お隣さん・4
「違う、違うの」
あの人が――と言ってくれた――は、こんなのじゃない。
もっと、もっと⋯⋯。
『ああ、懐かしい』
貴方、アナタ、あなた。
何処に、何処にいるの。
会いたいわ。あいたいワ、あいた⋯⋯。
*
「……まあ、いくら考えても今は答えなんて出ないか」
橘平はダイニングテーブルの上に置いたタッパーを見た。
「けど、せっかく向こうから直接手がかりを届けてくれたんだ。まずはこれを調べてみよう」
「う!」
ヨイも元気よく短く頷く。
橘平はタッパーの透明な蓋をじっと見つめた。
「問題は……」
そもそも、これが何という料理なのかだ。
蓋を開ければもう少し詳しく分かるのだろうが、さっきヨイから「死者の作ったものは食べちゃダメだ」と忠告されたばかりである。さすがに興味本位で口にする度胸はない。
「匂いを嗅ぐくらいなら……まあ、害はないよな?」
「う?」
「いや、俺に聞かれても困るけどさ」
橘平は息を呑みながら、慎重にタッパーのフタの爪を外した。
パカッと音を立てて蓋を開けると、ふわりと出汁と醤油の温かな香気が部屋いっぱいに広がった。
「……うわ、すごくいい匂いだ」
ぐう、と間抜けなお腹の音が鳴る。
「…………」
ヨイがジト目になり、じっと橘平の顔を見つめてきた。
「食べないって! 匂いに反応しただけだって!」
「う」
「そんなに信用ないか?」
「う」
「即答かよ」
橘平は苦笑しながら、タッパーの中身をじっくりと覗き込んだ。
「……これ、何だろうな」
具材には味がよく染み込んでいて、煮物のようにも見える。けれど一人暮らしを始めたばかりで料理の知識がほとんどない橘平には、正確な料理名までは分からない。
「ヨイ、これ何だか分かるか?」
ヨイもタッパーに顔を近づけ、真剣な目つきで料理を覗き込んだ。
しばらく観察していたものの、やがて困ったように首を横に振る。
「だよなぁ……」
橘平はポケットからスマートフォンを取り出した。
「写真を撮って、画像検索してみるか」
カメラを構えてパシャリと撮影し、検索フォームに思いつくキーワードを打ち込んでいく。
「……『家庭料理 煮物 和食 根菜』……っと」
画面には肉じゃがや筑前煮など、さまざまな料理の画像が表示される。けれど、手元にある料理と完全に一致する決め手には欠けていた。
「うーん……」
橘平は唸りながら眉を顰めた。
「料理の写真だけじゃ、誰が何のために作ったかまでは特定できないか……」
ヨイも橘平のスマホ画面とタッパーを交互に見比べながら、腕を組んで悩んでいる。
「でも……」
橘平はふと、目の前のタッパーを見下ろした。
「あの人がこれをわざわざ俺の部屋まで持ってきたってことは、絶対に何か理由があるはずだ」
さっき訪ねてきた二〇三号室の女性。
初対面のときに包丁を握り締めていた姿。
床に大量に撒き散らされていた食材。
そして、今日こうして届けてくれた、この温かい料理。
「……やっぱり、あの人が探してる未練って――」
橘平の脳裏に、あの荒れ果てた二〇三号室の光景がフラッシュバックする。
散らかった調理器具に、買い込んできたばかりのような食材の数々。
彼女は何かに取り憑かれたように、何度も何度も『この料理』を作ろうとしていたのではないか。
「この料理そのものが、あの人の未練に直接関係してるんじゃないか?」
「……!」
ヨイがハッと目を見開いた。
「まだ確信はないけど……」
橘平はタッパーの中で静かに湯気を立てる料理を見つめた。
「少なくとも、この料理の正体を調べる価値は大いにありそうだ」
こうして、橘平たちの最初の手がかりは――恐怖の対象だった幽霊から届いた、思いがけず温かな手料理という形で、二人のもとへ転がり込んできたのだった。
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「……ん……」
