、履き古したスリッパを揃えると、部屋に入ってパタンと扉を閉めた。

 畳の上にどっかりとあぐらをかいて腰を下ろす。すると、ヨイも待ちきれないといった様子で、橘平のすぐ隣へチョコンと座り直した。距離が近い。まるで飼い主の膝元にすり寄る子犬のようだ。


「写真、見せてもらったぞ」

「う?」


 ヨイが身を乗り出すようにして、瞳を輝かせる。


「ただな……」


 橘平は後頭部をかきながら、苦笑いを浮かべた。


「正直、余計に分からなくなった」

「…………う?」


 ヨイは不思議そうに首を傾げた。まるで「どういうこと?」と問いかけているかのようだ。


「まあ、順を追って聞いてくれよ」


 橘平は、二〇三号室で見てきたこと、聞いてきたことを一つずつ整理しながらヨイに話し始めた。


「まず、あの料理のことだけどな。やっぱりあの人が作った手料理だった。……まあ、お前がさっきキレイに完食しちゃったわけだけど」


 そう言うと、ヨイは「美味しかった!」と胸を張るように「う!」と力強く頷いた。


「はいはい、分かったから。でな、その料理なんだけど……あの人、昔作っていた味を思い出そうとして、何度も何度も試行錯誤をしてるらしいんだ」

「う……?」

「そう。床に散らばってた大量の食材も、包丁を握り締めてたのも、全部その料理を再現しようとしてたからなんだよ。誰かに『美味しい』って食べてもらうために」


 ヨイは小さく口を開け、真剣な表情で橘平の言葉に耳を傾けている。


「でもな、問題はここからだ」


 橘平は表情を少し引き締めた。


「あの人……自分の名前も、自分が誰なのかも、一切覚えてなかった」

「……!」


 ヨイの目が見開かれる。自分と同じだ、と気づいたのだろう。

 ヨイ自身も、自分が誰で、何故この部屋にいるのかの記憶がない。同じ境遇の存在がすぐ隣の部屋にいたことに、衝撃を受けているようだった。


「自分が誰かも分からない。誰に料理を作っていたのかも分からない。それなのに『誰かに食べてもらいたい』って気持ちだけが残ってて、それに引き摺られるようにして料理を作り続けてるんだ」


 ヨイはキュッと唇を噛み締め、膝の上のスカートの布地をぎゅっと握り締める仕草をした。もちろん手は服を通り抜けてしまうのだが、その仕草だけで彼女が心を痛めているのが痛いほど伝わってきた。


「で、例の写真なんだけどさ」


 橘平はポケットからスマホを取り出し、画面をタップした。二〇三号室で女性の許可を得て撮影させてもらった、あの写真立ての画像だ。


「これを見てくれ」


 前傾姿勢になり、画面をヨイに見せる。ヨイは画面に顔を近づけ、穴が空くほどじっと覗き込んだ。


「気味が悪いだろ?  写真の右側が、まるで意図的に破り取られたみたいにごっそり無くなってるんだ。本来ならそこに、父親らしき『三人目の人物』が写ってたはずなんだが……影も形もない」


 ヨイの視線が、画面の上を忙しなく動く。


「それに、残ってる二人……この赤ん坊と、隣にいるお母さんらしき女性の顔。見てみろよ。黒いペンか何かで、ぐちゃぐちゃに塗り潰されてる」

「う……ぅ」


 ヨイが思わず顔を顰め、身体を少し引いた。画像から醸し出される異質で禍々しい執念のようなものに、幽霊である彼女すら気圧されているらしい。


「あの人に『この写真は誰ですか』って聞いても、『分からない』って言われたよ。赤ん坊も、自分なのかどうかも分からないって。……ただ、『この赤ん坊を見てると胸が苦しくなる』『大切な子だった気がする』とは言ってた」


 橘平はスマホを閉じ、すぐ傍の畳の上に置いた。


「整理すると、こうだ。あの女性の未練は、間違いなく『誰かに自分の作った料理を食べてもらうこと』だ。だけど、その『誰か』が誰なのかを本人が忘れてしまっている。そして、その鍵を握っているのが、あの破られて顔を塗り潰された写真だ」


