お隣さん・5
橘平が部屋を出て行ってから、しばらくして。
ヨイは一人、畳の上にぽつんと座っていた。
部屋の中は何処までも静かで、嫌な寂しさが漂っている。
ほんの数分前までは、そこに橘平がいた。
冷蔵庫を開け閉めする重い音。何かを落としては「あー……」と上げる間の抜けた声。彼がここにいると示していた賑やかな気配は消え、今はヨイ一人きりだった。
「…………」
ヨイは膝を抱え、誰もいない玄関をじっと見つめた。
橘平は「すぐ戻る」と言って出て行った。頭では分かっている。分かっているけれど――。
「うぅ」
彼を追おうとした自分の手が、虚しく空をすり抜けた感触が脳裏を過る。
自分は幽霊だ。いざという時、何もしてあげられない。もしまた、あそこで恐ろしいことがあったら。もし、彼が二度と戻ってこなかったら――。
「んっ」
ヨイは小さく首を振り、嫌な想像を打ち消すようにふわりと身を浮かべた。
そのまま玄関へ向かおうとして――ピタリと動きを止める。
扉を挟んだ向こう側、橘平がいるはずの二〇三号室の方角を見つめたあと、意を決して部屋の中央へ戻った。
畳の上には、いつものノートと十円玉。
ヨイが手を翳すと、風もないのにすーっとページが捲られた。そこには、これまで橘平と交わした言葉がいくつも残されている。
『みれんがある』
『ここからでられない』
『ヨイ』
自分のことなのに、何も思い出せない。
どうしてここに縛られているのか。いつからここにいるのか。自分は誰で、何を遺して死んでしまったのか。
何も分からない。けれど――橘平は一緒に探してくれると言ってくれた。自分に代わって、止まった時間を動かそうとしてくれている。
「う、ぁ……」
ヨイは胸元をぎゅっと握り締めた。触れられないはずの胸が、何処か痛む気がする。不思議だった。たった数日一緒にいただけなのに、彼がいないだけで、どうしてこんなにも部屋が寒く不安に思えるのだろう。
ヨイは透けた指先を伸ばし、ペンを取ろうとした。けれど――すっ、と指先は虚しくペンを通り抜けてしまう。やはり、自分の手で文字を書くことはできない。
ヨイは眉を八の字に下げて寂しそうに笑うと、指を十円玉へと向けた。硬貨の上にそっと指先を重ね、辛うじて力を込めて滑らせる。五十音の上を辿り、足跡を残すように一文字ずつ示していった。
『だ』『い』『じ』『ょ』『う』『ぶ』
誰に見せるでもない。橘平を信じるための、そして自分を奮い立たせるための言葉。
ノートに示された言葉をじっと見つめ、ヨイは再び畳の上へ降り立った。橘平が笑ってドアを開けて帰ってくるまで、ここで待っていよう。
そう心に決め、ただひたすらに玄関の扉を見つめ続けていた。
*
橘平は、写真立てを両手で持ち上げた。
「あれ?」
そこで、妙な違和感に気づく。
写真は一見すると一枚の家族写真だった。けれど――その写真は、途中から大きく欠けている。まるで、紙そのものが破り捨てられたかのように、写真の右側がごっそりと失われていた。
「これ」
残された部分に写っているのは、小さな赤ん坊を抱く女性。
(なんなんだ、この写真)
女性の顔は、黒く塗り潰されていた。目も、鼻も、口も分からない。
赤ん坊の顔も同様。黒い染みのようなものが顔全体を覆い、誰なのか判別することすらできない。あまりにも不自然だった。意図的に破られたのか、長い年月の中で損なわれたのかは判断できない。
「この写真、誰が写ってるんですか?」
橘平が尋ねると、台所から移動してきた女性は手元の写真を覗き込んだ。しかし、しばらく眺めても答えは返ってこない。
「分からないわ」
「この赤ちゃんは?」
「分からない」
「じゃあ、右側が破られている理由は?」
掛けた空白部分を指差しても、女性は困惑した表情のまま首を振る。
「分からないのよ」
返ってくる答えは、どれも同じだった。女性は困ったように眉を寄せ、苦々しい顔をする。
「何も、覚えていないの。この写真を見ても、誰が写っているのかすら分からない」
橘平は黒く塗り潰された顔を見つめた。
目の前にいる女性と、写真の女性。髪型も服装も違うが、恐らく同一人物なのだろう。なのに――本人がそれを認識できていない。
「でも」
女性が、写真の中の赤ん坊へ指を伸ばした。けれど触れる寸前で、その指がぴたりと止まる。
「この子を見ていると……なんだか、胸が苦しくなるの」
「……?」
「大切な子だった気がするわ」
けれど、それ以上の記憶は引き出せない。名前も、年齢も、何一つ。
「不思議ね」
女性は寂しそうに笑うと、橘平のすぐ傍に座り込んだ。
「何も覚えていないのに――誰かに、料理を食べさせてあげたいって気持ちだけは残っているの」
「料理……」
「ええ。美味しいって、言ってほしいの」
「誰に?」
「……分からない」
「ご家族ですか?」
「分からないわ」
女性は静かに首を振る。その動きに合わせて、一瞬身体が強く透けた気がした。一度透けた身体が元に戻ってはまた透ける。感情の起伏に合わせて、身体が透ける具合が変わるのだろう。
「でも、その人に食べてもらわなくちゃいけない気がするの」
悲しげな女性の横顔を見て、橘平は言葉を失った。
彼女には、自分が誰なのかさえ分からない。誰を愛し、誰のために包丁を握っていたのかも。それなのに――。
「料理を作っていたことだけは、覚えてるんですね」
「そうね。どうしてかしら」
女性は愛おしそうに台所へ視線を向けた。
橘平はもう一度、手の中の写真を見下ろす。欠けた家族写真。黒く塗り潰された、女性と赤ん坊の顔。そして、姿を消した誰か。
謎ばかりだが、この写真がただの思い出の品ではないことだけは分かった。
――ここに、彼女の「未練」を解き明かす手がかりがある。
確かな予感だけが、橘平の胸の奥に深く刻まれた。




