お隣さん・3
「てなわけで、俺、あの人の未練を探すよ」
そう言って、橘平は畳の上に座ったまま、押し入れへ視線を向けた。
襖の隙間から、どんよりとした負のオーラが漂っている。
「……ヨイ?」
呼び掛けても返事はない。
代わりに、押し入れの暗闇から「裏切り者」と言いたげな恨めしい視線だけが飛んでくる。
「いや、その顔はやめてくれって」
「…………」
「ごめん。ほんとごめん」
橘平は苦笑いを浮かべながら、両手を合わせた。
「しばらくヨイの未練探しはできそうにない。でも、放置するわけじゃないし、並行して少しずつ探していくから」
神代相手とは言え、あの女性の未練を探し出すと言ってしまった以上、もう後戻りはできない。
ヨイの未練探しも急がねばならないが、あの女性の荒れようを見る限り、まずはあちらを優先せざるを得ないだろう。
「だから、そんな『捨てられた子犬』みたいな顔すんなよ」
すると、押し入れの中で丸まっていたヨイがもぞもぞと動いた。
やがて、渋々といった様子でノソノソと這い出してくる。
「お、出てきた」
ヨイは畳の上まで歩いてくると、橘平の目の前に置かれたノートへ真っ直ぐに向かった。
「どうした?」
ヨイはノートを何度も何度も指差し、必死に何かを訴えている。
ノートを開いてページを捲りながら、橘平は彼女が何を伝えようとしているのか察しようとした。
「……ノート?」
「う!」
ヨイはもどかしそうに首を縦に振ると、昨日と同じように、ノートの中央に置かれた十円玉を指差した。
「ああ……そっちか」
橘平は十円玉の上にそっと指先を置く。
「じゃあ、何が言いたいのか教えてくれ」
ヨイはすっと目を閉じると、指先から長い髪の毛先まで、全身の神経を研ぎ澄ませた。
橘平は真っ直ぐノートへ視線を落とし、ゆっくりと硬貨が紙の上を滑り始める様子を見つめた。
何の変哲もない十円玉から、指先を伝って微かな温もりが広がっていく。
すぅ……。
十円玉が進んだ先にある文字は、「あ」。
「……あ」
続いて、「し」。
「あ……し……?」
橘平が首を傾げている間も、十円玉はスイスイとノートの上を滑っていく。
次に示された文字は、「ん」。
「……あ、し、ん?」
「うー!」
ヨイが違うと言いたげに、ぷくーっと頬を大きく膨らませる。
「いや、急に『あしん』とか言われても分からんって」
橘平が参ったように苦笑すると、十円玉が再びゆっくり動き始めた。
今度は一文字ずつ、慎重に刻むように指し示していく。
「あ」
「の」
「ひ」
「と」
橘平は並んだ文字を目で追い、頭の中で組み立てていく。
「……あの人?」
「う!」
「あの人が、どうしたんだ?」
あの人というと、もしかせずとも今朝方大暴れしていた二〇三号室のあの女性か?
まさか、橘平が二〇三号室から怯えて飛び出した時に叫んでいた声も、全部ヨイに聞かれていたのだろうか。
これだけ築年数が古くて壁が薄ければ、十分にあり得る。そう思うと、途端に嫌な汗が吹き出してきた。
「お」
「も」
「い」
「だ」
「す」
「……思い出す?」
思わず呟くと、ヨイは満足げに強く頷いた。
「な」
「に」
「か」
「……何か?」
ヨイはまたコクコクと頷いた。
そして、十円玉が次に指し示した文字は――「き」。
「……『何か、聞き』?」
「うー!」
なかなか伝わらないことに痺れを切らしたのか、ヨイは頭を抱えてブンブンと首を振る。
「違うのか? 『何か、きっかけ』とかか?」
「うう!」
ヨイは「惜しい!」とばかりに首を振り、五十音表の一部分を何度も小さな指で叩いた。
「き……じゃなくて、その横?」
「う!」
「……『こ』?」
ヨイがバッと顔を上げて頷いた。
少しずつ頭の中で言葉が繋がり、その安心感から橘平の引き攣っていた表情が和らいでいく。
「『あの人、思い出す、何か、き……』あ、『きっかけ』じゃなくて『きっかけの……』」
そこまで口にしたところで、橘平はハッと顔を上げた。
「……待て。もしかして、お前――」
橘平の指の下で、十円玉がすーっと文字を辿る。
「み」
「れ」
「ん」
「……未練?」
ヨイは満足そうに大きく頷いた後、真剣な眼差しを向けた。
そして、締めくくるようにもう一度だけ十円玉を動かす。