 ヨイは腕を組み、うーんと唸りながら長考に入った。小さな首を右に傾け、次に左に傾ける。


「なあ、ヨイ」

「う?」

「お前、さっきノートに十円玉で文字を書いて教えてくれたよな。『あの人、思い出させる、何か、きっかけ』って」

「う!」


 ヨイは誇らしげに深く頷いた。


「あの時は『写真』がそのきっかけになるかと思ったんだけど……甘かったよ。写真を見せても、記憶は戻らなかった。塗り潰されてるせいで、きっかけにすらならなかったんだ」


 そう言って、橘平は深く畳に背中を預け、天井を見上げた。雨漏りのシミがある古びた天井だ。


「でも、無駄じゃなかったと思う。少なくとも、狙いを絞ることはできた」


 橘平の言葉に、ヨイが顔を上げる。


「あの写真は破られてた。そして顔が塗り潰されてた。ってことはさ……あれをやった人間がいるはずだろ? あるいは、あの写真をあんな風に加工せざるを得なかった『理由』があったはずだ」


 ただの事故や経年劣化で写真の右側が破れ、顔だけがピンポイントで黒く塗り潰されるわけがない。そこには明らかな悪意か、あるいは深い葛藤と絶望の痕跡がある。


「あの写真に何が起きたのか。写真から消された『三人目の人物』は誰なのか。それを突き止めれば、あの人が料理を食べさせたがっている『大切な人』に辿り着けるかもしれない」


 橘平が力強く言うと、ヨイの瞳にパッと輝きが戻った。

 ヨイは畳の上に置かれたノートへ手を伸ばした。そして、滑らかな動作で十円玉の上に指を置く。


 すーっ……。


 十円玉がノートの上を滑り始めた。橘平は身を乗り出し、その動きを目で追う。


『た』『す』『け』『る』


 示された四文字を橘平が読み上げると、ヨイは真っ直ぐな目で橘平を見つめ、コクリと力強く頷いた。


「たすける……か。そうだな」


 橘平は思わず破顔し、気を引き締めるように深く息を吐く。


「隣の部屋の幽霊を助ける、なんてな。数日前の俺が聞いたら『正気か?』って頭を疑うところだけど……まあ、飯を一度ご馳走になっちゃったからな。タダ飯食っといて見捨てるわけにはいかねぇよ」


 もちろん、実際に食べたのはヨイの方なのだが、そこは野暮な突っ込みをしないでおいた。


「よし。じゃあ、まずは情報収集から始めよう」

「う!」

「幸い、ここは古いアパートだ。大家の神代さんか、不動産屋の明石さんに話を聞けば、あの部屋に昔どんな人が住んでたのか、何か分かるかもしれない」


 橘平の頭に、怪しげな笑顔を浮かべる胡散臭い大家・神代の顔と、煙草を吹かしていた苦労人風の不動産屋・明石の顔が浮かんだ。特に神代は、何か知っていそうな雰囲気をプンプンさせていた。一筋縄ではいかない相手なのは確かだ。


「神代さんは……なんか色々と探ってきそうで怖いからな。まずは明石さんに聞きに行ってみるか。『アパートの歴史に興味があって』とか適当な理由をつけてさ」


 橘平が方針を決めると、ヨイは嬉しそうに畳の上で「うー!」と両手を突き上げた。その動きに合わせて、彼女の長い黒髪がふわりと揺れる。


「……なぁ、ヨイ」

「う?」


 ふと、橘平は気になっていた疑問を口にした。


「お前、さっきなんであのタッパーの料理を食べられたんだ?」


 一瞬、ヨイの動きが止まった。


「昨日はノートのペンすら持てなかっただろ?  十円玉を滑らせるのが精一杯だったのに、今日は普通にタッパーを持ち上げて、中身をバクバク食べてたじゃないか。あれ、どういう原理なんだ?」


 ヨイは「うーん」と首を捻った。自分でもよく分かっていないらしい。自分の手をじっと見つめ、開いたり閉じたりしている。


「もしかして、死者が作った料理だったからか?」


 橘平の推測に、ヨイはハッとしたように顔を上げた。


「さっきお前、『死者の作ったものを生者が食べてはいけない』って言ってたよな。逆に言えば……『死者が作ったものは、死者なら食べられる』ってことなのか?」


 ヨイは「なるほど!」と言いたげにポンと(音は鳴らないが)手を打った。


「そうか……幽霊の作った料理だから、幽霊であるお前に干渉できたのかな。じゃあ、生きてる人間が作った食パンは、口に入れても消えちゃってたけど、幽霊の料理ならちゃんと満足感になるってことか」