橘平は布団の中でもぞもぞと身じろぎをした。
春休み中だから、別に朝早く起きて学校へ急ぐ必要もない。
それでも、昨日は怒涛の如く色々ありすぎたせいか、随分と深く寝入ってしまっていたようだ。
「……起きないとなぁ」
大きな欠伸を一つ噛み殺し、身体を起こす。
そして――。
「…………」
目の前の光景に、橘平はそのままフリーズした。
「…………は?」
部屋の隅にある小さな冷蔵庫の前。
そこに、ヨイがいた。いや――正確には。
「お前……何してんの?」
「う?」
ヨイがひょっこりと振り返る。
その小さな両手には、昨日二〇三号室の女性からもらった、あのタッパーが握られていた。
「…………」
橘平はゴシゴシと目を擦った。
もう一度、見開いて見る。
やっぱりヨイだ。
そして、彼女の口元には煮物のタレがしっかりと付いていた。
「……食ってる?」
「う!」
ヨイは何の躊躇いもなく、タッパーの中身をもう一口、パクリと口に運ぶ。
「いやいやいや!」
橘平は慌てて布団を跳ね除け、飛び起きた。
「待て待て待て!」
昨日は確かに、物理的に触れることすらできなかったはずだ。
ヨイの手は虚しくタッパーをすり抜けていた。
それなのに、今は――。
「なんで普通に持ち上げられてんだよ!?」
「う?」
「いや、そこじゃない! なんで食べてんの!?」
橘平はタッパーを引き寄せて、その中身を覗く。
タッパーの中身は、確実にその量を減らしていた。
生前に食パンを食べた時のように、幽体離脱して実態はカスカスに乾いているわけでもない。料理そのものが、実体としてちゃんと減っているのだ。
「…………」
ヨイはそんな橘平のパニックなど知ったことかと言わんばかりに、黙々と口を動かし続けている。
「おい……」
「う」
「お前、昨日触れなかったよな?」
「う!」
「じゃあ、なんで今日は……」
橘平が言いかけたその瞬間、ヨイが最後の一口をぱくりと口の中に放り込んだ。
「…………」
橘平が見つめる中、ヨイは実に満足そうに頬を緩ませる。
「……美味かったか?」
「う!」
満面の笑みで、弾けるように頷いた。
その笑顔を見て、もう何もかもどうでも良くなる。美味しかったならもういいか。
「……そうかよ」
あまりにも幸せそうで誇らしげな顔をするものだから、橘平はそれ以上追及する気が失せてしまった。
「けど、また謎が増えたな」
昨日まで触れられなかったはずのものを、今日はこうして平然と食べることができている。
それが何を意味しているのか、今の橘平には知る由もない。
「まあ、いいか」
溜息を吐きつつ、一先ず空になったタッパーを手に取った。
「これ、ちゃんとお礼を言ってお返ししないとな」
「う?」
「ついでに……」
橘平は壁一枚隔てた二〇三号室の方へ、静かに視線を向けた。
「もう一回、あの部屋を見せてもらう」
昨日は恐怖に流されて逃げ帰ってきてしまった。
けれど、こうして手料理をもらった今なら――少しくらいは落ち着いて話を聞けるかもしれない。
「もしかしたら、あの人の記憶を取り戻す手がかりが見つかるかもしれないしな」
ヨイが、こくりと力強く頷いた。
「よし、じゃあ行くか」
橘平は空のタッパーを抱え直し、玄関へと向かう。
昨日とは違う。
今度は誰かに追われるのではなく、自分の足で二〇三号室へと向かうのだ。
あの薄暗い部屋に眠る、彼女の『未練』を解き明かすために。
それから部屋にヨイを残し、橘平は空になったタッパーを片手に、二〇三号室の前までやってきた。
「…………」
昨日は、この扉を前にしただけで足が竦んでいた。
けれど今日は、昨日ほどの恐怖はない。
少なくとも――理由もなく包丁を持って襲いかかってくるような人ではないはずだ。
橘平は小さく深呼吸をして、インターホンを押した。
――ピンポーン。