「お」
「も」
「い」
「だ」
「す」
「……『未練を思い出すきっかけ』?」
「う!」
「あの人の未練を探すなら、何かを思い出す手掛かりになる『きっかけ』があるはずだって言いたいのか?」
「うーー!」
ヨイがパッと表情を輝かせ、嬉しそうに両手を上げた。
「なるほどな。ただ闇雲に探すんじゃなくて、本人の記憶を揺さぶる『きっかけ』を探せばいいのか」
橘平は顎に手を当て、深く腕を組んだ。
『死んだ後もこの世に留まる理由がある奴は、大抵なんかしらの心残りを抱えとる。会いたい人がおるとか、やり残したことがあるとか、伝え忘れたことがあるとか』
あの時、神代は何と言っていただろうか。
『死んだ直後の奴なら、まだ自分が何者で何を望んどるか覚えてることも多い。せやけど、長いことこの世に縛られとると、生前の記憶がどんどん薄れて曖昧になっていく』
『じゃあ、あの人も……』
『自分が一体何をしたかったのか、本人すら分からんくなってる可能性がある』
あの女性もヨイと同様に、自分自身を失っているのだろうか。
そうなると、始めにするべきは、彼女自身に「自分は何者なのか」を気づかせること。
「よし。じゃあ、まずは二〇三号室をもう一回調べてみるか」
ヨイは満足そうに、コクコクと何度も頷いた。
「俺達、案外いいコンビかもな」
「う!」
ヨイは照れくさそうにしながらも、少しだけ得意げに胸を張った。
「つっても、あの部屋をもう一回調べるってのはなぁ……」
橘平は、さっきまでの勢いをすっかり失って肩を落とした。
脳裏に浮かぶのは、あの薄暗い二〇三号室の光景。
足元に散乱した鍋やフライパン。
床に散らばった食材。
そして――包丁を握り締め、虚ろな目で見つめてきた、あの女性。
「……怖いんだよな、普通に」
「う?」
押し入れのその先にある二◯三号室の方向を見つめると、ヨイが不思議そうに首を傾げた。
「いや、お前は怖くないのかよ」
「う!」
ヨイはポンと胸を張ってみせた。
『自分は幽霊だから、幽霊を怖がったりしない』
まるでそう言いたげな堂々とした態度である。
「……そうですか。俺は普通に怖いです」
そもそも、幽霊という存在に少しずつ慣れてきたとはいえ、ヨイとはワケが違う。相手はさっき初対面で包丁を持っていたのだ。
あれが本当に料理のためだったなんて、今の橘平には知る由もない。
「でも、行かなきゃ何も分からないんだよな」
「う」
「分かったよ……腹括るか」
橘平が重い腰を上げようとした、その瞬間だった。
――ピンポーン。
「…………」
「…………」
部屋の空気が、ぴたりと凍りつく。
「……今」
ヨイが怯えたように、ゆっくりと橘平を見上げた。
「インターホン、鳴ったよな?」
「う……」
――ピンポーン。
「…………」
橘平の背中に、じっとりと嫌な汗が伝った。
この部屋を訪ねてくるような知り合いなど、今の橘平にはいないはずだ。
「誰だよ」
橘平はぽつりと呟き、玄関扉を睨み付ける。
見れば、威張っていたはずのヨイはいつの間にか橘平の背後へと回り込み、服の裾(すり抜ける指先)を握るような仕草で隠れていた。
「お前、一応幽霊だろ」
「う……」
「なんで俺の後ろに隠れるんだよ」
――ピンポーン。
三度目の呼び鈴が、静かな部屋に無機質に響く。
橘平は恐る恐る玄関へと視線を向けた。
まさか。
そんなはずはない。
でも――さっき、自分が勝手に入り込んで飛び出してきた、二〇三号室。
そこで出会った、あの包丁を持った女性。
もしも彼女が、自分の部屋を出てここまで追ってきたのだとしたら――。
「…………」
橘平はゴクリと生唾を飲み込んだ。
足音を立てないように、忍び足でゆっくりと玄関へ近づく。
鉄製のドアの前までたどり着き、ドアスコープへ顔を近づけようとして――。
「こんにちは」
その前に、薄い扉一枚を隔てたすぐ向こう側から、女の声がした。
橘平の全身が、金縛りに遭ったように完全に硬直する。
聞き間違えるはずもない。さっき二〇三号室で聞いた、あの虚ろで静かな声だ。
「…………っ!」
橘平の背後で、ヨイが小さく悲鳴を殺して震えた。
そして――ドアの向こうから、もう一度。