「うー!」


 ヨイは自慢気にふふんと鼻を鳴らした。真相は定かではないが、あながち間違いでもなさそうだ。


「ま、何にせよ、お前が美味しく食べられたんなら良かったよ。……俺はちょっと怖くて口にできなかったしな」

「うー」


 ヨイが「意気地なし」とでも言いたげなジト目を向けてくる。


「しゃーないだろ! 呪われたら嫌だし! つーか、お前が完食したせいで俺の分は一口も残ってなかったろ!」

「う♪」


 ヨイは可愛らしく舌をペロ出し、悪びれる様子もなく笑ってみせた。

 調子のいい幽霊だ。けれど、この屈託のない笑顔を見ていると、先ほどまでの二〇三号室で感じていた重苦しい不気味さや、胸を締め付けられるような寂しさが、少しだけ和らいでいくのを感じた。


「……ハァ。さてと」


 橘平は立ち上がり、軽く身体を伸ばした。


「じゃあ、さっそく行動開始だ。明石不動産に行って、二〇三号室の過去について聞いてくるよ」


 橘平が玄関へ向かおうとすると、ヨイもすかさず立ち上がり、後ろをついてこようとした。


「おっと、ヨイ。お前はお留守番な」

「う!?」


 ヨイがショックを受けたように固まる。「なんで!?」と叫んでいるような顔だ。


「なんでって……お前、外に出れねぇじゃん」


 完全に忘れていた、とでも言いたげに目を大きく見開いて固まる。


「それに、外に出たら目立つだろ。明石さんの店にお前を連れて行ったら、またややこしいことになる。幽霊が見えるってバレたら、あの不動産屋にどんな対応されるか分からんし」


 それに、と橘平は言葉を継ぐ。


「さっき、お前が一人で留守番してる時、不安そうにしてたんだろ? ノートに『だいじょうぶ』って書いてさ」


 それを言われた瞬間、ヨイの顔がポッと赤くなった(ように見えた)。隠していたのを見破られたのが恥ずかしいのか、あたふたと手を振っている。


「見てたわけじゃないけどさ。ノートに残ってたんだよ。……ありがとな、心配してくれて。でも、もう大丈夫だ。俺は逃げたりしないし、必ずここに帰ってくるから」


 橘平は優しく微笑み、ヨイの視線と同じ高さになるように少し腰を落とした。


「だから、お前はここで待っててくれ。任せろ、俺が必ず手掛かりを持ち帰ってくる」


 ヨイは橘平の目をじっと見つめていた。

 やがて、諦めたように肩の力を抜くと、ゆっくりと首を縦に振った。


「う」

「よし、いい子だ」


 橘平は上着を羽織り、財布とスマホをポケットに突っこむと、玄関のドアを開けた。


「行ってくる」

「う!」


 背しろから送られる元気な声に見送られ、橘平は扉を閉めた。

 ガチャリ、と鍵がかかる音が響く。

 誰もいない静かな廊下に一人立った橘平は、拳をぎゅっと握り締めた。


 昨日までは、ただの不気味な事故物件でしかなかった『よいまち荘』。

 逃げ出したくてたまらなかったこの場所が、今では自分と、言葉を持たない幽霊少女・ヨイの「居場所」になりつつあった。

 二〇三号室の扉を一度だけ横目で見やる。

 扉の向こうでは、今もあの女性が、思い出せない誰かのために包丁を握り、届かない味を追い求めているのかもしれない。


(待っててくれよ。あんたの止まった時間を、俺達が動かしてやるからさ)


 橘平は覚悟を決めた足取りで、アパートの階段を駆け下りて行った。


 ――こうして再び、二人の未練探しが始まる。


 生きている人間である橘平と、死んでいる幽霊であるヨイ。本来ならば決して交わるはずのなかった二人が、一つ屋根の下で一つの謎を追いかけ始める。

 その先に、どんな残酷な真実が待っているのか。あるいは、どんな温かな救いが待っているのか。


 この時の二人は、まだ知る由もなかった。







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