「はーい」
すぐに、中から柔らかい返事が返ってきた。
(……やっぱ、普通なんだよな)
昨日の狂気じみた姿を思い出し、橘平は苦笑する。
「あら、長谷川君」
扉を開けた女性が、ぱっと顔を綻ばせた。
その姿を見てしまうと、昨日の光景の方が幻覚だったのではないかと思ってしまう。
「おはようございます」
「おはよう。どうしたの?」
「あの、さっきいただいたこれ……」
橘平は空になったタッパーを差し出した。
「すごく美味しかったです。ごちそうさまでした」
「あら、もう食べたの?」
「はい」
その言葉に、女性は心から嬉しそうに目を細めた。
実際は自分ではなく、同居人の幽霊が全て食べたのだが。そのことは黙っておこうと、橘平は苦笑いを浮かべた。
「それならよかったわ。口に合わないかと思って少し心配だったの」
「……あの」
橘平は少し言葉を濁してから、女性の肩越しに部屋の中へ視線を向けた。
昨日は締め切られていたカーテンが、今日は僅かに開いている。
朝の光が差し込む室内は、昨日の薄暗さが嘘のようだった。ただ、床にはまだ鍋やフライパン、買い込まれた食材がいくつか転がったままだ。
「昨日は勝手に入ってしまってすみませんでした。ちょっとすごい音がしていたので、気になってしまって……」
「ああ」
女性は困ったように、気まずそうに笑った。
「ちょっとね、料理を頑張りすぎちゃって」
「料理を、ですか?」
「ええ。どうしても、思い出したい味があってね」
「……思い出したい味?」
女性は一瞬だけ口を閉ざした。そして、寂しげな視線を奥の小さな台所へ向ける。
「ねぇ、今お時間あるかしら?」
「え? ええ、まあ」
「少し、お喋りに付き合ってちょうだい」
促されるままに部屋の中に入り、ダイニングテーブルの椅子に座る。
昨日と同じようにシンクの前に立った女性は、橘平が持ってきたタッパーを洗い始めた。
「これに入っていたのはね、昔、よく作っていた料理なの」
その横顔には、何処か遠くを愛おしむような影が差していた。
「何度作り直しても……どうしても、あの頃の味と違う気がして」
橘平は、昨日の部屋の惨状を思い出した。
床に転がった調理器具。
あちこちに散乱していた食材。
何度も、何度も試行錯誤を繰り返していた痕跡。そして――握り締められていた、あの包丁。
「もしかして」
橘平は改めて部屋の中を見渡した。
「俺にくださった料理も、それを思い出すために?」
「ええ。誰かに、もう一度『美味しい』って食べてもらいたくて」
「誰に……ですか?」
その問いを口にした直後、女性の口元から、ふっと笑みが消えた。けれどすぐに、柔らかな表情に戻る。
「大切な人よ」
答えたのは、それだけだった。
橘平も、それ以上は踏み込んで聞けなかった。
「……そうですか」
玄関から、部屋の中へ一歩だけ意識を巡らせる。
昨日は恐怖で周囲を見る余裕なんて一切なかった。けれど、今なら少しだけ落ち着いて見渡すことができる。
何かないか。
彼女が囚われている「未練」に繋がるような、何か決定的なものが。
床の食材。
使い込まれた調理器具。
そして――壁際に置かれた、小さな飾り棚。
「……あれ?」
橘平の視線が、ぴたりと止まった。
棚の上に、ぽつんと置かれているものがある。
少しホコリを被った――古い写真立てだった。
「…………」
橘平は思わず目を細め、それを凝視する。
「長谷川君?」
「あ、すみません」
女性の声に呼び戻され、我に返る。
けれど、あの写真立てだけが妙に胸に引っかかった。
もしかしたら、あれが、この人の止まってしまった時間を動かすための、大事な手がかりになるんじゃないか。
「あの、あれ、見てもいいですか?」
橘平が棚を指差すと、女性は少し驚いたように写真立てへ目を向け――。
「……ええ、どうぞ」
静かに、優しく頷いた。