「そこに……いますよね?」
橘平は、息をすることすら忘れてその場に固まった。
開けるべきか。それとも、無視して息を潜めるべきか。
脳裏に過るのは、さっき二〇三号室で目にした恐ろしい光景だ。
薄暗い部屋。
足元に散乱した調理器具と食材。
そして、虚ろな目をして出刃包丁を握り締めていた女性。
(……いや、でも)
扉の向こうから聞こえた声は、どう考えてもあの女性のものだ。
覚悟を決め、橘平は静かにドアノブへ手を伸ばした。
「はい」
チェーンを掛けたまま、ほんの少しだけ扉を開ける。その隙間から外を覗き込んだ橘平は――驚きで目を丸くした。
「こんにちは」
そこに立っていたのは、確かにさっきの女性だった。
けれど、先ほどとはまるで印象が違う。
柔らかく穏やかな笑みを浮かべ、両手には大きな透明のタッパーを大事そうに抱えていた。
「さっきは、突然失礼なところを見せちゃってごめんなさいね」
「え?」
「驚かせてしまったでしょう?」
「あ、いや……まあ……」
女性は申し訳なさそうに、ふふと小さく笑った。
その表情からは、さっきまでの気味の悪い虚ろさや狂気は一切感じられない。
何処にでもいる、近所の親切で気のいいご近所さん。そんな佇まいだった。
「実はね、今日はお昼ご飯を作りすぎちゃって」
「……お昼、ですか?」
「ええ。一人じゃ食べきれなくてね。もしよかったら、召し上がっていただけないかしら」
そう言って、女性はタッパーを両手で差し出してきた。
毒気のない笑顔に気圧され、橘平はドアチェーンを外して、思わずそれを受け取っていた。
「え、あ……わざわざありがとうございます」
「いいのよ。若い男の子なら、これくらいぺろりと食べちゃうでしょう?」
「いや、まあ……」
タッパーの隙間から、ふわりと出汁の効いた温かな匂いが漂ってくる。
緊張が解けた反動もあって、橘平の腹がぐう、と情けない音を立てて鳴った。
「…………」
「…………」
「……すみません」
女性が楽しそうにくすくすと笑う。
「ふふ、お腹が空いていたのね」
「はい……」
気恥ずかしさに頬を掻きながら、橘平はぺこりと頭を下げた。
「本当にありがとうございます。いただきます」
「どういたしまして。じゃあ、またね」
そう言うと、女性は静かに背を向け、隣の二〇三号室へと戻っていった。
橘平も扉を閉め、鍵を掛ける。
「…………」
しばらくの間、玄関でそのタッパーを抱えたまま立ち尽くした。
「……普通に良い人だったな」
さっきの恐怖が嘘のようだ。
何なら、このアパートに引っ越してきてから初めて経験した、まともな近所付き合いと言ってもいい。
「わざわざ手料理まで届けてくれたし……」
橘平はタッパーの重みを感じながら、少しだけ頬を緩ませた。
「よかった。今日のお昼代、浮いたな」
そんな呑気なことを呟きながら、るんるんと自室の畳へと戻っていく。
「ただい――」
言いかけた、次の瞬間。
「――うっ!?」
押し入れから何かが勢いよく飛び出してきた。
「うわっ!」
冷たい気配が身体をすり抜け、橘平は体勢を崩して危うくタッパーを落としかける。
「おいヨイ、危ないだろ!」
「う! うう!」
ヨイの様子は凄まじい迫力だった。
橘平の腕を掴もうとしては何度もすり抜け、半泣きのような顔で猛烈に首を横に振っている。
「なんだよ急に?」
「うう! うー!」
ヨイは橘平の抱えているタッパーを必死に指差す。そして、ダメだと言わんばかりに力いっぱい首を振った。
「これ?」
「う!」
「……食べるなって言うのか?」
「うう!」
「いや、でも……」
橘平は手元のタッパーを見つめる。見たところ、ごく普通の家庭的で美味しそうな手料理だ。
「せっかくお隣さんが作ってくれたんだし……」
「うーっ!」
ヨイはさらに激しく首を振り、髪を振り乱しながら抵抗する。
「……なんでそんなに必死なんだよ」
「う……!」
ヨイは一瞬だけ悔しそうに顔を歪めると、慌てて畳の上のノートへ向かって駆け寄った。
五十音表が書かれたページ。そして、その中央に置かれた十円玉を、震える指先で何度も何度も叩く。
「……はいはい、分かったから」
橘平は苦笑しながらヨイの隣にしゃがみ込み、十円玉に指先をそっと添えた。
「聞くから、落ち着けって」
指を重ねた瞬間、十円玉がこれまで見たこともないような強い勢いで走り始めた。
まるで――
『絶対に食べちゃダメだ』
と、激しい警告を叩きつけるかのように。
十円玉が、ゆっくりとノートの上の文字盤を滑っていく。
「えっと……」
橘平は目の動きで硬貨を追いながら、ぽつりぽつりと読み上げていく。
「『し』……『しゃ』……?」
続いて、十円玉がすーっと文字を辿る。
「『の』……『つ』……『く』……『り』……『た』……『も』……『の』……?」
「う……!」
「……『死者の作ったもの』?」
ヨイが大きく頷いた。橘平の表情が少し強張る。
「……死者が作ったものが、どうしたんだ?」
十円玉が再び動く。
「い」
「き」
「て」
「る」
「ひ」
「と」
「は」
「た」
「べ」
「な」
「い」
橘平の顔から、じわじわと血の気が引いていくのが分かった。
「……『生きてる人は、食べちゃいけない』?」
「う……」
ヨイは今度は静かに、深く頷いた。
ますますわけが分からなくなり、橘平はノート上の五十音を睨み付ける。
「なんで……?」
消え入る声で呟くと、十円玉の動きがピタリと止まった。
張り詰めた嫌な空気が部屋を満たす。
ヨイはしばらく困ったように首を傾げ、俯いていたが、やがてゆっくりと硬貨を動かし始めた。
「し」
「に」
「ち」
「か」
「づ」
「く」
「……『死に近づく』?」
「う」
橘平は、手元にあるタッパーを見下ろした。
さっきまで暖かくて美味しそうに見えていた料理が、急に恐ろしい呪いの塊のように思えてくる。
「つまり、これを俺が食べたら……」
「!」
ヨイは慌てて首を横に振り、橘平の周りをぐるぐると回り始めた。
やけに慌てた様子の彼女を目で追いながら、橘平は独り言のように言う。
「死ぬのか?」
「うう!」
「じゃあ……どうなるんだよ」
ピタリと動きを止め、首を傾げる。ヨイにも、そこから先のことまでは分からないらしい。
「……分からないのか?」
「う……」
「いやいやいや。じゃあ、この料理どうすんだよ」
せっかく好意で貰った料理だ。捨ててしまうのも申し訳なくて気が引ける。かといって、食べるわけにもいかない。
「……参ったな」
橘平が途方に暮れてタッパーを持ち上げると、ヨイは何かを思いついたようにパッと顔を上げた。
「う?」
「ん?」
ヨイがタッパーを指差し、何かを訴え始めた。
「これ、お前に渡せばいいのか?」
「う!」
橘平が目の前に差し出すと、ヨイは小さな両手をタッパーへ向かって伸ばした。
すっ。
ヨイの両手は、何の手応えもなくタッパーをすり抜けた。
「あ⋯」
ヨイは残念そうに眉を八の字に下げ、全身からやるせなさを体現する。
「やっぱり無理じゃん」
「う……」
「まあ、お前は幽霊だしな。物理的に物を持てるわけないか」
橘平は何の疑問も抱かずに苦笑した。
けれど――ヨイは少し考えた後、自分の透けた手と、橘平の手首を交互に指差した。
「……俺?」
「う!」
「俺が持ってれば問題ないのか?」
「う! う!」
「分かった分かった」
橘平はタッパーを抱え直し、背後で不安げな顔をするヨイに振り返る。
「とりあえず、これは置いておく。食べるかどうかは……神代さんにでも相談して、後で考えよう」
「う!」
ヨイは嬉しそうに頷くと、タッパーを運ぶ橘平の後ろを、パタパタと足音を立てずに追いかけていく。
「……それにしても」
ダイニングテーブルの上にタッパーを置き、橘平は何気なく呟いた。
「俺、この部屋に引っ越してきてから変なことばっかりだな」
幽霊が見える。
幽霊と話せる。
そして今では、こうして幽霊と一緒に生活している。
けれど――それらの異常事態が、自分の中で何処か「当たり前」になりつつあることのほうが、何より不思議だった。
そんな橘平の背中を、ヨイが静かに見つめている。
彼女もまた、まだ知らない。
どうして橘平だけが、自分達のような存在を鮮明に認識できるのか。
どうして、本来なら「あちら側」の住人であるはずの自分達と、彼が当たり前のように境界を越えて触れ合えているのか。
その恐ろしい答えを――二人はまだ、何も知らなかった。




